わたしたちのようなに対しての、世間様からの風当たりというのはまだまだ強い。法改正などによって随分と暮らし易くなったと大人は言うけれど、社会制度はひとの心までをも矯正してはくれない。わたしに向けられる打擲の手を止めてもくれない。

 滲んだ涙を片手で拭う。飲み込んだ唾液は鉄臭い。さっき、口の中を切ってしまったらしい。泣くものかと思っていたって、抑えようもなく声が出る。その悔しさがさらに涙を追い立てる。痛くて、不甲斐なくて、寂しくて、怖くて、涙はどんどん溢れてくる。

 通りすがるひとが、ぎょっとして振り返るのが気配で伝わってきた。そのまま、足早に歩き去るのも。ひとつ気づいてしまうと、他の視線も恐ろしくなって、慌てて路地裏に飛び込んだ。表通りから見えぬよう、室外機の陰に蹲る。普段は気にしないよう努めている排斥や疎外の圧力に、今にも押しつぶされてしまいそうだった。身を守るために、世界からわたし自身を隠すために、膝を抱えて、小さく丸くなる。声を上げて泣いたところで、助けなんて来ないことは知っていた。

 表を行く人の気配から気を逸らすと、別の音に意識が向かう。傍らの室外機の、今にも壊れてしまいそうな、不安定な駆動音を捉えて、知らず耳がそちらを向いた。はっとして、両手で頭を抑える。頭頂で、耳介の回るのは、わたしにとっては当たり前のことだ。けれど人間にとってはあまり、一般的ではない。細く伸びた跗蹠で体を支え、対立した足趾で蹴り出すのも、尾を覆う鱗が時折ごっそりとめくれては新しく入れ替わるのも、明かりのないところであえかな光を捉えられるのも、普通の人にはないことだ。こんなものがなければ、と思ったことは数知れない。

 顔を上げる。壁に背を預け、天を仰ぐ。両脇をビルに挟まれて、遠く、狭いところに押しやられた青空よりも、路地裏に面して外壁に設けられた窓の、転落防止の柵とか、上の方で壁を這う用途の分からない太いパイプとか、そういうのが目につく。ただでさえ薄暗いのに、煤けて、黒ずんで、錆びついて、ドブの底にいるみたいだ。ああした取っ掛かりに縄を掛けて、ぶら下がったなら、わたしみたいなのでも景色の一部になれるだろうか。世界に受け容れられるのだろうか。そんな空想に耽る。安易な自殺願望や軽薄な希死念慮は、口に出せば恰好の嘲りの的だけれど、心のうちに留めるぶんには、苦痛を和らげる薬になるものだ。自分の無残な死骸を夢想して、惨めな自分をそこに投影して、殺して、悲しい気持ちを、切り離す。自暴自棄になって無差別にひとを傷つけたり、承認欲しさに身売りをしたり、そういうことより、よほど健全でしょう?

 目を伏せ、空想を断ち切る。大きく息を吸って、止めた。耳の奥で膨らむ心音を聴く。わたしはまだ、生きている。生きているしかない。死にたい、というわけでもないのだから。

 思い切り息を吐きだして、壁にもたれる。背負ったままの学生鞄が押しつぶされて、むぎゅう、と不満の音を上げる。うるさい、お前みたいなものがあるから、わたしは人間のまねごとをして学校へ行かなければならないんだ。誰もわたしを、人間扱いしてやくれないのに。八つ当たりなのを分かっていながら、背中をさらに壁へ押しつけた。腫れぼったい頬の内側がずきりと痛む。

 のわたしへの興味は、純粋なまでの、そしてそれゆえに不躾極まりない、知的好奇心だったろう。頭の良い彼は、頭の良いひと特有の、未知に対する視野狭窄的な探求心を備えていた。そしてその矛先が偶々わたしへ向いただけだったのだ。彼がわたしへ向ける視線は、幼子が見知らぬ昆虫の死骸を見るときのそれと、なんら変わらない輝きを宿していた。

 そうとわかっていて、それがひどい侮辱と感じていて、彼を撥ねつけられなかったのは、偏にわたしの弱さのためだ。飢えていたのだ、ひととの関わりに。どんな質でもいい、肯定的な関心を向けられたかった。だから、彼の遠慮ない干渉を、要求を、受け容れた。それが他者から、こと思春期の只中にあるクラスメイトたちから、どう見られるのか、考えるまでもないことだったのに。

 優越感がなかったと言ったら嘘になる。だからこれは、当然の報いなのだ。クラスの中心人物であった彼の関心の一端を、わたしみたいな人間の紛い物が引き受けるなんて、分不相応も甚だしい。それでいい気になっていたのだから、何をされたって、仕方ない。

 「カンナに悪いと思わないの?」

 カンナって誰だろうか。

 「生まれながらの情婦は違うね」

 そんな言葉をよく知っているものだ。

 「色目使ってんじゃねえよ」

 ……それはまったくその通り。

 散々殴って、散々罵って、最後には「ごめんねえ、その顔だとに出してもらえないかなあ?」なんてげらげら笑って帰っていく彼女たちを、わたしは黙って見送った。

 たしかに混ざりものの、それも若い女となれば、性風俗では受けがいい。そりゃそうだ、コスプレみたいな外見をデフォルトで持ち合わせているのだから。実際、そういった方向で働く割合も大きいと聞く(ほかに働き口がないというのもあるだろうが)。でもそれは、愛玩動物に近しい見た目の場合だけだ。わたしみたいな、ぐちゃぐちゃと継ぎ接ぎしたみたいなのは、誰だってごめん被るに違いない。だからどんな顔をしていたって、わたしははじめっからお店に出してなんてもらえないよ、残念でした。……そんなふうに内心で、見当違いの反論をすることしかできない。

 あーあ。短い夢だった。明日から、彼をどうやって遠ざけようか。あからさまに拒絶しようものなら、それはそれで周囲の反感を買いそうだし。なかなかの難問だ。溜息と共にゆっくりと立ち上がる。足趾の爪が知らずアスファルトを掻いてギリと鳴る。

 壁の間を雲が渡っていた。日の傾くにつれて路地裏はどんどんと薄暗くなっていた。やっぱり好きだったのかもな、と口の中で呟いた。

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