真夏、揺れるプールの水面から溢れる夢

灰野海

第1話

01

無人の屋内プールに、彼の泳ぐ音が静かに響く。水を掻く音、蹴る音は小さい。自分の呼吸音の方がうるさいのではないかと錯覚してしまう。ばしゃばしゃと激しく動かず、限界まで遅く泳ぎ、自分のフォームを見直しているのだそうだ。見ているこちらはスローモーション動画を見ている気分だ。それが苦痛に感じないのは、彼のフォームが非常に美しいからだろう。スローペースなせいか、イルカというよりは金魚を連想させる。美しく、優雅に、そして楽し気に。あぁ、綺麗だ、と思わず溜息が零れる。泳ぐことが、水中で動くことが好きなんです、と彼の全身から伝わってくる。フォームを見直すと言っていたが、ただああやって泳ぐのが好きなだけなのではなかろうか。

ざばっ、と一際大きな音に我に返る。ひたひたと体のいたるところから水を滴らせながら、彼はプールサイドを真っすぐこちらに歩いてくる。

「お疲れ様です。良かったらどうぞ」

タオルと冷えたスポーツドリンクを彼に手渡す。あぁ、と低い声音が鼓膜を震わせる。

……こいつ、まだ意識が泳いでるな。

こんな時は何を言っても無駄、とこの数ヶ月で学んだ。故に私はただぼんやりと彼の揺らした水面を見つめる。

日向も、こんな風に彼とプールサイドの小さなベンチで、二人で過ごしたのだろうか。認めるのは微妙に癪だ。男女二人で並んでいるこの状況は、きっと仲睦まじい恋人同士に見えるのだろう。残念ながら、私と夏哉はそんな甘酸っぱい関係を全く築いていないのだけれど。

むしろ、茨の道だ。お互い、傷付くだけなのに。

「……なあ、ひなた」

ほらやっぱり水中から帰ってきてない。いい加減手が出そうになる。

こういう時、現実を突きつけるのが酷く残酷なことのように思えるが、こちらも傷付くのだということを学んでほしい。自分を傷つけないようにするため、私はできるだけ非情になりきってナイフのように冷たい現実を、私は彼に突き立てる。

「葵です」

ずぶり、と鈍い、嫌な感触。もちろん錯覚だ。今回で私はもう、彼を四度殺してしまったことになる。

案の定、夏哉はこちらを見つめて目を丸くしている。そしてふにゃりと眉尻を下げ、悲しげに苦笑を漏らす。

「……すまん、せやったな」

やっぱり似とおわ、と笑う彼の心は、きっと青ざめている。

――あぁ、やめて。その顔。

そう言えたら、どれだけ良かっただろうか。その頬を引っ叩いてやれたなら、どれだけ良かっただろうか。今の私には、きっとそうする資格もないのだ。

あと何度、私は夏哉に刃を突き刺さなければならないのだろう。愛した女の顔を見せられ、声を聞かされ。愛した人の精巧な偽物が傍にいる。

――何が悲しいって、どっちにも愛は無いってところね。

思わず溜息を溢しそうになるのをなんとか堪えながら私は適当に言葉を紡いだ。

「姉妹なんです、似ていて当たり前でしょう」

「いやー、それでもやで。俺兄貴と似てへんもん」

「お兄さんがいるんですか」

ようやっと現実へと帰ってきた夏哉に安堵しつつ、適当な返事をする。正直、彼自身の話はどうでも良いのだ。私が興味を持っているのは、彼に対してではない。私は、彼の持っている姉との思い出、姉の全てが知りたくて仕方がないだけだ。

「いるっちゃいる」

「なんですかそれ」

「めちゃくちゃ仲悪いねん」

繰り返すが、どうでも良い話だ。しかし、彼から話を聞き出すにはある程度の友好な関係を築く必要がある。見ず知らずの他人に、愛した人の話ができるかと言われれば、答えはノーだろう。いくら、顔が似ていたとしても。その人の妹だとしても。

この関係はなんと呼ぶのだろう。日向を愛した男と、その妹。顔だけは姉によく似ている私の存在は、きっと彼にとっては毒だろう。

だって、いくら私が日向に似ていても、私は日向ではない。もう日向には、どうやったって会うことができないのだから。墓を掘り返したところで、出てくるのは骨と、灰だけだ。

それでも私は、日向のことを知りたい。私だって、彼に負けないくらい。日向のことを愛していたのだから。

「うちはそうでもなかったので何とも言えませんが……まぁ、仲の悪い兄弟もいるんじゃないですか?」

知らんけど、と思わず付け足しそうになるのを堪える。夏哉の癖がうつってきているのだろうか。

 お前ら姉妹はほんま仲良かったみたいやなぁ、よお聞かされたわ、と彼はからからと笑ってみせた。

「俺らも昔は仲良かってんでー?でもあいつ、俺の惚れた人にばっかアピールしよってな。……ほんでみんな、だいたい兄貴の女になった……」

うっわきっつ。そう思って口にしようとしたとき、ふと気が付いた。

彼が愛した日向。ならば、彼の兄もまた、日向を知っているのだろうか。

そんな私の意図に気付いたのか気付いていないのか。夏哉はようやっと渡したタオルで髪を拭きながら続けた。

「それでも、兄貴にちっとも靡かんかったんが日向やってん」


00

ある夏の日。私よりもかなり大きな向日葵の花が、花が作る濃い影が、怖くてわんわんと泣いた私に、日向は語り掛けた。

だいじょうぶ、こわくないよ。それに私、ひまわりよりあおいの方がすきよ。

それは花のことなのか、私のことなのか。結局日向が死ぬまで訊くことができなかった。何より、きっと十年以上昔のことを、日向は覚えていないだろう。

けれど、私が日向のことをすきだなと思ったのは、これが最初だった。


02

 姉の日向が死んだのは、彼女の名前に相応しい初夏の頃だった。まだ春の柔らかさを残した日差しが、最後の名残を残そうと足掻いているように感じたのを覚えている。

 良い天気だから出かけよう、と提案したのは誰だったか。私たち家族は仲が良かったから。誰が提案してもおかしくない。

――過去形で話さなければならないのが辛いところだ。

 テレビの中の非日常ではよくある話。まさかそれが自分たちに降りかかってくるとは思わなかっただけだ。まして、それで最愛の姉が死ぬなんて、思ってもいなかった。

「―――」

 運転席も助手席もぺしゃんこで。日向は真っ赤で。私は全身痛いけれどそれでもしっかり生きていて。何も分からず、潰れかけの後部座席から這い出し、ふらりと立ち上がる。

なに。これ。

 視界に入る現実が受け入れられず、車だったものへ背を向け、ふらりふらりと見慣れた道路を歩いた。

 ――葵。

 そう呼ぶ声が聞こえた気がして、振り返る。その声音は、いつも姉が私を呼ぶときと同じトーンだったから。笑顔で駆け寄るひなが見えた気がした。実際は、血まみれの体で、目を見開いている、そんな姿だった。私よりほんの少しだけ大きな手が、私の比較的薄い胸部を突く。

するとどうだ。今度は大きな黒い悪魔が、日向を突き飛ばしてしまった。跳ねる桜色のスカートを、私はただ見つめることしかできなかった。

 スカートが宙を舞って。固いアスファルトに叩きつけられて。桜色が赤に染まって。いつもきらきらと輝いて、美しかった姉の目が濁って。薄い唇が形どった言葉は、なんだったのだろう。

 それが分からず、救急車やパトカーが到着するまで、私はずっと、真っ赤に染まった姉と、潰れた車を交互に見つめていた。


01

 夏哉の兄は、春が生きると書いて、春生というらしい。彼の餌食になった女性の数は夏哉が把握する限り三人。ちなみに夏哉が取られた女の数なのだそうだ。

 四人目に、日向がなってしまった、と夏哉がぽつりと溢したその日のうちに、春生に会う約束を取り付けさせた。彼は渋ってはいたが、そういう約束でしょう、と言えば黙った。

 駅前によくある喫茶店に入り、ホットのカフェオレを注文する。暑さは厳しいが、その分店内はよく冷房が効いていた。今は冷たいものを口にしたいところだが、温かいものを頼んでおかないと後ほど体を冷やす。日向から耳にタコができる程聞かされた話だ。夏哉とその兄、春生はアイスコーヒーを頼んでいた。

「ほんで?僕に聞きたい話てなんやろか」

 にこやかに笑う彼の顔は、なるほど確かに夏哉とは似ていなかった。夏哉は、にこにこというよりは、にかっと笑う。部屋の電気のように、押せばぱっとその場が明るくなる、そんな笑い方だ。春生はどちらかというと、男性の割にはふんわりと笑い、全体の雰囲気も柔らかい。かといって、勉強だけが取り柄です、といったような雰囲気もなく、どちらかと言えば人生を謳歌しています、といったオーラが見える。……この珍しい雰囲気で、何人の女を落としたのだろう。浮かんだ疑問は無理やり沈め、訊ねたいことをストレートに口にした。

「私の姉、日向のことについてです」

 からん、とアイスコーヒーの氷が揺れる。春生はそれを少し口にして、口を開いた。

「ああ、覚えとおで。妹さんやねんな、よお似とおわ。……亡くなったんやてな、ご愁傷様です、……こんなん言うん初めてやわ。使い方あっとる?」

「私も身内を亡くしたのは初めてなので……それより、姉の話を聞きたいんです。どんな話でもかまいません」

「そうは言ってもなあ。もちろん知っとおし、話したこともあるっちゃあるけど、そんな仲良おなれたわけやなかったからな」

「え、そうなん?」

 口を挟むつもりはなかったのであろう夏哉が目を丸くしている。彼も、日向と春生がどこまで親しくなったのかは知らなかったようだ。

「なんや、あんたら付き合うてたんやないんか?」

 ずず、と甘いカフェオレを啜る。その答えは知っているのだ、もう。

「……付き合うてへん。むしろ、兄貴と付き合ったんやと思っとった」

 夏哉の顔が、ここまで曇るかというところまで曇る。そりゃ、夏哉にとってはあまり口にしたくない事実だろう。もうどうしようもないことだが。

「なんや、珍しく先越されたんやと思っとったんに。諦めんと根性出しとったら良かったわ」

 苦虫を噛み潰したような夏哉を尻目に、あの子おもしろい子やったわ、と懐かしむように目を細めた。

「おもしろいって、ユニークやとか芸人みたいなおもしろさやなくてな。見た目はすごい大人しそうで、話し方も優しい感じでな、正直つまらなさそうな子や思ってたんやけど。話してみたら、思いの外芯があって、意外と我が強い。ギャップのある子やな思ってん」

 その評価は私の認識の中では概ね間違ってはいない。妹である私もそう思っている。サラサラの黒髪は絹のようで、白い肌は骨のようで、薄い唇はいつも桜色で。しかしその口を開けば、飛んでくるのは優しい言葉だけではない。きちんと自分の意見を持った強い姉だった。

「何回か話してる内にそれに気い付いて、叶うことなら付き合いたいとまで思っとった」

 こんなんやけど、自分から付き合いたいなんてそれまで思ったことなかってんで?と春生は半分程まで減ったアイスコーヒーに、今更ガムシロップとフレッシュを入れて掻き混ぜた。そのタイミングで入れると、相当甘くなってしまうのではないだろうか。夏哉のコーヒーは相変わらず黒いままだ。なるほど、こういうところも「似ていない」のか。

「嘘つけえ。散々女とっかえひっかえしくさってからに」

「それはみんな、付き合ってほしそうやなぁと思ったから、好きやでって言うたったんや」

 ほんま最低やなお前……と夏哉が春生から目を逸らしながら溢すのも無視して、春生は穏やかに笑っている。

「でもま、付き合われへんかったよ。すきやでとも言わせてもらえへんかった」

 何か思うところがあったのか、笑う春生の表情に僅かな雲がかかる。それを私は見逃さなかった。

「ひなに……姉に、告白しようとは思わなかったんですか」

 恐らくひどく甘いであろうコーヒーに口をつけたのに、春生は苦いものでも飲んだかのような表情を浮かべた。

「せんかった。というか、させてもらわれへんかってん」

「どうして」

「それを聞きたかったん?」

 その質問に、一瞬言葉を詰まらせる。果たして私は、姉のどんな話を聞きたいのか。どんな話を聞けば満足できるのか。それをまだ私の中できちんと言語化できないのだ。それでも、今言葉にできる範囲で答えなければならない。

「……多分、そうだと思います」

「なんで?」

「私は、私の知らないひなのことを知りたいんです。あの人が、どういう考えをしていたのか、周りのことをどう思っていたのか……私のことを、どう思っていたのか」

 家族の遺品を整理していた際、姉のノートを見つけたのだ。日記のような、物語のような、それともただのメモのような。パラパラと捲ったそれには、私の思っている

姉」の姿はなかった。

 そうかぁ、と間延びした声で彼は返事をし、甘ったるいアイスコーヒーを飲み干した。

「まぁええわ。話して減るもんでもないし、自分かわええしなぁ」

 こつ、と彼は濡れたグラスを指先で突き、落ちる雫を見つめながら口を開いた。

「春生くんは私のことすきなの?って訊かれてん」

 その言葉に、隣に座る夏哉が小さく息を飲むのが分かった。

「きたー!と思ってん、最初。これは、俺も日向ちゃんのこと好きで、日向ちゃんも同じ気持ちなやつやーって。でも、そんなんとちゃうかった」

 店内に流れるBGMがやたらと大きく聞こえる。握るカフェオレのカップはもうぬるくなっていた。

――もしかしたらそうかなと思ってたの。だから先に言うわ。春生くんと付き合ったりなんかしないよ、私。もしそのつもりがなかったなら、変なこと言ってごめんね。

「いやもう何!?みたいな。そんなん言われたん初めてやし。今思えば、腹立つこと言われたなと思うねんけど、そんときは、全然怒りとか湧いてこんかった。不思議なもんやけど、でもそういうとこが魅力の一つやったんかもな」

「……どうして、とか思わなかったんですか」

「思ったよ、やから言うた。それ聞いてまた、おもしろい子やなと思ってんけど」

 ――付き合うって、例えば一緒にいて楽しいから、とか安心する、とか……私のことをすきでいてくれているからとか、いろいろあるじゃない?春生くんと話をするのは楽しい。私と違う考えを持ってるし、それをちゃんと言葉にしてくれる。でも、私のことを一番愛してくれてるのは春生くんでは絶対にない、そう思うから。

「……やってさ。その後も、キスをしたいとか、セックスをしたいとか、そういう感情、私は春生くんに持てないから、もしそういうのを私に対して抱いているなら、他の女の子でお願い、とまで言うんやで!?なんか普通やったら、なんやこの女ってキレそうなもんやねんけど。むしろその話がおもしろくて、小一時間くらいはその場でお互いのそんな話してん。でもまぁ、後になって、俺人生で初めてふられたんかーと思ったらなんか会いづらなってなぁ。それ以降は会ってへん」

 こんくらいかな、と春生は顔を上げた。相変わらずにこにこと笑みを浮かべている。こちらと言えば、私は笑うだけの余裕はあったけれど、夏哉の方はそうではないようだ。

「収穫はあった?」

「分かりません。ただ、やはり姉は、人の好意には敏感で、独特の価値観を持っていたんだなと確認することはできたと思います」

 ほんならこんな恥ずかしい話した甲斐はあったかな、と目を細める彼に礼を言い、すっかり常温になってしまったカフェオレを飲み干した。


03

 本気だった。本気で愛していた。大学も卒業したばかりのそんな年で何を、と笑われるかもしれないが、本当にこの人しかいない、と強くそう思っていた。

 やわい雰囲気に対して強い精神。はっきりと物を言うその姿に惹かれ。実はそのギャップごとただの外面だったのだと分かってからはもうただただ夢中だった。

日向は大きな森のようだった。優しい木漏れ日も、逞しい大樹も、美しい花も、人を惑わす危険性も、人を殺してしまいそうな危うさも、全て彼女を形容するに相応しい。そんな人間が他にいるか。二十歳やそこらの若い女性を、そんな風に感じられるか。否、未だ俺は日向しか知らない。

だから、その気持ちがピークに達した瞬間、耐えきれずに口にしてしまった。好きや、とただ一言。

「……そう、夏哉くんは、私のことがすきなのね?」

 彼女はその大きな目を見開きはしたものの、

それもほんの一瞬だった。声音には一切のぶれもない。

「私もね、多分、夏哉くんのことすきよ。でも、ごめんなさい。私のことを世界で一番好きでいてくれるのは、君じゃない。少なくとも、今は」

 ふられたのだと、理解するまでに数秒を要した。今は、ということは、時が経てば俺の好意も受け入れてもらえるのだろうか。疑問は無意識の内に口に出してしまっていたようだ。

「可能性はあると思う。少なくとも、今まで好意を持ってくれた男の人の中では一番」

だって多分私、夏哉くんのことすきだもの。もう一度そう言われて気が付く。すきならば、どうしてこの思いは受け入れてもらえないのか。理解できない、俺がおかしいのか。

「……私ね、こんなこと言うのも恥ずかしいんだけど、男の人と付き合ったりしたことないの。だからかな、よく分からないの」

 赤く染まった頬はきっと赤面しているのではなく、単に夕陽に染められただけだろう。桜色の唇も、百合のように白い肌も、夏らしい青と白のストライプのワンピースも、同じように赤く染まっていた。

「異性とのお付き合いって……なんというか、建設的じゃない?うまく言えないんだけど。付き合って、触れあって、キスをして。婚前交渉はダメって人もいるでしょうけど、セックスして。上手くいけば結婚して。子どもを産んで。そういう未来が、まぁちらっとは見えるじゃない?」

 眩しいものを見るように……いや、実際眩しかったのだろう、俺の背後に夕陽がある形になっていたから。

「私は、そういうものが、よく分からない」

「……誰でも、最初は分からんもんなんちゃうんか、そういうの。付き合ったこともないなら尚更」

「確かにそうね」

 日向が何を言っているのか分からず、皮肉を言ったつもりだったのだが、本人は意にも介さずくすくすと笑っている。

「うん……うん。夏哉くんには、話しちゃおうかな」

 ずーっと隠してるのも疲れちゃうのよね、と日向はくるりと俺に背を向けた。小さな背中だ。華奢で、何も背負えなさそうな。容易く折れてしまいそうな。

「男の人とお付き合いしたことないって言ったの、本当よ。でも、付き合ったことがないわけじゃないわ」

 何気なく落とされたそれは、俺にとっては爆弾だった。

「私、女の子となら付き合ったことあるのよ」


04

「私たちが初めて会った日のことを覚えていますか?」

 何度目かの日向会合――俺がそう呼んどるだけやけど――のときに、日向によく似た女は、顔を伏せたまま口を開いた。恐らく、俺が顔を見ないように気を遣ってくれている。三つも年下の、それも女性にそんな風に気を遣わせてしまっていることが恥ずかしい。俺は誤魔化すように、渡されたタオルでがしがしと乱暴に髪を拭いた。

「覚えとうで。俺が、日向と自分を初めて間違うたときな」

 忘れるはずがなかった。日向の爆弾発言から数日、急に日向と連絡がつかなくなったのだ。メールを送ってもすぐに返信があるタイプではなかったが、それでも常識の範囲内での時間差で返信をしてくれていた。それが数日返信がなく、電話も通じないときた。あんな話の後だから、避けられているのだろうかと最初は思ったが、日向がそんな理由で人を避けるのだろうか、と考えると答えは否だった。どうしてももう一度話したい。そう思って、あてもなく彼女が利用していた最寄り駅の町をぐるぐると回っていたときだ。日向にしては珍しい、真っ黒なワンピースを着た彼女の横顔を見かけたのは。

「すっごい真っ赤な顔して走ってきたんですよね」

「しゃあないやん……自分らほんま似とおねんもん……」

 結論だけ言えば、それは日向ではなく、妹の葵だった。黒いワンピースは喪服。日向の葬儀があった日だったそうだ。

 日向と葵は本当によく似ていた。黒い髪、白い肌。よく見れば、妹である葵の方が少々小柄で、どことなく健康的な顔色をしていた。日向の肌が、骨か百合のような白さなら、葵は白桃のような、そんな白さだ。

「姉妹ですし……あの時は多分、姉のことを意識していたから余計にそう見えたのかもしれません」

「意識?」

「私、お葬式とか……卒業式とか、そういう涙が出そうな場がなんか苦手で。その場から離れたくなっちゃうんですよ」

 でもさすがにそういうわけにもいかなくて、行儀の良い日向の振る舞いを真似してたんです、と彼女は頬をぽりぽりと掻きながら恥ずかしそうに言った。その仕草は、あまり日向とは似ていなかった。

 ああいや、そんな話がしたかったわけじゃないんです、と葵はぱたぱたと顔の前で手を振る。振った指先からは、ベンチが少々濡れていたのか、小さな雫が飛んだ。

「なんであの時、私のお願いをきいてくれたんですか」

 どう考えても妙な女だったでしょう、私、彼女は自分で言ってのけた。この姉妹は、二人そろって妙な女だ。妙だと自覚しているだけ、葵の方が幾分かましだ。

 あの日、初めて俺と葵が出会った日。その時に、日向が事故で亡くなったことを聞かされた。頭に金属バットで打たれたような衝撃と、眩暈を感じ、正直、あの場で葵と具体的に何を話したのか、よく覚えていない。覚えているのは、日向が死んだことと、葵からお願いをされたこと。

「姉のことを……私の知らなかった姉のことを知りたいんです。どんな話でも良いので、聞かせてくださいませんか」

「日向と似たような顔して、えげつないこと言うなあ自分……俺、日向に惚れとってんで。そんなやつに、死んだ日向のこと聞くん、残酷やなとか思わんのん」

 我ながら嫌な言い方をしてしまったと思う。だが葵は、日向と同じような真っすぐな瞳でこちらを見据えてこう言った。

「思います、自分は酷い女だと。それでも、私は知りたいという欲求を押さえられない。私の知らないひなのことを知れば……ひなに抱いてるこの思いにも、きっと名前がつけられる、そう思うから」

 なんでも、遺品の整理をしていた際に、日向の日記を見つけてしまったそうだ。日記と知らず数ページ読み、その内容と、葵の知る日向に相互があったというのだ。日記は抽象的で、全てを把握することはできなかった。だから、家の外での日向のことを知りたいのだと。そうすれば、今まで「シスコン気味」という便利な言葉で誤魔化してきた、日向へ抱く特別な感情の正体が分かるかもしれないからと。

 ――これが、彼女が愛した人だ。

 あの日、日向の口から出た事実を、俺はきっと生涯忘れられないだろう。そして、当分は葵に告げるつもりもない。そもそも、信じてもらえるかも怪しい。

「私、妹のことがすきなの。恐らく、恋愛的な意味で……。最初は、女の子がすきなのかもしれないと思ったわ。だから、葵と雰囲気が似た女の子と付き合った。でも、違ったの。私がすきなのは、女の子じゃなくて、妹だった」

 そう俺に告げた日向は、いったいどんな顔をしていたのだろう。今では知る術もない。

「今、世界で一番私のことを愛してくれているのは、あの子なの。それは間違いないと思う。根拠はないけど。だから私はね、待ってるのよ。あの子以上に、私のことを思ってくれる、そんな人をね」

 俺は、そんな王子様にはなれなかった。恐らく、あと一歩、二歩のところで。だからせめて、彼女の愛した女が、その感情にどんな名前をつけるのか、それを見守りたいと思う。

「確かに変なやっちゃなと思ったけど……」

 さて、どう誤魔化そうか。俺はあまり頭がよくないから、この場を切り抜ける術は一つしか知らない。

「でも日向にお願いされたらきいてまうやん」

「……だから、私は日向じゃなくて、葵です」

 あ、せやったな、とへたくそに笑うと、葵は決まって目を逸らす。現実を突きつけていることに罪悪感を感じてしまっているのだろう。その苦い表情を見るたびに申し訳なくなってしまうが、それでも俺は、その感情に名前がつくのを見届けるまでは、葵のことを日向と、度々そう呼んでいろんなことを誤魔化すつもりでいるのだ。

 ――一番たちの悪い人間は、春生でも、日向でも葵でもなく、きっと俺やな。

 いつものプールサイドで。いつも通り手渡されたスポーツドリンクの蓋をぱきりと開けながら、ひっそりとそう思った。



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