空は晴れていたけれど

 彼女は自らを「神様だ」と言った。

 たしかに、彼女が姿を現すのはいつだって神社の境内でのことだったし、華奢な体躯でありながら妖艶ささえ醸すほど美しい容姿は神々しいと形容できたかも知れないし、しゃんとした居住まいには緋袴が驚くほど似合っていたし、丹念に梳られた髪の上で頭には人ならざる三角形の耳がちょこんと乗っていた。ただの人間でないことくらい、初めからわかっていたことだった。

 賽銭箱の端に胡坐をかいて、彼女は得意げに胸を張る。どうだすごいだろう、さあ褒めろ崇めろ奉れ、と口に出さずともそう言っているようだ。

 「だけどなあ、」

 ぼくは彼女の脇で、拝殿に上る階段に足を投げ出して、賽銭箱を背に彼女を逆さまに見上げる。屋根の裏や梁に意味深なお札がたくさん貼ってあるのを背景に、彼女は境内を囲う林間を抜けていく風に気持ちよさそうに髪を揺らす。いつも彼女が仄かに漂わす、お線香か香木のような、まぁるい感触の香りがぼくの鼻をくすぐる。

 なるほど風上に顔を向け薄く目を瞑る彼女はどこか神秘的な空気さえ纏っていて、神様だなんて大それたことを名乗るだけのことはあったけれど、信じられるかというとそれはまた別のお話だ。彼女の膝の上にはふわふわの毛がたくさん生えた長いものが乗っている。その一方の先は膝の上で時折うにうに動いていて、もう一方の先は脇から彼女の背に回り尻にまで繋がっていた。そして頭の上では耳が揺れている。今まで機会を窺って言えずにいたけれど、ずっと言いたかったことがある。

 「ここ、お稲荷さんじゃないよ?」

 参道の向こう、鳥居のすぐ外側でその脇に控えている立て看板を指さして言った。一見すると木組みの古風なつくりでも、コンクリートをそれっぽく整えたところに文字を印刷しただけの、情緒のない現代ものの由緒書き。書いてある文章ももちろん平易な現代語であって、文字の形だけ草書のように崩してあるのが物悲しい。しかしそれゆえに、ぼくのような学のない人間にもこの寂れた神社の由来が知れる。どこぞの大きな神社からの分霊を祀っているとかで、豊作の神様には違いないがその姿は猿なのだという。鳥居は白いし参道の左右で参拝者を迎えているのも狛犬だし。猿の神様に狛犬って……犬猿の仲的なことにはならないのだろうか。

 ともかく彼女の姿と神社の由緒はちぐはぐなのだった。ただの化け狐と言われたほうがまだ信じられる。いや、化け狐なればこそ、彼女はぼくを騙そうとして神様を名乗ってみせたのだろうか。もしそうなら、ぼくを騙す理由はなんだろう。

 ただの人と違うことだけは確かだったから、勘繰りが働いてしまう。彼女から悪意を感じたことはないけれど。

 ところが彼女は片膝に頬杖ついて首を傾けて、横目に僕を見下ろして言うのだ。空いた片手は頭にやって、耳の裏をかいている。

 「お稲荷さんってなに?」

 「ええ?」

 そうきたか。

 「ほら、狐の姿をした神様だよ。キミみたいな」

 「知らないなあ。わたしずっとここにいるし。ここの人たちお供え物くれるし。それならわたしは神様でしょう?」

 「そういうものかなあ」

 「あ、ちゃんと田んぼを手伝ったり、流行り病のひとを看病したり、そういうのしてたときもあるよ」

 ぼやくぼくの上で、慌てたように彼女は付け足す。ふわふわの尾を胸の内にぎゅっと抱いて身を乗り出す姿はまるきり童べのそれだ。ますます神様っていうのが怪しくなる。或いはむしろこういう無邪気さこそが神聖とか清浄とかそういうものの現れなのだろうか。

 「いつの話だよそれ。このあたり、田んぼなんかないじゃん」

 「ほんとだってば。まあ、最近は暇をしているけどさ」

 「はたらけ」

 「働き口がないの!」

 彼女は眉根を寄せ語勢を強めてそう言い放ち、自分の尾をひときわ強く抱きしめてそこに顔を埋めた。そのまま賽銭箱の上に我が身を転がす。ぼくが同じことをやったら賽銭箱を蓋するたくさんの横木に背が当たって痛そうだけれど、彼女の仕草は軽やかで布団に倒れこむのとそう違いなく見えた。音がしないからだと気づいたのは後になってからで、そのときには、神様を自称する彼女には重さなんかないのかも知れないと思っただけだった。

 猫のように(狐のように?)身を丸めて静かになってしまった彼女へ掛けるべき言葉も見つからず、神社の境内へ視線を移す。鳥居からここまでまっすぐ伸びる参道、途中横手には手水舎、反対側には常駐ではないが社務所がある。その手前には小さいながら絵馬掛けが立てられて、幾つも掛けられた絵馬はほとんどが風雨で黒ずんでいたが、幾つかは木漏れ日を反射して白く光っていた。大きな社と比べたら敷地はささやかかも知れないが、外周は二抱え三抱えもある大木に囲われて、神社の体裁としては立派なものに思われる。辺りは住宅街で参拝者も幾らかはあるようだし。荘厳とは言わずとも静謐で、抜ける風にも言い知れぬ気配を宿す何者かの息吹を感じるような気がした。信仰の絶えた廃社と違って、この神社はまだ生きている。それなのに暇だなんて。でも、たしかに、由緒書きの通り豊作の神様ならこのご時世ではお役御免なのかも知れない。

 彼女を見上げる。顔は見えなかったが尾の先が賽銭箱の端からこちらへ力なく垂れている。遠くに視線を戻しつつ、少し迷ってから、ぼくは努めて明るく声を出す。

 「ちょっとおもしろいね。みんな猿の神様を祀っているつもりなのに、正体は狐の神様だもんね」

 わざとらしかっただろうか。僅かの間があって、彼女は毛の中に潜ったままもごもごと返事をした。こちらも声音だけは露骨なくらいの溌溂としていた。

 「猿の方がよかった? こっちの方がかわいいかと思ったんだけど」

 「ん? キミは狐の神様なんでしょ?」

 「いんや」

 と否定した声色が唐突に男のものに変わってぎょっとした。慌てて振り返ると、賽銭箱に座っているのが彼女から、手足の長いすらっとした男にすげ代わっているではないか。身に引き付けるのは喪服みたいな黒いスーツで、なんの冗談か背中には一対の真っ白い翼を生やし、頭の上には光の輪まで乗っている。片足を拝殿の床について腕を組み、涼やかな顔で僕を見下ろすその男。全く見知らぬ顔だったが、その面差しは不思議と彼女によく似ていた。

 この男が彼女と同一人物(人物か?)であることには考え及んだけれど、到底すぐには理解が追いつかない。だいたい、猿じゃないじゃん。性別はおろか宗教観すら変わっているし。神社に天使がいていいのだろうか。

 彼女(彼……?)はよほどぼくの茫然とした顔がお気に召したようで、にやにやと嫌味な笑みを浮かべた。切れ長の目に細い輪郭線の涼やかな顔立ちの美男子で、その意地の悪い表情が憎らしいほどによく似あっている。ほんのり癖のある栗毛をかきあげる、その様も一流のアイドルみたいだ。彼は頭にやっていた手をそのままぼくへ差し向けて、小首をかしげる。

 「こういう方が好き?」

 「いや、ええ? 狐の神様だから、ほかにも化けられるってこと?」

 「そうじゃなくて。あー、まあいいじゃん、なんでもさ。どっちが好きか答えてよ」

 よくはないでしょ……と言ってみたが、彼はまた腕を組み、ふいっと顔を背けてしまう。唇を尖らせる様などはどことなく女の子っぽい。どちらが本質なのかと訝ったが、神を指して両性具有なんて言葉もあるくらいだ、考えるだけ無駄なのかも知れなかった。

 それはともあれ、彼の不機嫌を直さねばならないし、生憎とぼくに男色の気はなかった。どうせ話すなら、女の子の方がいい。

 「さっきの方が好きだなあ」

 面と向かって口にするのはこそばゆくて、遠くを見ながら言った。鳥居の向こうは昼下がりの日差しに白く染まっている。そこにじわりと人影が滲んだ。誰か参拝者が来たらしい、そろそろ頃合いか。

 よっこらせ、と立ち上がる。彼女もまたひょいと賽銭箱を降りて隣に並んだ。横目にそれを見て、見慣れた姿に知らず安堵の吐息が漏れる。微かに息をこぼしただけのつもりだったけれど、耳ざとく彼女はそれを聞きとがめて、大きな耳がぴくりとこちらを向いた。一拍遅れて彼女がぼくを見上げる。腰の後ろで手を組んで、彼女はぼくにずいと顔を寄せる。

 「かわいい?」

 なんだこいつ、ぼくのこと好きなのか?

 「……かわいいよ」

 ぶっきらぼうにしか言えない自分が情けない。身を逸らしてため息を吐いたぼくの横で、彼女はくすくすと楽しげに笑っている。ベビーカーを押したママさんが参道をゆっくりと歩いてきていた。目の端で彼女がまだ肩を震わせながらも踵を返す。草鞋が板を擦る軽やかな音が鳴る。

 「じゃあね。また来るんでしょう?」

 「ほかに居場所もないしね」

 「がっこーとか、ともだちとか、あるくせに」

 「そんなにいいもんじゃないよ。なんなら行ってみる?」

 「ふふふ」

 彼女は答えず、意味深な含み笑いだけを残して階段を下りていった。一段跳ばしに、紙風船みたいにふわふわと下りきると、すぐ横手に折れて拝殿の裏へと回る道を辿る。背筋をぴっと正して颯爽と歩む姿は、なびく髪や揺れる白衣の袖、そして後を追う尾も相まって、熟練の舞台演劇のようでさえあった。建物の陰に隠れてしまう間際、彼女は歩きながらこちらを振り向いた。片腕を真っすぐ伸ばしてひらひらと手を振る。途端に神秘的な気配は霧消して、まるでただの少女のような笑みをおいて彼女は消えた。小さく手を振り返してぼくはそれを見送った。

 さて、ぼくも行かなければ。拝殿へ向き直り、形だけ、手を合わせてお参りを済ませる。賽銭箱へ五円玉を放ることも忘れない。そうしてぼくは神社を後にした。すれ違ったベビーカーのママさんは、この人も熱心に参拝しているひとで、お互いによく顔を見合わせるものだからすれ違いざまに会釈をしておいた。子どもは元気に育っているようで何よりだ。

 鳥居を抜けて、一度背伸びをする。なんとも気持ちのいい晴れ空だ。日は既に高く上り、昼餉の用意に忙しいのか、住宅街はしんと静まり返っていた。制服の襟を整えて鞄を背負いなおす。いまさらどれほど急いだところで甲斐もない、ぼくはのんびりと足を踏み出した。

 学校、行きたくないなあ。雨でも降ったらいいのにさ。

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