たんぽぽ

煙 亜月

たんぽぽ

 風媒花、という言葉も知らないうちの話です。飛んでゆくたんぽぽの綿毛を、幼いわたしは風からかばっていた、と母に聞きました。きっと大事なものが失われているように思えたのでしょうね。


 この子ったら、またたんぽぽの綿毛が飛んで泣いてるわ、母は微笑ましげに父に話したそうです。まちがいじゃない、この子の世界ではそうなんだから、と、そのように母に聞きました。子どもの世界って、毎日が感動なんでしょうね、なにも知らないということがどれほど、


 どれほど、怖いか。


 父が先に認知症の診断を受けました。

 脳梗塞での後遺症で脳血管性認知症を発症し、かんしゃく、失見当識、帰宅願望などの症状が出てきました。お医者さまのお話によると、父は、自分が誰で、ここがどこなのかが全くわからなくなる状態になるのも近い、とのことでした。


 用便のあとになぜペーパーで拭くのかも、

 スーパーのチラシがなぜ食べられないのかも、

 隣にいる初老の女性が実は自分の妻だということも、

 まったく、何も、分からない。

 

 ほどなくして父は、体制の整った真新しい施設へ入居しました。母の看病疲れもあり、とにかく、家族全員が限界だったのです。

 

 大きな声ではいえませんが、心中も考えました。けれども、それより先に母がアルツハイマー型認知症を発症しました。進行はとても早く、何もかも、本当に何もかも、吹き飛んでゆきました。


 いまわたしは、施設の中庭で夫婦そろって入居した両親に会いに来ています。ふたりとも車椅子で、介護職の方に押してもらってここまで来ました。


 中庭にはたんぽぽが咲いていました。季節も移ろい、たんぽぽも今は綿毛を雪の結晶のようにつけて風に揺れています。

 

 ほら、父さん。

 わたしは父にたんぽぽを差し出しました。麻痺のせいでぎこちない動作でしたが、父は口をすぼめ、ふうっ、と綿毛を飛ばします。気に入ったのか、わたしが差し出すたんぽぽの綿毛を次から次へ、吹いて飛ばしました。


 そこへ母が手を伸ばして、だめ、飛ばしちゃだめ、と父の手をつかみました。もはやお互いに誰なのかも分からないふたりです。ましてや急な身体接触など、ふたりとも興奮するかもしれない。介護職の方もふたりを引き離そうと車椅子のハンドルを取ります。

 でも、わたしや介護職の方の心配をよそに、わたしからのたんぽぽを受け取った父は、母の真っ白になった髪にそっと、挿しました。

 

 たんぽぽの綿毛は大事なもの。だから母は風に流されるのを止めようとした。その大事なものを、父は母にプレゼントした。


 それが恣意的な、楽観的な解釈なのかどうかは分かりません。でも、たんぽぽの綿毛だらけになった母が、ずっと、ずっと笑っていたのは今でも鮮明に憶えています。

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