夫妻ふさいは恐る恐る母屋おもやに戻った。すると娘は、鎧戸よろいどはさまれた元の格好かっこうのまま、動きをめていた。だが表情は様変さまがわりしていた。その顔には、まるではりめたかのような、やすらかな表情がりついていた。雨や風にはげしく打たれるのも気にせずに。

 りた表情が剥製はくせいの顔とかさなる。ちらちらと頭をぎるのは、娘のおさない頃の寝顔。それが見たくて何度、娘の部屋のとびらけたことだろう。


 人のせいのなんと皮肉ひにくなことか。意識をうしなっているときこそ、やすらかなる顔を浮かべるのだから。それは人のせいの苦しみの反動はんどうなのだろうか。そうでなければ人は潜在的せんざいてきに、あるいは死というものにかれているのであろうか。


 夫妻ふさい寝室しんしつに戻ると、鎧戸よろいどを上げ、娘の亡骸なきがらをそっとゆかに寝かせた。夫妻ふさいは一瞬で血のを引かせた。娘の亡骸なきがらの腕が動いたからだ。まるで、昆虫こんちゅう息絶いきたえるようなぎこちない動きで、娘は胸の前で指をみ、そして動かなくなった。


 このような見せ掛けのやすらかさ、と夫人ふじんは心のなか憤慨ふんがいしていた。飛び赤黒あかぐろ血痕けっこん、へばりつく腐肉ふにく欠片かけら、シミ、そのひとつひとつが夫人ふじんの心を逆撫さかなでた。こんなときに、掃除そうじ仕方しかたを考えている自身の気持ち悪さにおぼえた。ささや腹圧ふくあつはすぐにおさまるが、えたにおいがのどの奥から立ちのぼった。


 夫妻ふさいは娘に毛布もうふを掛け、とりあえず今晩こんばんは、娘を寝室しんしつに寝かせておくことにした。このあらしなか埋葬まいそうするのは、骨どころか不可能だ。り返した土はたちまち泥水どろみずに変わるであろうから。二人はその夜、娘の部屋で眠った。娘の体臭たいしゅうのこが涙をさそい、ともすると変わりてた姿を想起そうきさせ、夜中よるじゅう、何度も悪夢あくむが二人の脚を引いた。




 翌朝よくあさおっとはか埋葬まいそうき、夫人ふじん部屋へや清掃そうじはげみました。


 従業員じゅうぎょういんたちはおっと不在ふざいあいだ陰口かげぐちささやくのに余念よねんがなかった。世迷よまごと、ついに頭がおかしくなったか、墓暴はかあばきの不届ふとどもの、と。

 おっと墓守はかもりの力もりて、墓穴はかあなを前よりも深くろうと穴掘あなほりを続けた。もうして娘が地の底から出ぬように。


 その頃夫人ふじんは、落ちぬシミ汚れに腐心ふしんしていた。へばりついた内臓ないぞうは床や壁の木材もくざいに、ろしたように深くみ込んでいた。血にまるバケツの水、もよお悪臭あくしゅういとしいにおいに感じる感情かんじょうに、夫人ふじんの心はついに限界げんかいむかえた。


 うんざりだったのだ。娘への愛情あいじょうけがれていくようだった。あの行商人ぎょうしょうにんにくらしかった。希望をちらつかせ、こんな仕打しうちをしいいるなんて。しかし、それも長くは続かない。そんな気力すら、血にまったぼろ雑巾ぞうきんのぬめりがぐのだ。心は段々とうつろになり、夫人ふじん呼吸こきゅうは穴のいたふいごのように意味をさなくなっていく。どんなにせわしなく息を吸っても、苦しくなるばかりだった。視界しかいゆがみ、黄緑きみどりまっていく。まだらにうごめ黄緑きみどりは、やがて真っ白なあらしに変わった。


 気がつくと夫人ふじん納屋なやなかに立っていた。目の前にはガラスケース。そのなかでは剥製はくせいが、さも可笑おかしそうにこちらを見詰めていた。夫人ふじんは頭に血がのぼり、手を振りげガラスケースをたたった。てのひら、手首がざっくりと切れ、血が流れ出るが夫人ふじんはまったくかいしもしない。そして荒々あらあらしく剥製はくせいかかげると、にぎつぶさんばかりに両手に力を込めた。


 乾いた眼球がんきゅうに光はないはずなのに、ゆがんだみを形作かたちづく目蓋まぶたのせいか、眼差まなざしにあざけりを感じた。夫人ふじんはますますいかくるい、はらわたが飛び出さんばかりに腹に力を込め、血反吐ちへどき出すようにさけんだ。


「アア!! いい加減かげんにしなさいよ! 部屋を今すぐきれいにして! 早く、今すぐ! 何度言ったら分かるのよ!! うあああああああああああああああ!! なんでできないの早くしなさい!! ホントは母親っていやになるわ! いやなことばかり押しつけられて! そうよ、はっはっははは! どこかに私と同じ境遇きょうぐうの母親がいるかもしれない! いいこと! 世界中せかいじゅう臓物ぞうもつをあるべき本人の腹にかえしなさい! 今すぐよ! 早く! 早く! 早く、早く、早く、早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く。うあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ」


 夫人ふじん絶叫ぜっきょう呼応こおうするように、剥製はくせい感情かんじょうたっぷりのさけび声を返した。


「おかあああああああぁぁぁああぁあさああああああああああああぁあぁぁぁん」


 あまえるような絶叫ぜっきょうが収まると同時に、夫人ふじんゆかたおれ込んで胸をおさえた。余りの興奮こうふんに心臓に負荷ふかが掛ったのか、発作ほっさを起こしたようだ。

 ゆかに転がる剥製はくせい満足まんぞくそうに笑っていた。やがてその体はゆっくりを溶けていった。血になるわけでもなく、ただの真水まみずへと変わっていく。そしてわずかもしないうちに、剥製はくせいは小さな水溜みずたまりに変わった。




 その頃、おっと穴掘あなほりの最中さいちゅうであった。だいぶり進んだと一息ひといきくと、胸がひらいた。実際じっさいひらいたのだ。肋骨ろっこつひらき、おっとの心臓はいきおいよく飛び出し、瑞々みずみずしい音をさせて着地ちゃくちした。正確にはおっとの心臓ではない。そうではないから飛び出したのだ。この心臓は昔に死んだ別人のものだ。


 夫は若い頃、心臓の持病じびょうのために移植手術いしょくしゅじゅつを受けていた。当時はまだ、れいの少ない手術しゅじゅつだったが、夫はたぐまれなる生命力で、奇跡きせきの回復をして見せたのだった。泣きながら喜んでくれた妻の表情に、がらにもなく胸のまったのをおっとはよく覚えていた。


 夫はひざき、ほうけた顔で心臓に目を落とした。彼は生きたままきもを抜かれたのだ。彼は生きたままきもを抜かれた。もしよろしければ、読者どくしゃ諸君しょくんも一緒に唱和しょうわしてほしい。彼は生きたままきもを抜かれた、と。三回えればよいと思います。三回がベストだと思います。では行きます。


 ――彼は生きたままきもを抜かれた――


 ――彼は生きたままきもを抜かれた――


 ――彼は生きたままきもを抜かれた――


 ありがとうございます。ありがとうございます。胸のつかえが取れたような思いです。


 さて、話は戻り。

 心臓の周りは血にまり、まるで飛び降り自殺のあとのよう。心臓はそれでも脈打みゃくうち続け、なかに残った血液を、牛の搾乳さくにゅうのようにあたりにらしている。やがて心臓の中身はからになり、まるでふいごのように、気の抜けた音をさせながら、なかの空気をき出し始めた。そして、ゆっくりと、まるでへばりつくように心臓は回転し、移動を始める。回転は徐々じょじょに速くなり、千切ちぎれず残った血管けっかんはげしく地面をたたきつける。その音はとりばたいてでもいるかのよう。またたに心臓は墓穴はかあなからい出て、日の光をその身にびた。


 その時、血のにおいにかれたのか、一羽のカラスが心臓の付近ふきんへと降り立った。心臓はいきおいよくカラスに向かっていく。しかし、カラスは身動みじろぎもせずに心臓を見送った。持ちることも、ついばむこともせず、なん素振そぶりも見せなかった。カラスの本能がそうさせたのか、カラスの頭のなかなにかが起こったのか、それはうかがい知れなかった。カラスはただ真っ黒なで心臓を見詰めていた。


 これは完全なる私見しけんなのだが、真っ黒なカラスのひとみうつ風景ふうけいは、おそらくすべてのものが真っ白だという、根拠こんきょもない確信かくしんがある。カラスのひとみは、そうでなければ説明がつかないような、深い黒ではないだろうか。

 大抵たいていのものには相対あいたいするものがうら存在そんざいしている。

 黒のうらでは白が暗躍あんやくし、白のうらでは黒が一枚いちまいんでいる

 転がる心臓も、飛び出た血液も、すべて真っ白。だが、き出される空気だけは変わらず、無色透明むしょくとうめいだ。

 透明とうめいなものだけはして変わらない。誰が見ても、何時いつ見ても、何処どこで見ても、変わらずに透明とうめい。この世の真理しんりも、空気も、言霊ことだまも、すべてが透明とうめい

 透明とうめいなものが私たちの周りにたたずんでいる。透明とうめいなものが私たちの血液に流れている。透明とうめいなものを日々私たちははいに取り込んでいる。そして、それはあるいは、真っ白なふいごからき出された空気かもしれないのだ。




 その日、世界中せかいじゅう移植患者いしょくかんじゃが命を落とし、忘れられていた神へのおそれが、世界各地で産声うぶごえを上げた。そして、臓器移植ぞうきいしょく進歩しんぽは向こう何十年も停滞ていたい余儀よぎなくされた。世界中せかいじゅうの人間がきもやしたが、なにより顕著けんちょであったのは医者たちであったのは言うまでもないだろう。世界中せかいじゅうの人間が摂生せっせいつとめるなど、きた心地ここちがしないはずである。彼らはまさに、生きたままきもを抜かれる思いであったことだろう。

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ふいごのように 倉井さとり @sasugari

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