体温はない

 彼らは小高い丘の上にレジャーシートを敷いて、そこに並び座っていた。日は高く、空は澄み、開けた丘には青々と草が揺れていた。しかし、そこここで突き出た小岩の陰には未だ雪が残り、時折吹き過ぎる風は冷え切っていた。青年は上着の襟をかき寄せて、そこに顎を埋めた。さぶい……と上着の中に独り言つ。

 一方の少女は、緩くまとめた髪をなびかせ、首を風に晒したまま、眼下に広がる街並みを楽しそうに眺めていた。青年の呟きを聞き取って、視線を彼へと転じ、その肩に我が身を寄せる。そこには特段の言葉もなく、表情はひどくつまらなそうだったが、それに応えて青年もまた、同じように少女へと体をもたせかけた。それから、退屈そうな、眠そうな半眼のまま、少女の頭頂へ顎をぐりぐりと押しつけた。眉を寄せた少女が、頭を突きあげてそれを払いのける。青年は小さく呻いて離れていく。

 見上げた太陽は、柔く、汚れ一つない微笑みを浮かべている。青年は目を細めて、頬に優しく触れる熱を受け止めている。後ろに両手を突いて、大きな欠伸を漏らしてもいる。

 どこかで小鳥の地鳴きがあった。遥か上空で、真っ白の雲が風に押し流され、そろそろと形を変えていた。辺り一面に、穏やかな静寂が満ちていた。長閑な陽気を受け止めて、彼らは静かに寄り添っていた。

 少女は遠く霞んだ山並みの、峰々を飾る雪化粧と、その上を渡りゆく飛行機が残した航跡を、興味深そうにまじまじと見つめていて、そのときに、脇に置いていた籠を思い出した。木の皮を編んだ、持ち手と上蓋のついた四角い籠。少女は徐に片手を伸ばして、その蓋を上げる。中から水筒と、布の包みを取り出す。

 水筒は無造作に青年へ手渡し、包みは自身の膝の上で開けた。ハム、レタス、ゆで卵を、みみのついた食パン二枚で挟んで、対角に切っただけの、簡単なサンドイッチが現れる。少女は布と一緒にそれを両手ですくいあげ、青年へと突き出した。不満げにすぼめた唇は、別の感情を押し隠していたのだろう。睨みつけるような鋭い目つきは、視線を逸らすまいと意地を張っていたのだろう。

 水筒の飲み口から立ち上る湯気に鼻先を温めていた青年は、横目にそれを見て、数舜の間、思案した。次いで、相変わらずの覇気のない顔のまま、少女を振り向くと、大口を開けた。そのうえ、片手で自分の口を指さす。

 少女は目を丸くする。それから、溜息を吐く。肩から力を抜いて、包みを膝の上に置き直すと、サンドイッチをひとつ片手にとって青年の口へと運んでやった。そのときの呆れたような、青年を小ばかにするような面持ちは、割合に本心だったのかも知れない。具材の厚く入ったもので、他者の手を借りては反って食べづらいだろうに、青年は楽しそうにこれを啄んでいた。少女は溜息を吐きながらも、サンドイッチを持った手を上げたままでいた。

 そのときに、彼らを横凪に、さやと風が吹いた。冷たくも、ふくよかな土の匂いを含んだ春の風は、レジャーシートの端をめくり、彼らの髪をさらい、そして少女の上げていた腕、その上着の袖に入り込んだ。薄手の上着は風を孕んで、袖がするすると腕を遡る。そうして露わになった少女の、細くたおやかな腕は、それでありながら、本来ひとにあり得ない造形をその関節部分に刻んでいた。

 手首や肘の関節が、遠位側の半球構造と近位側の受け皿の構造とに二分され、それを組み合わせて関節の動きが再現されていた。半球部分には鈴に空いた溝のように、縦に一筋、細く穴が空いていた。それらは凡そ、生き物と思われない在りようだった。

 青年はサンドイッチの最後のひとかけを少女の手からとって、ひと口に頬張った。口の端から、オリーブオイルの一滴が流れていった。少女が咄嗟に青年の頬へ手を伸ばし、指先にそれを受け止める。青年はすかさず彼女の手をとって、油分に光るその指先を口に含んだ。少女は瞬く間だけ目を見開いて、すぐに眇めると空いている手で手刀を作って青年の頭頂に思い切り振り下ろす。少女の腕から、微かに、硬い材の打ち合う音が鳴る。青年は悪びれもせずに澄まし顔で少女の手を放した。

 向こうの木立から、小鳥が一羽、遅れてもう一羽飛び立った。二羽は並び、彼らの頭上を越えて、街並みへと下っていった。青年も、少女も、言葉もなく、小鳥たちを見送って、微かな囀りがあとに残された。

 少女は袖を下ろし、サンドイッチを包んでいた布の端で指先を拭う。青年を見上げて、残りのサンドイッチを指さす。青年は横目にちらりと少女を見て、また空へと視線を戻して、首を横に振る。そうして宙を見据えたまま、徐に少女の肩を抱き寄せた。少女も、膝の上のサンドイッチには注意を払いつつ、おとなしく青年に身を預けた。やはり互いに言葉はない。疾く流れる雲は、絶え間なく形を変えている。束の間、雲の影が彼らを覆う。

 青年の頬を寄せた、少女の身に、体温はない。

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物語になりたかった子たち 茶々瀬 橙 @Toh_Sasase

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