ぼくらの家に帰ろう

 


 こころさんが帰って、幸福はめずらしくゲームをすることもなくこたつにぼーっと座っていた。



「おまえ、戸籍できるんだってよ」

「うん」

「警察も、両親も気にする必要なくなったんだってさ」

「うん。でも私は学校にはいかないし、働かないけどね」

「このヒキニートめ」

「ヒキニートさいこー」


 幸福はそう言って畳にごろんと倒れ込んだ。


「……なあ、おまえこれからどうするんだ」


 気づけば、僕の口からはそんなセリフが漏れていた。


「こころさん、金持ちに変わりはないからな。あの人についていけば、たぶん生きるのに困ることはないし、好きなものも買ってもらえるだろ。罪悪感も強いみたいだしさ」


 こころさんは自分からは言わなかったけど、おそらくそれが彼女が最も望んでいることだろう。彼女が最後に言いかけてやめたのも、たぶんそのことである。


 きっと彼女たちはうまくやっていくだろうなと僕も思う。


 こころさんがとても過保護でシスコンな姉で、幸福はそれをうざがる生意気な妹で、新田さんは母親……というのはなぜか想像できないが、まあそんな感じで。


「ねえ、ちょっと散歩しない? なんか、ひきこもりもちょっとは動いたほうがいいらしいからさ」


 幸福は僕の質問に答えず、そんな提案をしてきた。


 



 幸福に先導されてたどり着いたのは、幸福を最初に見つけたあの自販機だった。


 幸福が、「どっこいしょ」と可愛げのない掛け声とともにすとんと自販機の横に座りこむ。その光景は見覚えがあるようで、あの時と比べてこいつも多少肉がついてきたなあと実感する。 


「……人って、生きるだけでお金がかかるんだって。例の夫婦にさ、そう言われた」


 幸福は淡々と喋りだした。


 勝手に誘拐したやつらがそれを言うのかと頭にくるが、おそらくそれは正しい。


 たぶん僕の貯金は簡単に底をつく。好きな時に好きな物を買ってやることなど到底できやしない。


 この間も親に育ててくれてありがとうと唐突に電話して戸惑われたくらい、人を養うということが大変だということをこの短い期間で感じ始めていた。


「私、ネットで調べたんだ。ヒト1人養うのにどれくらいお金が必要なのかって。そしたらあのゲームpcがちゃっちく感じるぐらいの金額でさ」

「まあ、犬猫とはわけが違うだろうな」


 生きる年数も桁違いだし。


 幸福は下を向いて、足元の石を手ではじいて、「あのさ」と口を開いた。


「……実は私、配信ってやつをしててね?ちょっとずつだけど、視聴者とか増えてきてるんだ。」

「……そんなことしてたのか」


 僕は配信していることは知ってたし、なんならチャンネル登録もしていたけど驚いたふりをしておいた。なんか気まずいし。


「それでさ、料理も……いや料理は、これから頑張って覚えるから」


 さっきから彼女にしては歯切れが悪いのもあって、なにを言いたいかがいまいち伝わらない。


「なあ、さっきからなんの話を」「だからお願いです。私を捨てないでください。私をここに居させてください」


 幸福はそう言って深く、深く頭を下げて、コンクリートの上で土下座をした。


 僕は彼女の後頭部を見ながら、普段から平静を装っていたのは僕だけではなかったのだと気づいた。

 僕が、彼女がどこかへ行ってしまうかもしれないと怯えていたのと同じように、何も気にしていないように見えた彼女も、僕に捨てられることに怯えていたのだ。


 それでも僕には、彼女が僕を選んだ理由がよくわからなかった。


「……なんで、僕なんだ。あんなライフラインが通ってるだけのブダ箱みたいな家に、大学生とかいうニートの亜種みたいなやつだぞ。自分で言うのもなんだけど、性格もだいぶ悪い」

「うん。それはわかってる」


 幸福はあっけなく認めた。


「たぶん、こころも良い人なんだろうなって思うよ」


「うざいけどさ」と幸福は小声で付け足した。いつの間にやら呼び捨てで呼ぶようになったらしい。

 

 そのことでまた、僕は胸が苦しくなった。たぶんこれは嫉妬とか劣等感とか、そういう良くない類の感情だ。


「……でも他の誰かじゃなくて、君がいい。だって私を助けてくれたのは君だから」


 幸福はそう言って立ち上がり、僕を見た。


「……おまえ、幸せになりたいんだろ。たぶん、こころさんのほうがその願いは叶いやすいぞ」

「それは君が決めることじゃないよ」


 彼女はすこし怒ったように眉をつりあげて、強い口調でそう言った。


「私、今幸せだよ。そりゃあ、なんで私は生きてるのかなって思っちゃうこともいろいろあったけどさ。もし私が虐待されてなかったら外になんか出てなかったかもしれなくて。もし誘拐されなかったら殺されちゃってたかもしれなくて。もしこの自販機まで逃げ出さなかったら、私は君には会えなかったから。

 そう思ったら、嫌だったことも全部、全部必要なことだったんだって受け入れられたんだ。ほかの誰がどれだけ私の人生を不幸って言おうと、私は今幸せなんだよ」


 そう言って微笑む幸福が、直視できないほどまぶしく見えて、僕は彼女から目をそらしてした。……違うんだよ。


「……僕はさ、自分より下のやつがほしかったんだ。それで、自分はまだマシなんだって安心したかった。そういうやつなんだ。」


 そんなところに都合よく転がっていた、僕よりかわいそうな奴がいた。それだけだ。それだけだったのに。


「でも蓋を開けてみればおまえは僕が思ってる100倍は強くて、おまえと居て感じるのは優越感じゃなくて、劣等感だったよ。だから違うんだ。高尚な考えで助けたわけじゃないし、手を出さなかったのも、ただ単純にお前がガリガリで欲情しなかったっていうそれだけだよ」


 こんなことを言わなければ、僕は幸福にとって白馬の王子様になれたかもしれない。でも言わなかったら、ただでさえ汚い自分がもっと汚くなる気がして、僕は洗いざらい自分の醜さを吐き出してしまった。


「……すっごくおなかがすいている人にさ、誰かがパンをあげたとするでしょ?」


 それでも幸福は微笑んで、噛みしめるようにそんなことを言った。


「哀れみだったとしても好奇心だったとしてもさ、パンの味も栄養も変わらないんだよ。……どんな考えで差し伸べられた手でも、差し伸べられた側にとってはおんなじだから。おんなじようにうれしくて、救われたから。あの時途方にくれてた私に手を差し伸べてくれたのは君だった。だから私にとってはほかの誰でもなく、君が白馬の王子様だったんだよ」


 幸福はそう言い切って、まっすぐに僕の目を見つめた。その瞳があまりにもまっすぐで、また目をそらしそうになったけど、今度はそらしてはいけないと、なぜかそう感じて、僕は彼女の目を見つめ返した。


「私さ、誰でも良かったんだ。私を拾ってくれる人なら誰でも。たまたま私を拾ったのが、君だったってだけで」


 その仮定は、何度も頭をよぎったことがあった。そして彼女が言っていることは真実だ。なぜなら僕も同じだから。


「僕も誰でもよかったよ。ただ、僕より下のやつなら誰でも。たまたま御誂え向きのやつを拾ったってだけで」


「じゃあ、全部たまたまだね」


「でも」と彼女は続けた。彼女は振り向いて、僕の顔を見つめて、満面の笑みを浮かべる。


「そういう偶然を運命っていうんでしょ?」

「……どうだかなぁ」

「せっかくだから、そういうことにしとこうよ。だってそっちの方が、なんか良いでしょ?」

「じゃあ、そうしよう」


 相手がどう思っているのか、思うだけなら自由らしいから。なら僕は、幸福が僕のことを白馬の王子様だと思っていると、そう思うことにしよう。



 僕は幸福のことが好きだ。でもそれがどういう種類の好きなのかは依然としてわからないままだった。でもきっと、彼女といっしょに居たいという理由としては、好きだというそれだけで十分なのだ。



「それじゃあそろそろ、ぼくらの家に帰ろう」


 その言葉を言うには結構な勇気が必要だったけど、なるべく気軽に聞こえるよう僕はそう言った。


「うん。じゃあ、疲れたからおんぶしてよ」


 そう言って幸福が僕に向けて「ん」と両手を伸ばす。僕はいつかのように彼女を背負う。今回は、ずしりとしっかりとした重みを背中に感じた。それにあの時のような異臭はなく、ほのかな洗剤のにおいが……いやちょっと臭いな。なんかすっぱいにおいがする。


「……なあ、おまえ最後に風呂入ったのいつ?」

「んー、一週間前?」


 彼女はかわいらしく、こてんと首を傾げた。僕は持ち帰った幸福を風呂場に放り込んだ。

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ぼくは保護という大義名分を掲げ、道端に落ちていた女の子を拾うことにした ジェロニモ @abclolita

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