番うということ

 どれだけ環境が変わっても、恋とか愛とか、そういう口にするだにこっぱずかしいような感情やそれを基盤にした文化は、どうやらそれほど変わらないものらしい。番う相手からの特別の配慮を求め、物質的非物質的を問わず証を求め、周囲からの承認を求め、幸せであれと何の確証もない未来を楽観する。それは人間が努めて保持してきた崇高な文化的遺産などではなくて、きっと本能に起因したひどく原始的な行動の結果なのだ。ご飯を食べるとか、眠るとか、そういうのと一緒。だからこそ、どんな危機に瀕しようとも、進んで継承しようという者がなくなろうとも、我々は意識せずとも連綿と、そういった習慣を今に繋いでこられたのだ。 

 「なにしてんだ?」

 不意に背後から声がかかった。向こうの通りを探していたはずの彼が、いつの間にそこに立っていて、地面にしゃがんでいたわたしを中腰で見下ろしている。太陽を背景に、額に掛かった彼の前髪から汗が滴ってきらりと光った。鼻先に煤がつき、頬には擦過傷ができていた。すっかり薄汚れたシャツの、伸びた襟をさらに引っ張って、彼は顎を伝う汗を拭った。片手にはひしゃげた鉄籠を提げていて、その中には何かしらの金属部品が幾つも入っている。なるほど、わたしと違ってちゃんと成果を上げてきたらしい。

 遊んでいたと思われるのは不本意だったけれど、手が止まっていたのは事実で、言い訳のしようもなく、わたしは地面に転がしたまま覗き込んでいたそれを拾って彼に手渡した。

 「液晶端末タブレット? 動くのか、これ」

 「人工衛星うえからの電源供給でんぱは生きてるみたい」

 「うへえ、よく壊れず残ったもんだ。なんか面白い情報(もの)入ってたか?」

 「物語がいっぱい入ってたよ」

 「物語って、文章か? それだけ?」

 「えっと、それだけ」

 「よし、分解バラすか」

 「ええっ!」

 「なんだよ。電源引っこ抜いたら、他の機械を動かせるかも知れないだろ?」

 「そうだけど……!」

 わたしの抗議の声が聞こえていながら、彼は既に端末を矯めつ眇めつして、腰に幾つも差した工具から取り出したひとつを差し込む隙を探っていた。早速、薄べったい側面に境目を見出したらしく、そこに細い工具の先端をあてがう。どこか卓に置いてやるでもなく、立ったまま、まったく荒っぽいやり方だ。分解してしまったら、二度と元の形には戻せまい。わたしは慌てて立ち上がり、彼の腕をとった。

 「ちょっと待ってよ。もったいないよ」

 「どうしてだよ。空想なんて役に立たないだろ。それにオレは文字が読めねえ」

 「役に立つよ、えっと、ほら、昔の生活とか、文化とか、価値観とか! 知れるよ? 考古学(コーコガク)だよ、貴重だよ」

 渋い顔をしている彼の腕をゆする。この辺りの考え方が合わないのは今に始まったことでなくて、折に触れて似たような問答になるのだが、未だに両者とも自身の主張を譲ろうとはしない。絶対に譲らないもんね。彼は即物的に過ぎる!

 彼にしても、わたしが簡単に引き下がったりしないことを知っている。しばしの睨みあいののち、彼はこれ見よがしに芝居がかった溜息を吐いて、タブレットをわたしに明け渡すのだった。彼の半ば放り投げるみたいに手放したそれを、落とすまいと両腕で抱えて受け取って、わたしは渋々「ありがと」と口にする。

 「まあいいよ。そんな小さい電源があったって、大したモンは動かせないだろうし」

 ひどい言いようだし、それなら初めから壊そうとしないでほしいと思ったけれど、このタブレットに免じて許してやることにした。今回、譲歩してくれたのは彼の方だったし。ガサツでぶっきらぼうでひねくれ者だけど、なんだかんだ優しいのだ。だから二人きりでもなんとかやっていける。

 彼は「もう行こう」と言った。鉄籠を持ち直し、それを重そうに引きずりながら踵を返す。彼の影が長く伸びて、横手の廃屋の壁で揺れた。いつの間に景色を赤が覆いつくしている。元の形も想像できないほど崩れた幾多の構造物とその残骸、むき出しの鉄骨に砕けたガラス、割れた路面から溢れだす得体の知れない液体。すべてがひとしく血を流し、かつての栄光にいつまでもすがりついて涙する。それでいて草のひとつも生えないのは、土壌に撒かれた目に見えない小さな機械が今でも動き続けて、草木を育つ前に枯らしてしまうのだと、以前に行き合った老爺が教えてくれた。都市では当たり前の技術だったのだと。その結果、ほんとうだったら土に還るべき骸をこうして無残に晒し続けているのは、ふさわしい罰なのかも知れないな、と悲しそうに言っていた。

 前を行く彼に従ってわたしも進む。かつてはたくさんの建物があったのだというこの場所も、長い時間が街並みを低く均してしまって、遠くまでよく見渡せた。どこまでも続く地平線の一角に、ただひとつ、天を衝くような高層の構造物が立ち上がる。ガラス張りらしい壁面に夕日を映して、背後の空は既に夜の色へ染まりつつある中で、眩しいほどに赤々と燃えている。何日歩いても、一向に辿り着かないあの場所へ、いつか行ってみたいねと、彼とはよく話をする。いったいあれは、なんなのだろう。

 「それ、どんな話なんだ?」

 前を歩く彼が、足を止めず振り返る。

 「なんのこと?」

 「そのタブレット。物語って言ったって、いろいろあるだろ?」

 「なに。気になるんじゃん。全部は見てないけど……、ラブロマンスが多い気がする?」

 素敵な恋の物語。永遠不変の愛の形とか、仮令そんなものがなくたって、それを夢見て追い続けるひとたちの悲喜交々。遠い昔の、お気楽とも言える愛憎劇には、少々ならず目を背けたくなるような、おくびでも漏れそうな、甘ったるさも感じるけれど。でもなかなかどうして、拒絶するには惜しいようにも思われる。

 せっかく答えたのに、彼は関心なさそうに「ふぅん」と頷いてまた前を向いてしまった。その背中からも、どんな感情も読み取れない。なんだよもぅ。わたしがひどく浮かれているみたいで恥ずかしいじゃないか。

 家路を黙々と歩いた。夜に追いつかれないよう、知らず歩調は速まった。暗くなる前に帰らなければ。今夜は新月だ、見知った土地の景色でも、朝と晩とで目を離した隙に様変わりしているのが常であっては、記憶もさして役立たない。光源の持ち合わせはあったけれど、開けた場所で使っては目立ちすぎる。それは避けたかった。

 彼の足が一層速まる。鉄籠は片側をわたしが引き受けて、ふたりで持ち上げていた。重い籠を提げながら、背の高い彼に合わせて歩くのは、とても大変だ。足が絡まりそうになりながら、転がる小さな瓦礫を乗り越えた。途中、遠くで獣の唸り声を聞いた。草のひとつも生えないような場所でも、食べるものはある。

 ほとんど走るような調子で、どうにか家までの道程を辿り切った。彼は荷物を床に放り投げると、すぐに外へ出て、周囲に巡らせた有刺鉄線を確認しに行った。わたしは上がり切った息を必死に押し込めて、室内のあちこちに巡らせた糸を見て回る。朝、ここを出るときと変わりないのがわかって、ようやく息を吐けた。そのうちに彼も穏やかな顔で、薪を抱えて戻ってくる。

 「もうすぐ、薪もなくなる」

 「また買いに行かなくちゃね」

 頷きあって、火を焚いて。燠になったそれをふたり並んで眺める。もとは巨大な建造物だったのだろう一角の、どうにか残った基礎部分に屋根代わりの板を渡しただけの、貧相な「家」だったけれど、落ち着いてしまえば不満はなかった。

 拾ってきたタブレットを置いて、電源をつける。熾火にほんのり勝る程度の、淡い光が画面に灯る。もとの持ち主は不用心だったのか、物語を入れるだけのタブレットにその必要性を感じなかったのか、セキュリティはかかっていなかった。幾つもの書籍の、背表紙を象ったアイコンが画面いっぱいに表示される。知ったタイトルなどなかった。しかしほとんどの書籍に「ふたりは~」だの「あなたの~」だの、男女と思しきふたりの名前だの、もっと直接的に「恋」やら「愛」やらの文字が入っているのだから、内容は推して知れるというものだ。さっき読んでいたタイトルに触れると、すぐに続きが表示された。恋人の浮気が発覚して、主人公が怒りよりも戸惑いを覚える、そんな場面。

 不意に、彼が身を寄せてきた。首だけで振り返ると、わたしに覆いかぶさるみたいに、彼はわたしの肩越しにタブレットを覗き込んでいる。文字ばかりが並ぶ画面を見て、鼻の頭にしわを寄せ、それはわたしのせいじゃないのに、「読めないぞ」と文句を言う。

 「おもしろいのか?」

 「まあ。わたしにはね」

 肩を竦めると、彼はひとっつも似合わない難しい顔でしばらく何事かを悩み、しかめつらしい声音でもって口にした。

 「文字、覚えるかなあ」

 「なに、いきなりどうしたの」

 これまであれほど嫌がっていたくせに。

 すると彼は目をぎょろっとこっちへ向けて、まるで怒っているような口調でこんなことを言う。

「お前がおもしろいと思うものを、おもしろいと思えるようになりたい」

 頬を寄せるくらいの至近に彼の顔があって、彼の大きな目は暗がりの中で熾火を宿してチラチラときらめいて。衒いもなく、まっすぐな視線は、きっと彼自身にも自覚のない熱を帯びている。まったく、不意打ちもよいところだ。咄嗟に言葉が出てこない。だからせめてその深い色に染まった瞳に応えようと、彼の瞼に唇を寄せた。

 「なんだよ、真面目なんだぞ」

 「あはは、わかってるよ。そしたら、教えたげる」

 「おう」

 彼は至って真面目な顔で頷いた。夜のおかげか、そうでなくとも彼は案外気づかないものかも知れないが、わたしの頬の赤いのを気取られる気遣いがないのはありがたい。タブレットに触れて、別の書籍を呼び出した。文字を教えるのに、読むのが浮気を描いた悲恋の愛憎劇では、読み進むのが大変だ。

 適当に表示した、明るそうなお話の、文字列を指先で追いながら読み上げる。彼はひとつもわかっていないくせに「おおー」と感動の声を上げている。わたしは苦笑を漏らしながら頭の隅で考えた。

 恋とか愛とか、そういう文化は変わりない。相手に特別の配慮を求め、証を求め、承認を求め。でも、わたしには番うべき相手が彼しかいなかった。彼の他に、生活を共にできるひとがいなかった。選んだのでも、選ばれたのでもなく、わたしたちは、ともに生きるほかに術がなかった。先の、浮気の話が頭をよぎる。過去の人たちはきっと、多くの他者から相手を見出した。だからこそ、他より特別なのだと確信できていた。

 わたしと、彼らと、沸き起こる感情に相違なくとも、これはおんなじ恋や愛と、言ってよいものだろうか。わたしはこの気持ちを、特別に思ってよいのだろうか。彼の声に、彼の仕草に、彼の思いに、わたしはわたしの気持ちを持て余して、不安になる。

 或いはこうした疑問の答えに困って、番うということの形にこだわることさえも、このこっぱずかしい気持ちに伴ってよくあることだということに、わたしはまだ気づけない。


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