新居
尾八原ジュージ
新居
「何だか黒いな」というのが、初めて香澄の新居を見たときの、正直な印象だった。
それは今年できたばかりだという建売住宅で、周囲にも似たような印象の家が数軒建っていた。香澄の家は南向きに大きな窓があり、白い壁と木の格子を合わせた和モダンな外観をしている。だから「黒いな」というのは的外れな印象のはずなのに、パッと見たとき、なぜか私はそう感じたのだ。
表札を見ると、「新沼」とある。やっぱりここが香澄の家に間違いない。私は少しためらいを覚えながら、インターホンを鳴らした。
『はぁい』
「私、実和子」
『ちょっと待ってて』
インターホンが切れる。玄関のドアが開くのを待つ間に、私はふと、足元に盛り塩があるのに気づいた。カクテルグラスを使って作ったのだろうか、真っ白な塩がきれいな円錐形に盛られている。
(あの子、こんなの置くんだ。確か、縁起がいいんだっけ?)
そんなことを考えていると、ドアが開いて、香澄が懐かしい顔を見せた。4年前に寿退社した彼女とは、SNSで近況を確認しあってはいたけれど、直接会うのはひさしぶりだ。しばらく見ないうちに、少し痩せたような気がした。
香澄は私の会社の元同期だ。私とは正反対のタイプだけど、なぜかうまが合った。彼女が結婚と共に東京から名古屋に引っ越して、なかなか会えなくなった後も、私たちは定期的に連絡を取り合っていた。
彼女から「家買ったから遊びに来てよ」と連絡があったのは、つい先月のことだった。互いに予定を調整してようやく今日、新居を訪問することができたのだ。
「ひさしぶり。素敵なおうちだね」
「ありがと。散らかってるけど入って」
香澄は私を玄関に迎え入れ、スリッパを並べてくれた。「散らかってる」なんて言ったけれど、三和土も靴箱の上もすっきりと片付いているし、フローリングの床もピカピカだ。そういえば会社員時代から、彼女のデスクはいつもきちんと整頓されていたものだった。
通されたリビングダイニングも、まるでモデルルームのようにきれいだった。真新しいリビングは白とベージュで統一されていて、レースのカーテン越しに明るい外の光が差し込んでいる。私はさっき「なんだか黒いな」と思ったことを、改めて不思議に思った。
ダイニングテーブルの上には、すでにお茶とお菓子の用意がされていた。私は香澄に、お土産に持ってきたチーズケーキを渡した。
「どう? 新居での生活」
「うーん、正直ちょっと寂しいかな。旦那、出張が多いから」
香澄は苦笑いしながら、私のカップに紅茶を注いでくれた。
「旦那さん、何してる人だっけ」
「ゼネコンで設計の仕事してる。全国に支所があるから、すぐあちこち行っちゃうんだよね」
壁際のキャビネットには、写真立てに入ったふたりの写真が置かれていた。新婚旅行で撮ったもののようだ。スラッとしてかっこいい旦那さんと、小柄な美人の香澄。絵になるカップルだと思う。
「でもいいねぇ、新築の一軒家。持ち家だから、色々いじれるのもいいよね」
私がそう言うと、香澄は自嘲気味に「ふたりで過ごすには広過ぎだよ」と言って笑った。
「ここ、二階建てだよね。部屋数もありそう」
「3LDKかな。子供がいたらちょうどいいかもね」
香澄は少し寂しそうな目をした。結婚して丸々4年が経とうとしているけど、彼女たち夫婦は子供に恵まれていない。
「実和子はどう?」
「なにが?」
「結婚。彼氏と長いでしょ」
「うーん。お互い考えてないわけじゃないけど、なんか踏ん切りがつかなくって……」
いっそ子供でもできちゃえば籍入れるんだけどね、などと言いそうになって、慌ててやめた。香澄は、子供ができないことを悩んでいないわけじゃない。たとえ無意識にでも、彼女を傷つけたくなかった。
幸い香澄は、私が失言しかけたことには気づかなかったようだった。「わかる。色々やることがあるから、勢いが必要だよね」と言ってうなずいている。
「そうそう。第一、誰かと一緒に住むとか、私にできるのかなぁって」
「まぁ、なるようになるよ」
香澄は私の持参したチーズケーキの包みを開いた。「わぁ、これひさしぶり。この辺だと売ってないんだ」
「香澄、それ好きだったよね」
「うん。ありがとう。切っちゃっていい?」
香澄はさっそく切り分けたチーズケーキを、陶製の小皿と一緒にトレイに載せて運んできた。
「どうぞ」
「ありがとう。あっ」
トレイから小ぶりのフォークがひとつ、床に滑り落ちた。チリーンと涼しい音が響く。私は身をかがめてテーブルの下を覗いた。
「どこかな……ん?」
ダイニングテーブルの下に、この家に不釣り合いなものが落ちていることに、私はすぐに気づいた。
泥団子だ。
子供が公園の砂場でこしらえて並べているような、不格好な土の固まりが、きれいに掃除されたフローリングの上に落ちている。
「なに? これ」
私に続いてテーブルの下を覗き込んだ香澄の顔が、すっと白くなった。
「……また」
彼女はそう呟くと、「ちょっとごめんね」と言って部屋を出て行った。大きな磨りガラスをはめ込んだリビングのドアがバタンと閉まる。私はもう一度テーブルの下を見た。やっぱり泥団子、としか言いようのないものが落ちている。
それは不可解そのもののような存在だった。まず、こんなものを持ち込む人がいない。この家に子供はいないはずだし、仮に子供がいたとしても、香澄が泥の固まりをそのまま放っておくとは考えにくい。
「ごめんごめん」
小さな箒とちりとりのセットを持って、香澄が再び現れた。テーブルの下に上半身を入れ、慣れた手つきで泥団子をかき出す。ちりとりの上で、泥団子がゴロッと転がった。
「ちょっと外に捨ててくるね」
香澄はふたたびリビングを出て行った。無理やり作ったような笑みに、私はふと不穏なものを感じる。何か厭なことがこの家で起きている、という予感がする。
「お待たせ」
戻ってきた香澄に、私はさっそく尋ねてみた。あの泥団子が何なのか、わからないままにしておくのが嫌だった。
「ねぇ、さっきの何?」
香澄は少しの間黙って、私の顔をじっと見つめた。それからダイニングセットの椅子にどさっと腰かけると、
「ケーキ食べよ」
と私に声をかけ、自分のケーキにフォークを入れようとして、また立ち上がった。
「ごめんごめん、フォークがないんだったね」
「ねぇ、さっきのさぁ……」
そこまで言ってから、しつこかったかな、と私は後悔した。いくら親しい同僚だったといっても、もう4年も前のことだ。それに加えて、香澄の様子には何かただならぬものをがあった。ひょっとしてあの泥団子には、何か深い事情があるのではないか? そんな気がした。
香澄はカトラリーをやたらとガチャガチャ言わせながら、小さなフォークを取り出した。
「たまに出てくるんだよね、アレ」
突然醒めた表情でそう言われたので、私は「えっ」と間抜けな声で問い返してしまった。香澄はにこりともせず、キッチンカウンター越しに私の顔を見つめた。手に持ったフォークが冷たく光っている。
「だからさ、たまに出てくるの。家の中に、あれくらいの泥団子が転がってることがあるんだ。私も旦那も持ち込んだ覚えないんだけどね」
「それってなんで……」
香澄はフフッと笑って、フォークを手に戻ってきた。
「変でしょ。何もなかったはずのところに、急に出てくるの。一日に何度も掃除してるんだけど……」
そのとき、二階からガタンと大きな音がした。私は思わず飛び上がるほど驚いた。香澄はチラッと天井に目を向けたが、何事もなかったかのようにチーズケーキを食べ始めた。
「誰かいるの?」
「誰もいないよ。旦那は仕事だし、私ひとり」
とても気のせいとは思えないような音だったけど……でも、香澄が落ち着いているのに、私がアワアワしているのは変だ。そう思って私もダイニングチェアに腰かけ、淹れてもらった紅茶を一口飲んだ。味がしなかった。
二階からまた、バタバタと音がした。まるで、誰かが床を踏み鳴らしているみたいだ。とても家鳴りで片付けられるような音ではなかった。
香澄はすました顔でケーキを食べ続けながら、ふと顔の横を、まるでハエでも追い払うようなしぐさでぱっと払った。
「うるさいなぁ」
何もいない空間を手でひっかき回すようにしながら、彼女は呟いた。
「ねぇ、どうしたの?」
「何でもないってば!」
突然ヒステリックな声をあげて、香澄は私を睨みつけた。私がひるむと、突然取り繕うような笑顔になる。
「ごめんごめん。本当に何でもないの。やっぱここのケーキ、おいしいね」
そう言って私に微笑みかける香澄は、以前と変わらない彼女のような、私の知らないひとのような……何か恐ろしいことが起こっている片鱗を見た気がして、私は頭がくらくらした。
「ねぇ、何かあるの? ……その、変だよ」
私は彼女の正面に腰かけたまま尋ねた。香澄は何も答えず、手に持っていた小皿をテーブルに置いて、ドアの方を見た。
つられて私もそちらを向いた。途端に悪寒が全身を走る。
磨りガラスの向こうに人影があった。髪の長い女のように見える。
私は椅子に座ったまま後ずさった。
「あれ誰! 誰がいるの!?」
「誰もいないの」
香澄は勢いよく立ち上がると、つかつかとドアに歩み寄ってノブに手をかけ、開く。
誰もいなかった。ただ、きれいだった廊下に泥団子が落ちている。半ば崩れたその中から、何か白っぽいものが飛び出しているように見えた。
背後でパタンと音がして、私は飛び上がった。振り返ると、香澄と旦那さんの写真を入れたフォトスタンドが倒れていた。
香澄がドアの外に出て、また箒とちりとりを持ってきた。廊下の泥団子を掃除しながら、
「あのひと、旦那の不倫相手なんだ」
と言った。
「え?」
「正確には元、がつくけどね。別れさせて慰謝料とって、子供できてたから堕ろさせた。でもあいつ、変なやつでさ。赤ちゃんのちっちゃな遺骨をバラバラにして、泥で包んでうちに置きにくるの」
「なんで? なんでそんなひどい……不倫相手の人が、家に入ってきてたの?」
「不倫相手なんかもういないよ。死んだもん」
めちゃくちゃなことを言いながら、香澄は泥団子を片付ける。
「だからもういないの。何のつもりか知らないけど、うちに泥団子持ってくるだけ。旦那は怖がって、帰ってこなくなっちゃったけど」
香澄はちりとりの上に置いた泥団子を、冷ややかな目で見つめた。「私は絶対あいつに負けない。出て行ったり別れたり、絶対にしない」
じゃあ捨ててくるね、と香澄が言って、リビングのドアがパタンと閉まった。
彼女が戻ってくるまでのやけに長い時間を、私は冷や汗をかきながら待っていた。
それから5分もしないうちに、私は香澄の家を辞した。彼女はそうなるのがわかっていたという風に、引き留めもせず私に手を振った。帰り際に玄関の前の盛り塩を見ると、先端が崩れて溶けていた。
最後に一度だけ振り返った彼女の家は、さっきよりもまた少し、黒ずんだように見えた。
新居 尾八原ジュージ @zi-yon
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