時間は現在に戻り、場所は農場のうじょう一角いっかく納屋なやなか。そこでは胎児たいじ亡骸なきがらが静かに眠っていた。

 納屋なやは薄暗く、空気は湿しめり、所狭ところせましとものが置かれている。一番おくまったたなにガラスケースは置かれていた。おっとかぶせられていたぼろ布をガラスケースからぎ取った。

 剥製はくせいは一年前と変わらず、赤いしとねにうずまるようにして眠っている。乾いた皮膚ひふは、古びた建物の外壁がいへきのようにもろそうである。真っ赤なしとねはあざやかで、目に痛いくらいだ。


 夫妻ふさいは息をみ、剥製はくせいを見詰めた。

 剥製はくせいと目が合った瞬間、雑多ざったな場所でしかなかった納屋なやは、剥製はくせいのための墓地ぼちに変わったように感じられた。

 古い農機具のうきぐも、農薬のうやくの入ったびた缶も、ほこりを積もらせたタイヤも、何処どこかいつもと印象をたがえていた。


 ただ沈黙ちんもく支配しはいするだけだ。なにもない。何事なにごともない。だけれど夫妻ふさいは血のは引かせていた。視界しかいせばまり、鼓動こどう間隔かんかくせばめる。剥製はくせい視界しかいめ、みずからの眼球がんきゅう鼓動こどうする錯覚さっかく


 おっとはガラスケースに手を伸ばした。を外し、ゆっくりとガラスケースを持ち上げた。

 腐臭ふしゅうも、悪臭あくしゅうもなかった。それどころかなんにおいもない。

 おっと剥製はくせいにらみつけた。


「……本当に人間なのか」


 おっと剥製はくせいに手を伸ばした。乾いた粘土ねんどのような手触てざわりがした。奇妙きみょう弾力だんりょく。力を込めれば押し返してくる気配けはい粘土ねんどを強くにぎつぶした際の、指と指とのあいだ粘土ねんどが入り込む感覚、イメージ、湿しめ


 おっとは両手で胎児たいじを持ち上げた。剥製はくせいになどできるだけ近付きたくない。だから腕を精一杯伸ばしている。それでも遠くからながめるのとは違い、みょう圧迫感あっぱくかんがある。短く小さな脚をぶら下げ、まっすぐおっとを見詰めている。

 あざやかなしとねに寝かされていたときには分からなかったが、剥製はくせいの肌は茶色で、とても鮮明せんめいだった。鮮烈せんれつとさえ表現してもいいほどの、茶色。


 おっとの手のふるえに合わせ、剥製はくせいの腹から伸びるへそかすかにれた。それを見た瞬間、おっと脳裏のうりにいくつかのことがめぐり、溶け合った。初めて対面した家畜かちく出産しゅっさん、娘のひたいからあふれる血液、れた作物さくもつ、死に掛けの家畜かちく見開みひらかれた娘の

 思い出される記憶のすべてが、グロテスクにまっていることに気付いたのを契機けいきに、おっと逡巡しゅんじゅん枯草かれくさのように瓦解がかいした。


「……頼む……頼むから……もう一度、娘の微笑ほほえみを見せてくれ」


 おっとがそう口にすると、粘着質ねんちゃくしつけるような音を立てながら、剥製はくせいの口がゆっくりとひらいた。胎児たいじとは思えないほど口は大きくいていき、うろのようなのどの奥をのぞかせた。その奥の奥から、かぼそい音が聞こえ出す。


 うがいのようなコロコロという音。羊水ようすいかたまりのどにつかえているかのように、コロコロと。次第に産声うぶごえのようなものもじり出す。カラスの鳴き声を細切こまぎれにしたような、機械的きかいてきで乾いた音。しかし突然、産声うぶごえうるおいをびた。


「おぎぎぎぎぎぎぎぇあぁあああぁぁァァァァアアアアアアアアアアアアアアア」


 予期よきせぬさけび声に夫は驚き、剥製はくせいを取り落してしまう。納屋なや全体がふるえる錯覚さっかく、体全体をられる感覚。剥製はくせいゆかに落ちたあとさけび声を上げ続けた。それどころかより声量せいりょうが増していく、うつせで顔をゆかに向けているのもかかわらず。

 剥製はきせいの口がさらひらいていく。それにれ、後頭部こうとうぶにしわがっていくのが見て取れた。もはや、その開口かいこう仕方しかたは普通ではなくなっていた。下顎したあごではなくもっと深く、耳のあたりから開口かいこうしている。まるで、手にめ使う人形劇にんぎょうげき人形にんぎょうのようだ。


 激しい産声うぶごえ水気みずけふくんだ異音いおん。乾いた音、湿しめった音、その中間といえばいいのか、合わせた音といえばいいのか、そんな奇妙きみょうな音。農耕機のうこうきのエンジンにねこでも巻き込まれたような、想像そうぞうぜっする、血の引く音。絶叫ぜっきょうはいつまでも終わらない。どうしてそんなに息が続くのかと不気味ぶきみに思うほど、息継いきつぎもなく。このさけび声はどこから来ているんだろう。とその時、ぴたりと声がんだ。なん前触まえぶれもなく、スコップでミミズをぶつりにした際の、ぶつっと音のように。そして、断末魔だんまつまのようにせつなげに、んえあぁ、と三回泣くと、息をいて身をしぼませた。まるで愛らしい赤子あかごが寝息を立て、ゆっくりと腹をしぼませるように。いぼれた老人ろうじん放心ほうしんし、ゆっくりと動きをかためるように。安楽死あんらくしさせた家畜かちくが、最後に虚空こくうり、ゆっくりと息絶いきたえるように。


 夫妻ふさいは余りの驚きに茫然自失ぼうぜんじしつおちいり、しばらくのあいだ、息もしているかも怪しいほど微動びどうだにせず、じっと剥製はくせいを見詰め続けた。視界しかいめる納屋なやの底に沈んだ剥製はくせい、茶色の肌、ちる承諾しょうだくられなかった死体、言葉をものにすることも、物心ものごころがつくこともなく、無限むげん余地よちをその身にじ込め、人間のからこもり、この世に停滞ていたいし続ける乳飲ちちの


 最初に自我じがを取り戻したのはおっとの方だった。なん予測よそく予見よけんもなく、余りに突然の目覚め。あるいは意識の芽生めばえ、物心ものごころおぼえもこのようにして生まれたのだろうか。であるならば意識など仮初かりそめにすぎないのか、せいなど気まぐれでしかないのだろうか。

 親たちの骨でまれた人形にんぎょう恒常性こうじょうせい後世こうせいに受けぐための意思。その意思はどこから来たのだろう。物質ぶっしつ総意そういなのか、恒常性こうじょうせいの意思なのか、はたまた神の悪戯いたずらか。


「……なにも起こらんじゃないか」


 そのおっとの言葉に、夫人ふじんはじかれたようにわれに帰る。


「……え、ええ」


 相槌あいづちつと、夫人ふじんは打ち上げられた魚のように息を吸い込んだ。鼻腔びくうに立ちのぼ納屋なやえたにおい、鼻腔びくうのすぐうえにはのうがあるという意識、感覚、観念かんねん。意識の大きさとのうの小ささ。そのずれを思うと、疑念ぎねんぎる。この意思は本当にのうだけにるものかと。両手でかかえられるものに、思いなどがおさまるのかと。


 おっと悪態あくたい徐々じょじょ夫人ふじん正気しょうきに返した。とんだ目にった、たちの悪い悪戯いたずらだ。一杯いっぱいわされた。そのようなことをぶつくさとつぶやきながら、おっとはそのへんのぼろ切れで剥製はくせいくるむと、無造作むぞうさにガラスケースに戻した。憮然ぶぜんとして納屋なやあとにするおっとを尻目に、夫人ふじんはぼろ切れをぎ、元の通りに剥製はくせいを赤いしとねに寝かせるのだった。

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