トマトのありがとうはまた来週
「あっ、やだあ」
背後から聞こえたのは、悲鳴にも似た妙な声。せっぱ詰まったようなものではないとはいえ、一体何があったのか。洗いかけ、サラダ用のレタスはシンクの淵に置いて。わたしはくるりと振り返る。
「みつき、何、どうしたの?」
「あ、
先ほどの声を上げた本人、みつきは、包丁を右手に握りしめながら謝った。まずはそれ置きなよ、危ないなぁ。わたしがそう指摘すると、そこで初めて右手の包丁の存在に思い至ったのか、彼女は苦笑を唇に浮かべた。
わたしとみつきの様子に気付いたのか、コンロで炒め物をしたり、食器の用意をしていた、残りの三人も近くに寄ってくる。わたしとみつきとその三人と。一年F組、調理実習第五班、全員が一カ所に集まったことになる。
「やっだ、みんなまで。……えっとね、ごめん。そこまで大事なわけじゃないんだけど……」
包丁はまな板の脇に。そしてみつきが謝りながら指し示したのは、そのまな板の上に置かれた赤いトマトだった。丸々としたそれが計五つ。真ん中に置かれたその内の一つのことを、みつきは伝えたいらしかった。
「ありゃ、潰れちゃってるね」
「包丁切れなかった?」
周囲から口々に言われる言葉に、みつきはゆるゆると頷く。彼女が指し示した真ん中のトマト。へたをまな板側に、赤いお腹をこちらに向けたそれは、形を微妙に崩していた。そう、赤のお腹に引かれた線からして、鋭さを欠いたその包丁で無理に切ろうとして、柔らかなトマトを押し潰してしまったらしい。
「どうしよっか……他の包丁も同じ感じっぽいんだよね……」
みつきがため息を落としながら言うと、わたし以外の他の三人が顔を見合わせた。他の班から包丁借りる? 先生に言って、研ぎ石とか貸してもらおうよ。次々に出始める打開案は確かに現実的ではあったのだけど。
――別にそこまでしなくても。
わたしは小首を傾げ、口を開く。
「包丁借りるね?」
「文乃?」
「えっとね、そこまでしなくても……包丁の柄に近いとこからなら、切れるんじゃないかなって」
わたしは包丁を取り上げ、まな板のトマトに向き合う。握りしめたその柄の近く、垂直に尖った部分をトマトに切り入れた。するり。押し潰されることなく、その赤色は包丁の刃を飲み込んだ。柄の近く、包丁の根本から刃先に向けて、滑らすように手を動かせば、トマトはぱっくりと二つに割れた。半球がまな板の上でころんと揺れる。
「え、嘘」
「文乃、すっごい」
みつきも含めた、班の四人が賞賛の目で見つめてくるのに、わたしは慌てて手を振って否定する。そんなに誉めてもらえるような、凄いことをやったつもりはないのだ。
「え。ちょ、みんな、やめてよ」
「だって、全然その包丁切れなかったのに……何で?」
「あ、いや、だって。包丁で一番使うのって真ん中の辺りでしょ? 柄の、根本の辺りなら、刃こぼれもしてないだろうから、ちゃんと切れるんじゃないかなって。ほら、みつき」
「ありがと文乃、やってみるっ」
わたしが包丁を差し出すと、みつきが嬉しそうな表情を浮かべながら受け取る。そしてしげしげとその刃を見つめて、ここから切れば良いんだよね……なんて呟いた。他の三人もしばらくは心配そうに見つめていたが、みつきがテンポ良くトマトを切り始めたのに、安心したようで。それぞれの手持ちの仕事へと戻っていった。
――さて、わたしもレタスレタスっと。
置きっぱなしだったレタスを再び流水にくぐらせていると、とんとん、という包丁の音に紛れて呼び声が聞こえた。
「ねえ文乃ー?」
「なあに、みつき」
わたしが振り返らないままに返事をすると、さっきのさ、とみつきの言葉が続く。
「誰かに教えてもらったの? あたし初めて知ったからさ。それか、テレビの裏技番組みたいなの?」
「包丁のあれ? そんな大したもんじゃないよ」
そう。そんな、裏技と言うほどのものではなくて。もっと些細な、生活の知恵というレベル。それを教えてくれたのは――
* * * * *
「ちょっと文乃、お鍋!」
「え、あ、ごめん!」
呼びかけられた鋭い声に、惚けていた頭が一瞬で引き締まった。途端、視界に入ってくるのは吹きこぼれそうなお鍋。わたしは慌ててコンロの火を弱火にした。
「あっぶ、な……っ」
「もう、駄目じゃない、火をかけたらぼうっとしちゃ」
隣で玉ねぎを刻んでいた母は、まな板だけでなくて、コンロの方も目をやっていてくれたらしい。母の言葉が無ければ確かにお鍋は吹きこぼれて、大変なことになっていただろう。だから母のお小言に、わたしは素直に頭を下げた。ごめんなさい、気をつける、と。
しょうがないわねえ。そんな表情を浮かべながらも、わたしの謝罪を母は受け入れてくれたらしい。それ以上のお小言は降って来なかった。そして母は、切り終わった玉ねぎを指し示す。
「お鍋の中のじゃがいも、煮えてると思うから、玉ねぎ入れてくれる? そしたら文乃、次……どうするんだっけ?」
母は悪戯っ子のような、楽しげな瞳でわたしの方を見つめてくる。どうするんだっけ、と問いかける口調は弾んだボールのようだった。ルールは知ってるでしょ? だから一緒に遊びましょ、とでも言われているかのようで、わたしは思わず苦笑する。
「玉ねぎは半透明になるまで煮て、お出汁入れて、お味噌でしょ?」
「お味噌を入れたら火は?」
「沸騰する前に止める」
「文乃、正解。じゃあその通りやってね」
嬉しげな声を落として、母はくるりと冷蔵庫の方へと身体を向ける。一方わたしは、火加減を見ながら玉ねぎを入れて――コンロから気を逸らさないようにしつつも、そっと母の背中へと目を滑らせた。視線の先、冷蔵庫に向かった母のその右の指先が、指揮をするかのようにゆらゆらと空中で揺れていた。
冷蔵庫の豚肉は炒める直前に出せば。キャベツは刻んだし。小松菜の胡麻和えは後は小鉢によそうだけ。切れ切れに聞こえてくる小さな呟きは、これからの手順を確認するためのものだろう。歌を口ずさんでいるかのような母の様子に、わたしの口元にも自然と笑みが浮かぶ。
くつくつ、と手元の鍋が音を立てた。わたしは慌てて瞳を母の背中から、コンロにかけた鍋へと戻す。水面が揺れて、透明になった玉ねぎが鍋の中で踊っている。菜箸でかき混ぜてやれば、既に煮えたじゃがいもが、玉ねぎとぶつかってほろりと崩れた。
――ええっと、そろそろお出汁、お出汁、っと。
顆粒の出汁の素をスプーン山盛り一杯。お湯の中に散らしたら、次は味噌だ。背後の冷蔵庫へと身を向ければ、その場所で確認作業をしていたはずの母は、既に次の作業へと移っていた。やはり楽しそうな表情のままで、電子レンジの方へと向かっている。その手に持っているのは多分、昨日の残りのきんぴらごぼう。
一方わたしは、コンロに戻って。煮える鍋の中に味噌を溶かし味見を一口。このくらいかな? そんな曖昧な目分量にもかかわらず、お味噌汁はちょうど良い味付けになっていた。わたしは、やった、と小さな歓声を心の中で挙げる。
――そういえば、最初は全然出来なかったんだよね。
ぽこり。茶色に染まった鍋の水面に、泡が浮かびかけたのを見止め、わたしは慌ててコンロの火を消した。さっき母にも確認されたばかりだ、沸騰させるわけにはいかない。ほっと胸をなで下ろしながら、母の手伝いを始めた頃のことを、わたしはふと思い出す。
そう、小学校の頃からこうして手伝いをして――いや、半ば無理矢理、家事を手伝わされていて。毎日のように包丁を持ってみたり、こうして鍋に張り付いたりしたのだった。お味噌汁の作り方を習ったのも随分前だと思う。最初は野菜を入れるタイミングも、溶かすお味噌の分量も、煮方も全然分からなくて。しょっちゅう、辛くてどろどろのお味噌汁が出来上がっていたものだった。
そのたびに母が、根気よく、お味噌は? お出汁は? とわたしに問いかけを繰り返して。今や、特に考えなくても答えは口からぽんぽんと飛び出すし、体はちょうど良い分量を自然と覚えている。
「……そっか」
心の中から湧き出た言葉は、ふっと唇の外へと漏れて。母が不思議そうにわたしの方へ振り返った。
「なあに、文乃。何か言った?」
「ううん、何でもない」
「そ? なら良いんだけど」
母は不思議そうに見つめ返してきたが、わたしが否定すると、気にした風もなく自分の作業へと戻る。電子レンジで温めている間も時間は無駄にしない。ボールに入った和え物を、小鉢によそっている。慣れたその手つきは滑らかで、迷ったりふらつくこともなかった。
――ああいう風に、身体に染み込むんだよね。
そう、わたしのお味噌汁にしても。繰り返し繰り返し、毎日母がそばで教えて、そしてわたしに練習させてくれたから、こうしてスムーズに作れるようになった。
そして、それはトマトも同じこと。わたしは今日の調理実習のことを頭に思い浮かべる。誰に教えてもらったの? みつきのその問いへの答えは。もちろん、母から、だ。いつだったかは覚えていないけれど、やはりトマトを使ったサラダか何かを作っていて。切れない包丁と潰れたトマトを前にして困っているわたしに、母が笑いながら教えてくれたのだった。ここなら切れるんじゃない? と。それ以降も繰り返し教えてもらった母からの知識が、今日の調理実習のときに、ふっと口をついて出たのだ。
――お母さん、凄い。
トマトにしても。お味噌汁にしても。母が告げ、教えてくれることは確かに些細なことでしかなく。たとえ疲れていても半ば強制的にやらされる手伝いは面倒なものでもあるけれど。それでも、毎日毎日の繰り返しは、自然とこの身に染み込んで、わたしの糧となっている。
なぜだろう、急に胸の奥がきゅう、と締まるような気がした。それは苦しかったり辛いものではなくて、嬉しさや楽しさに似たもの。どこかくすぐったくて、自然と唇が上がる。あ、わたし、今、笑ってる、なんて。自分自身で気付いておかしくなった。
――この気持ち、お母さんにも伝えてみたいな。
けれど、一体何をどう話せば良いだろうか。気持ちを伝えたいのはやまやまだが、お手伝いさせてくれてありがとう、なんて。いきなり言うのは少しだけ気恥ずかしい。むう、と頭を捻りながら、わたしはコンロから鍋を下ろし、調理台の脇へと置いた。
「さあ、お肉とキャベツを炒めれば終わりよっ」
母が腕まくりをしながら、コンロへとやって来たためだ。わたしはコンロの場所を母へと譲る。
「文乃、そろそろお父さん帰ってくると思うから、ドアの鍵開けておいてくれる?」
「はーい……あ、ちょうどだね」
母の言葉に被さるように、チャイムの音が響いた。扉の外には父が待っているだろう。わたしは小走りで台所から玄関へと向かう。その途中、廊下にかかっているカレンダーを見て、思わずわたしは声を上げた。
「あ!」
「……何だ、文乃。声を上げたりして」
「う、ううん。何でもない。お帰りなさい」
わたしが扉を開けるのを待ちきれなかったのか、玄関の内側には既に父が立っていて。玄関に着くなり声を上げたわたしを訝しげに見つめていた。何でもない、とごまかしてはみたものの、父にどれだけ信じてもらえたかは分からなかった。
* * * * *
廊下にかかったカレンダーは五月のものだった。今日の日付は四月三十日、金曜日だが、もう明日から五月ということで、カレンダーは五月へとめくってあったのだ。そしてわたしがそこで見つけたのは、ゴールデンウィークを挟んだ、来週次の日曜日。そう、五月の第二日曜日、母の日だ。今年はのそれは五月九日。
――そして
調理実習のときにね。トマトのことを思い出したの。それは、お母さんがいつも、わたしに教えててくれたからなんだね。――いつもありがとう、お母さん。
そんなまっすぐな感謝の言葉も、母の日と誕生日とが重なった特別な日ならば、気恥ずかしさを乗り越えて、簡単に言えるような気がする。トマトを使った料理でも作って。いつもありがとう、なんて言葉と共に、調理実習の時のことを話してみよう。母はきっと――喜んでくれるに違いない。
思いついたアイディアは、頭の中や唇を、くすぐるように撫でるから。わたしは夕飯の席に着きながらも、口元に浮かぶ笑みを隠すことは出来なくて。
「文乃、何、どうしたの。笑ってばっかりで」
「何でもないよー」
わたしは両親にばれないよう、必死で両手を振ってごまかした。来週まで、ありがとう、は秘密なのだ。
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