ふいごのように

３

　その夜、その辺（あた）りでは類（るい）を見ないほどの嵐（あらし）が起こった。雨が窓（まど）を打ち、風は脈絡（みゃくらく）なく叫（さけ）び、風見鶏（かざみどり）は右に左に腹をよじり、不愉快（ふゆかい）な笑い声を上げた。二人は眠れぬ夜に辟易（へきえき）し、寝室（しんしつ）で何度と知れぬ寝返りを打った。感覚を支配（しはい）するのは音のみだ。寝具（しんぐ）の安っぽい感触（かんしょく）すらが騒々（そうぞう）しい音に変換（へんかん）される錯覚（さっかく）。そのような観念（かんねん）に囚（とら）われていたためなのか、突然聞こえてきたその音に、頭を殴（なぐ）りつけられたように感じるのだった。

　最初、二人は、風にために何（なに）かが家にぶつかったものだと考えた。しかし、その音は続け様（ざま）に何度も起こるのだった。嵐（あらし）とは毛色（けいろ）の違う暴力的（ぼうりょくてき）な音。であるのに、機械（きかい）にも似た一定のリズム。音は執拗（しつよう）に続いた。

　扉（とびら）を打ち鳴らす音だと理解するのに、夫妻（ふさい）は少しの時間を要（よう）した。こんなにも間近（まぢか）に聞こえるが、鳴らされているのは寝室（しんしつ）の扉（とびら）ではなく、玄関（げんかん）の扉（とびら）のようだ。二人は恐る恐る寝室（しんしつ）から出ると玄関（げんかん）に向かった。

　すると、扉（とびら）は僅（わず）かにたわみ、床（ゆか）には木片（もくへん）が散（ち）らばっていた。まるで家畜（かちく）が体当（たいあ）たりでもしているかのような、凄（すさ）まじい衝撃（しょうげき）。およそ人間の仕業（しわざ）とは思えなかった。

　夫（おっと）は大声を上げるが、音は少しをやむ気配（けはい）がない。それどころか音の周期（しゅうき）に僅（わず）かの変化もなく、扉（とびら）の向こうに一切（いっさい）の知覚（ちかく）をも感じることができなかった。一打（いちだ）一打（いちだ）、目に見えて扉（とびら）は壊（こわ）れていく。

　夫（おっと）は家（いえ）の物置（ものおき）から古びた猟銃（りょうじゅう）を引っ張り出してきた。警告（けいこく）に次（つ）ぐ警告（けいこく）の末、夫（おっと）は扉（とびら）に向けて発砲（はっぽう）した。なのにどうしたことだろう。大声の時と何（なん）ら変わらず、扉（とびら）は打ち鳴らされる。次々に発砲（はっぽう）するも、それはただ、扉（とびら）の破壊（はかい）を推（お）し進めるだけだった。

　そしてついに扉（とびら）は壊（こわ）れ、来訪者（らいほうしゃ）が顔を覗（のぞ）かせた。扉（とびら）の残骸（ざんがい）を踏（ふ）み締（し）めるのは、変わり果（は）てた愛娘（まなむすめ）だった。死（し）に装束（しょうぞく）はぼろに成（な）り代（か）わり、皮膚（ひふ）は余す所（ところ）なく灰色で、見る影もないはずなのに、微笑（ほほえ）みだけは娘のそれなのだった。腐（くさ）った顔で、生きていた時とまるで同じ親密（しんみつ）さ。懐（なつ）かしさとおぞましさが手を取り合い、夫妻（ふさい）の脳髄（のうり）に痙攣的（けいれんてき）なデジャブを呼び起こす。産まれ死ぬまでの娘の姿が、次々現れる。灰色の笑（え）み、甘（あま）え声は歯抜（はぬ）けの音節（おんせつ）に成（な）り代（か）わり、絵本（えほん）を見詰める白濁（はくだく）した目、ありもしない思い出が夫妻（ふさい）の背骨（せぼね）をぶるぶる震（ふる）わせた。

　突然、娘が口を開（あ）けた。抜け落ちる歯。吊り上がる口。嬉しそうな頬（ほほ）。そして痙攣（けいれん）。その姿は、声を発（はっ）して笑っているとしか思えない。だが、その口から出るのは、ガス漏（も）れのような音ばかりだった。

　娘は一歩前に踏み出す、ガス漏（も）れを続けながら。鼻を突（つ）くのは強烈（きょうれつ）な腐臭（ふしゅう）。思い出される夏場（なつば）の家畜（かちく）の屍骸（しがい）たち。蛆（うじ）の溜（た）まり場（ば）。蠅（はえ）の盛（さか）り場（ば）。皮膚（ひふ）が腐（くさ）りて現れる、地獄（じごく）といって差（さ）し支（つか）えない、屍骸（しがい）の内容物（ないようぶつ）のその瑞々（みずみず）しい様相（ようそう）。

　地獄（じごく）は生物（いきもの）の体にあらかじめ内在（ないざい）しているのであろう。生（せい）の均衡（きんこう）が崩（くず）れた時、生命（せいめい）はただ単純（たんじゅん）に己（おのれ）の中（なか）に裏返（うらがえ）るのだろう。

　夫妻（ふさい）は恐れおののき寝室（しんしつ）に逃（に）げ込んだ。鍵（かぎ）を閉（し）めて、僅（わず）かの後（のち）に聞こえるのは、荒々（あらあら）しいノックの音。怖くて眠れないの、雷（かみなり）が怖い。いつかの娘の声。それに重（かさ）なるガス漏（も）れの音。今晩（こんばん）は、こんなにも天候（てんこう）が荒（あ）れているのに、雷（かみなり）は一切起こっていなかった。雷（かみなり）が怖い。あれは確か、雨のまったく降らぬ夜だった。晴天（せいてん）に浮かぶ満月（まんげつ）、にもかかわらず、遠くから呼び掛ける雷鳴（らいめい）。雷が怖い。一人じゃ眠れないの。決壊（けっかい）したように続くガス漏（も）れ。

　玄関（げんかん）の扉（とびら）に比べ、寝室（しんしつ）の扉（とびら）はずっと脆（もろ）く、押（お）し入（い）られるのは時間の問題だった。夫人（ふじん）はパニックになりながら、窓（まど）の鎧戸（よろいど）を押（お）し上げようとした。だが、普段は難（なん）なく開（ひら）く鎧戸（よろいど）が言うことを聞かない。金切（かなき）り音を発（はっ）して抵抗（ていこう）するのだ。それでも、少しずつ鎧戸（よろいど）は押（お）し開（ひら）かれていく。だがその時、娘は扉（とびら）もろとも寝室（しんしつ）の床（ゆか）にばったりと倒（たお）れた。足元からこちらを覗（のぞ）き上げる娘の顔は、在（あ）りし日の悪戯（いたずら）盛（ざか）りのそれであった。

　のっそりと糸で操（あやつ）られるかのように娘は立ち上がる。両手を広げ夫妻（ふさい）に迫（せま）る。開（ひら）かない鎧戸（よろいど）。迫（せま）り来る微笑（ほほえ）み。大好物（だいこうぶつ）を前にした娘の顔だ。何度言ったことだろう、ちゃんと頂（いただ）きますを言いなさい、神に感謝（かんしゃ）を捧（ささ）げなさい。

　いよいよ娘が飛び掛かるという時、銃声（じゅうせい）が鳴り響（ひび）いた。娘の胴体（どうたい）からは臓物（ぞうもつ）が飛び出し、床（ゆか）に散（ち）らばった。視覚（しかい）から伝わる、表面（ひょうめん）の乾き、内側（うちがわ）の潤（うるお）い。

　もう、お腹（なか）がぺこぺこ、お腹（なか）と背中がくっつきそう。腹部（ふくぶ）に風穴（かざあな）が開（あ）いたにもかかわらず、娘はその場に立ち続けた。もう、お腹（なか）がぺこぺこ。頂（いただ）きます、頂（いただ）きます。

　更（さら）に銃声（じゅうせい）。開（ひら）かれた胸。飛び散（ち）るのは粘（ねば）り気（け）のある血液。肋骨（ろっこつ）の隙間（すきま）から顔を覗（のぞ）かせるのは、生物（いきもの）の真似事（まねごと）をする心臓の成（な）れの果（は）て。鼓動（こどう）のような動きに合わせ、カスカスと乾いた音が鳴る。悲鳴（ひめい）、それは鎧戸（よろいど）が上げたものだった。吹き込む雨は生暖（なまあたた）かく、床（ゆか）の木材（もくざい）をたちまち黒に染（そ）めていった。

　夫妻（ふさい）は転（ころ）がり出るように窓（まど）から外に出た。同じように娘も窓（まど）から身を乗り出した。しかしその時丁度、鎧戸（よろいど）が勢（おきお）いよく降りた。娘は胴（どう）を挟（はさ）まれ、身動きが取れないようだ。これ幸（さいわ）いとばかりに夫妻（ふさい）は逃（に）げ出す。向かった先は納屋（なや）であった。雨の湿気（しっけ）で饐（す）えた臭（にお）いがより一層（いっそう）酷（いど）い。嗅覚（きゅうかく）は貪欲（どんよく）で、どんなに強烈（きょうれつ）な臭（にお）いを嗅（か）いだ後（あと）でも、漏（も）れなく悪臭（あくしゅう）を貪（むさぼ）る。

　夫妻（ふさい）が見詰める先にはガラスケース。中（なか）には口をぱっくりと開（あ）けた剥製（はくせい）。

　夫はガラスケースから剥製（はくせい）を取り出した。

「おい、あれはなんだ！　お前の仕業（しわざ）だろう！」

　当然、剥製（はくせい）は答えない。たとえ、本来の姿であっても、この幼（おさな）さでは言葉を話すことはできないだろう。どんなに喚（わめ）き、言葉を連呼（れんこ）しようとも。赤子（あかご）はすぐには喋（しゃべ）れないのだから。赤子（あかご）は赤子（あかご）の都合（つごう）で、然（しか）るべきときに喋（しゃべ）り出すのだ。そしてそれは大概（たいがい）に於（お）いて、大人に不意打（ふいう）ちを食（く）らわせるのだ。

「……あんな姿、余りに可哀想（かわいそう）だ、頼む、娘を眠らせてくれ、安（やす）らかに」

　剥製（はくせい）の、ぱっくりと開（ひら）いた口の奥から異音（いおん）が立ち昇（のぼ）る。まるで洞窟（どうくつ）の奥から大量の水が流れてくるような。それにしてはねばついた音、分泌液（ぶんぴつえき）でなければ羊水（ようすい）であろう。泣くとも叫（さけ）ぶとも違う音。くぐもってはいるが、それには歌のような節（ふし）がついていた。

「ぅぅぅうううぅううぅうぅぅぅぅううぅうううううううぅうぅうぅうぅうぅぅ」

　剥製（はくせい）は前にも増して大音量（だいおんりょう）で叫（さけ）んだ。心臓（しんぞう）に直接語り掛けるような響（ひび）き、圧力（あつりょく）。切（せつ）なげであり、かつ余りの迫力（はくりょく）に殺意（さつい）すら感じるほどだ。夫（おっと）の二の腕はぶるぶると震（ふる）える。剥製（はくせい）の振動（しんどう）が伝わるためなのか、それとも自（みずか）らが震（ふる）えているためなのか。

　強烈（きょうれつ）な音の嵐（あらし）に頭は真っ白になり、今一番感じているのは、掌（てのひら）に受ける、剥製（はくせい）の肋骨（ろっこつ）の形。人間、これは確かに人間の死体だという認識（にんしき）。腑（ふ）に落ちて感じるのは、自（みずか）らの呼吸（こきゅう）に合わせて膨（ふく）らむ肋骨（ろっこつ）の軋（きし）み、たわみ、腹圧（ふくあつ）の温（あたた）かさ。

　突然、嵐（あらし）の後（あと）の静寂（せいじゃく）にも似た沈黙（ちんもく）が場（ば）に降りた。嬉しそうな茶色の表情は、親密（しんみつ）さに満（み）ち、まるで親族（しんぞく）に向けられる眼差（まなざ）しだ。吐（は）き気（け）の苦しみは腹圧（ふくあつ）の優しい呼（よ）び声（ごえ）。吐（は）き気（け）に因（よ）り夫（おっと）は我（われ）に帰った。そして、本来、今この瞬間は、嵐（あらし）に因（よ）り静寂（せいじゃく）とは無縁（むえん）なのだということを思い出す。こんなに濡（ぬ）れそぼろだというのに、乾いた掌（てのひら）。剥製（はくせい）に掌（てのひら）の内部（ないぶ）の水分（すいぶん）まで奪（うば）われるようで、夫（おっと）は慌（あわ）てて、剥製（はくせい）をガラスケースへと戻した。

　赤いしとねにえびす顔（がお）がちかちか揺（ゆ）れて、痙攣（けいれん）しているような錯覚（さっかく）を呼び起こす。排泄（はいせつ）の気持ちよさ、中身を出す快感（かいかん）、出産（しゅっさん）に苦しむ家畜（かちく）の呻（うめ）き、それらの映像（えいぞう）は、夫の心臓に語り掛け、まるで若者（わかもの）の鼓動（こどう）のように、せわしなく収縮（しゅうしゅく）を促（うなが）した。