慣れている(鵺2)

 帰り道にスーパーマーケットへ立ち寄ると、自動ドアをくぐってすぐに店員から呼び止められた。その、年若い女の店員の、明らかに無理をした愛想笑いを好意的に受け取るのは難しかったし、遣り取りに気づいた別の店員が、パタパタと慌てた様子でバックヤードへ入っていく姿にいい予感なんかするはずもなかった。明らかにわたしの来訪を待ち構えていて、示し合わせて準備していた気配がある。それも、歓迎とは対極の感情でもって。

 程なく現れた責任者らしき男性職員に案内されたのはバックヤードの休憩室だった。引っ越してきてこちら、週に一度は利用していたスーパーマーケットだが、当然、舞台裏に足を踏み入れたのは初めてである。ここに来るまでの、すれ違う店員たちの、まるで気にしていないふうを装った、それゆえに関心――それも暗い感情を伴った――を覆い隠せぬ視線が居心地悪かった。道行く他者から浴びせかけられる好奇と嫌悪の視線には慣れているつもりだったが、それとはまた違った手合いであるように思われた。

 休憩室に先客はおらず、室内はがらんとしていた。中央には長机が二台と、それぞれの机にパイプ椅子が四脚ずつ取り囲っていて、それとは別に、壁に向かって事務机が据え付けられている。隅にはまだ新しそうな、大きなテレビが壁に掛けられて、誰かが消し忘れたのだろう、ニュース番組が大音量で流れていた。市街地での傷害事件、被害者は軽傷だが、手を上げたのは十代の混合遺伝者で……

 テレビが突然に暗転する。責任者の男がリモコンを長机に放り投げた。静かな部屋に、タンッ、と大きな音でリモコンが転がって、その暴力的な音色に思わず首が竦む。男はまっすぐに事務机に向かい、オフィスチェアに腰を下ろすと、その傍らにパイプ椅子を引き寄せて、片手でわたしを促した。ドアの前で立ち尽くしていたわたしは、「失礼します」と肩を縮めて、言われるままそこに座る。

 「急にごめんね。なんか、捕まえるみたいにしちゃって。あ、お菓子食べる? えーっと、チョコレートって食べられるの?」

 男は矢継ぎ早に言った。声音は穏やかだが、視線はずっと、事務机のパソコンモニタに向かっていた。なにやらメールソフトを立ち上げているようである。机の端にあった籐編みの籠を、わたしの傍に置き直すときにも、やはりこちらを見ようとしない。

 籠の中には個包装になった色々のお菓子があったけれど、手を出す気にはなれなかった。礼だけ言って、俯いて男の次の言葉を待つ。膝に置いた自分の手を見て、右手の長く伸びてしまった爪が気になった。家を出る前に砥いでくるべきだった。なんだか見られてはいけないような気がして、爪をひっこめる、指先を手の中に握りこむ。

 じっと黙っていると、マウスやキーボードの操作音と、ファンの駆動音が耳の奥に響いて、心がざわついた。ひどく不快だった。そのうえ男の煙草の臭いもきつい。不安感も相俟って目が回りそうだ。不意に男が手を止めた。途端に世界が静かになったような気がした。朦朧としていた意識が、急に現実へ引き戻される。

 男はわたしを見ていた。ようやくわたしを見た。その目は積み重ねた歳と苦労を湛えて、色濃い隈と皺とが刻まれていたが、さらに奥には別の色が明白に窺える。嫌悪と侮蔑、そして僅かの恐怖、ひどく見慣れた色彩だ。

 「これなんだけど」

 言って、男が手を伸ばしたのは、事務机の脇の壁に掛かったホワイトボードだった。そこに磁石で貼り付けられていた一枚の紙を、取り外してわたしの傍に置く。乱暴とは言わないまでも、放るようなぞんざいな手つきは、それだけでわたしを責め立てるみたいだった。身が竦みそうになるのをぐっとこらえる。

 男の視線は、またすぐにパソコンへと向かっていった。わたしに対する疎意もあるだろうが、単に忙しいというのもあるらしい。どちらにせよ、客への態度としてはいただけない。

 渡された紙に目を落とす。「お客様の声」と題打たれた紙面の、罫線が引かれた記入欄には、丁寧な手書きの文字が並んでいる。曰く、購入した生鮮食品に動物の毛が混入していた、客に「混ざりもの」がいるのを見かけたが、そのせいではないか、入店を制限してはくれないのか、と。

 わたしじゃない。咄嗟に出かかったそんな声を必死に呑みこみ、唇を噛む。鼻の奥が痛くなって、息を堪えても涙が浮いた。男に気取られぬよう、そっと呼吸を落ち着かせる。

 「それだけじゃ、ないんだよね」

 わたしが紙を机に戻したのを見計らってか、男は追い打ちを掛けるように言った。感情の窺えない、平坦な声音は、或いは反論を許さないという意思の表れか。悔しいことに、その思惑通り、言葉に詰まってしまう。絶え間ないキータッチの音がうるさい。うまく息ができない。首から頭、耳の先まで血が上って、熱く脈打っているのに、内臓は冷え切っていくようだ。

 左の手で、右の手首を握りしめる。換毛期は疾うに終わって、毛並みは幾分軽くなっていた。だから、大丈夫だと思っていたのに。

 「……わたしじゃ、ありません」

 やっとそんなことを言う。自分でも白々しく聞こえた。

 「でもねえ」

 手を止めた男は、わたしではなく、投書へと視線を向ける。

 わかっている、わたしが一番に疑わしいことくらい。可能性だけを言えば他に幾らでも考えようのあろうとも、やはり「混ざりもの」は人目を引く。そうなれば疑われるのも無理のないことだろう。自分でも、毅然と否定してむかうことができないのだから。

 それでもわたしは、自分なりに、最大限の配慮はしていたつもりだった。春や秋はどうしたって生え変わりがあるから、ブラシは血の出るほどかけたし、手袋だってつけていた。それだけでなく、整容に関しては全力を注いでいた。尾の皮の剥がれ始まったときには、丁寧に剥いて、鱗を磨いてからでなければ外出しなかったし、足の爪は、歩きづらくなること覚悟で短く整えていた。そこまでやっても不安で、外出を諦めた日もあった。

 それでもまだ、だめなのか。認めてはもらえないのか。

 「そういうわけでさ。今はほら、インターネットで注文できるから」

 だからもう来るな。言外の声が雷鳴のように恐ろしく、思わず耳を伏せる。

 男は投書を取ると、ホワイトボードへと戻した。パソコンから顔を上げて、身ごとこちらを向く。そしてわたしが口を開くより前に、仕草だけは丁寧に、片手を出口へ差し向けるではないか。用件は終わった、ということらしい。反駁させるどころか、見送りに立つ気すらないのか、感情の読めない目つきで「ごめんね」とだけ言って口を閉ざした。

 一刻も早く出て行ってほしい。なるべくならこれ以上の関わり合いになりたくない。面倒ごとを抱えてしまった。耳の奥でそんな言葉がゴゥゴゥとがなり立てている。この男の声だけじゃない、色々の声、色々の言葉がすぐ横から、頭の後ろから、頭上からわたしを打ち据える。

 慣れている、慣れている。慣れている。いつものことだ。だから、だから大丈夫。

 ひと息、静かに吐いてから、落ち着き払って、立ち上がった。それがせめてもの意地だった。このひとはわたしの意見など端から聞く気もないし、どうでもよいのだ。ただ、クレームの対処をしたいだけ、面倒を終わらせたいだけ、厄介ごとの種である「混ざりもの」を締め出したいだけ。投書をした客連中だって同じに違いない。異物に対して無根拠に拒絶反応を示して、嫌悪感を晴らすためにその原因を排除したいのだ。投書の内容に関しても真偽は怪しいとさえ思えてくる。

 黙って、頭を下げた。否も応も答えなかったのは、口を開いたら感情が抑えられなくなりそうだったからだ。さっきのニュースを思い出す。歯向かおうものならば、前後の事情などお構いなしにわたしが非難されるに決まっていた。急ぎ足に休憩室を後にする。

 幾多のいやな視線を振り切ってスーパーマーケットから抜け出す。溜息を吐いたとき、不意に吹きつけた風にはペトリコールが混じっていた。重たい曇天は黒々として、今にも落ちてきそうだ。足を急がせる、降り出す前に帰りたかった。

 思いもあえなく、間もなくして濡れ始まった地面を蹴りながら、耳を聾す風雨や雷鳴の中に、ひときわ大きく、腹の虫が泣くのを聞いた。

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