猫さんと海と透明なわたし

 学校から帰る道すがら、いつも少し遠回りして海辺を歩く。人の世に無関心な顔をした白い月が、まだ色の薄い空の低いところで退屈そうに浮かんでいる。柔らかく吹く潮風は、夕日を追って向かいの斜面をのぼっていく。防波堤のすぐ下はテトラポットで埋め尽くされて、浜も港もない、人気の失せたこの一角に打ち寄せた波が空しくちゃぷちゃぷと音を立てていた。

 いつもと同じところで立ち止まる。一応辺りを窺ってから通学鞄を防波堤の上に放る。胸下くらいの高さがあるこのコンクリートの壁に、無理やりよじ登る。上面に突いた掌や肘がコンクリートに擦れて痛かったけど、今日は制服を汚さずに済んだ。そっと腰を下ろして胡坐をかく。行儀が悪いけど、海側に足を下ろして座ると、腿の裏に堤の荒れたコンクリートの角が刺さって痛いのだ。掌に着いた、乾いた苔みたいなコンクリートの汚れを手を叩いて払い、思い切り伸びをした。ため息を吐いて遠くへ視線を遣る。

 背後からの夕日を半身に浴びて煩わしげに横たわる岬の赤茶けた木々、飽きもせずに繰り返し寄せては返す白波、海の上に無目的に漂う幾つもの小さな船と、暗くなりゆく空で所在なく欠伸をする三日月。波音の他に聞こえるのは、崖上の道を時折思い出したみたいに走りゆく車の音だけで、海鳥の声もしない。誰であれ、何であれ、わたしに関心を向けるものは存在しない。誰も彼もがわたしを忘れて、わたしはこのひととき、透明になる。透明なわたしは一方的に世界を見つめて、その美しさに酔いしれる。

 わたしの思う、理想の世界。それはまず、わたしがいないことによって現れる。美しい景色、美しい音、美しい愛。そういったものはわたしの手振りひとつで砕けてしまうし、わたしの声ひとつでかき消されてしまう。そんなふうに思うのだ。もちろんわたしの存在なんて、この世界にとって取るに足らなくて、あろうがなかろうが微々たる差も生み出さなくて、誰にとってもなんら価値を持たないのだろう。でも自分の耳目や肌からしか世界を覗き込めないわたしにとって、わたしの存在を省いては世界を考えることなんかできはしない。わたしの感じとる世界に、わたしの存在はひどく大きな影を投げかける。そしてあっという間に、美しいこの世界を壊していくのだ。通りすがりの窓ガラスに映る我が身に、友人との何気ないおしゃべりに、視界の隅で揺れた草花に、わたしはわたしの不要を自覚する。いたたまれなくなって、目を伏せる。それでも足元から伸びる影がわたしの存在をこの世界に未練がましく繋ぎ留め、縛り付けている。

 死ねたらよかったのにと、ときどき思う。死ぬことができたなら、そのときにはじめて生きる資格を得られるのではないかと、無茶苦茶なことをときどき思う。でもわたしには自らの命を断つような気概は持ち合わせていなかった。そしてその意思の薄弱さが、世界をさらに汚していった。

 死ぬことはできないから、生きているしかないから、せめて誰の邪魔にもならないように、何も壊すことのないように、わたしはこうしてひとときでも透明になれる場所に縋りつく。こうしている間は、許されることはなくても、束の間見逃してもらえるかも知れないと自分に言い聞かせる。そしてようやく、わたしは密かに息を吐くのだ。

 防波堤の上を、一匹の猫さんがとてとてと歩いていた。潮風に毛と髭を揺らして、キジトラさんは段々とわたしへ寄ってくる。そうしてわたしの手が届くかどうかという絶妙の距離で足を止めた。じっとわたしを見つめる。その視線には特別の警戒の色はなくて、そうかといって友好や関心が兆すでもない。ただ無表情に、わたしを見るだけだ。ここにいると、よく姿を見かける猫さんだった。

 猫さんは海へ顔を向けて、すっと座り込んだ。尾が防波堤の内側に垂れて、その先が別の生き物みたいにくねくね動いている。猫背、なんて言葉があるけれど、このキジトラさんの座る姿はしゃんとして、ちょっとした気品を漂わせていた。わたしも見習って、胡坐のまま、少し背筋を伸ばしてみる。猫さんはわたしが身動ぎしても片耳をこちらに向けただけだった。

 猫は好き。全然わたしに興味ないのに、わたしのそばにいてくれる。好かれていないのがわかるから、嫌われる心配をしなくていい。好かれようと努力しなくていい。猫さんにとっての世界は、わたしのそれとは全く隔たれている。わたしがどんなに醜くとも、この猫さんには関係がない。それなのにそばにいてくれる猫さんに、とっても安心する。安心して初めて、わたしはすごく寂しい気持ちでいたのだと気づかされる。猫さんとこうしてきれいな景色を眺めるのが、このところのわたしの楽しみだった。

 猫さんはふと口を開いた。

 「今日も来たのだね」

 低く落ち着いた、柔らかいのに冷たい、やはりわたしには無関心なのだろうと思わせるおばあちゃんみたいなこの猫さんの声が、わたしは好き。

 「猫さんだって」

 「散歩道だからね」

 「わたしも帰り道だよ」

 「遠回りだろう」

 「ふふ、そうだけどね」

 わたしが笑っても、猫さんはわたしに合わせて愛想笑いなんてしない。むしろ急に口を噤んで、まるでわたしになんて初めから気づいていないような顔で、潮風に髭をそよがせる。猫さんが話さなくても平気そうにしているから、わたしも言葉を探さなかった。わたしと猫さんは、確かに横に並んでいたけれど、別々の海、別々の月を見ていた。手を伸ばしても届かないこの距離は、絶対に縮まらない分厚い隔たりだった。この壁があれば、仮令わたしが猫さんの方へよろけても、猫さんの世界を汚さないで済む。この壁に寄り掛かったって、猫さんを煩わせずに済む。

 物憂げな月は首に縄を掛けられて、少しずつ宙へ引き上げられていく。その端から砕けた光が、星となって空に散る。波は夜闇から逃れようと繰り返し打ち寄せていたけれど、あえなくテトラポットに阻まれてその身を夜に染めていった。やがて諦念を滲ませて波音は静かになる。

 月明りに淡く照らされて、猫さんは音もたてずに立ち上がった。タペタムのきらきら光る眼でちらっとわたしを見た。わたしは気づかないふりで夜空を見上げていた。今日はもう帰るのだろう。猫さんとのひとときが終わってしまうのはとても寂しくて、ほんとうは引き留めたいのだけれど、それはしたらいけないことだ。お別れの一言さえも、口にしてしまえばわたしたちの間に立ち上がる壁に傷をつけてしまうかも知れない。透明な壁にできた傷は、猫さんの世界からだって見えてしまう。わたしが猫さんの世界に傷を作ってしまう。それはしたらいけないことだ。だから今日も、わたしは唇を噛んで、万が一にもなにか口走らないように黙っていた。わたしは猫さんが帰ろうとしていることに気づかない。そして、いつの間に猫さんがいなくなったあとで、ひとりになってから、寂しい気持ちに浸るのだ。

 猫さんは防波堤を飛び降りた。猫だけあって、耳をよく澄まさないと聞こえないくらいの足音しか立たない。いつもこうして猫さんは、わたしの知らない間に、知らないところへ帰っていく。次に会う約束なんかない。それでいい。猫さんとわたしは友人とか仲良しとか、そういうのではないから。そういう窮屈で身勝手な、怪物みたいに冷たい関係ではないから。

 そろそろ行ってしまっただろうか。猫さんはきっと耳がいいから、遠くからでもわたしの声が聞こえてしまうかも知れない。だからしばらく息をひそめて、月明りに揺れる白波を見つめて、それから口の中で呟いた。

 「……ばいばい。また明日も、会えるかな」

 海と夜空との曖昧な境界に、月の光が映って長く伸びている。空へ誘う道と見えても、それは波に揺れ不定形に伸び、縮み、太り、細り、ほとんど途切れそうになってどこへ行かれそうもない。一歩踏み出せば暗い水底に引きずり込まれて、そして二度と帰ってはこないのだ。

 返事は、なかった。猫さんは帰ってしまったのだから当たり前だ。でもそれが当たり前と、自分に言い聞かせなければならなかった。何を期待していたのだろう。両膝を抱え込んで膝がしらに額を押し付ける。何を期待していたのだろう、わたしは。透明になりたくてここに来たはずだった、わたしさえいなければこの世界は完璧のはずだった。それなのにわたしは、やっぱり誰かとの関係を求めている。そんなわたしがひどく卑しくて、惨めで、醜いものに見えた。どうしてわたしはこうなのだろう。

 いっそ誰もいないあの水底に沈んでしまえばいいのだろうか。誰もいないとわかっていれば、誰かを求めずに済むのだろうか。そしてわたしは暗い、暗い海の底で、眼を閉じて、耳を塞いで、わたしのいなくなった美しい世界を夢想するのだ。ああそれはきっととても素晴らしいことだ。そうなれたならどれほどいいだろう。

 目を上げる。どこへも続いてはゆかない光の道を見つめる。腕を解く、足を下ろす。腿の裏にコンクリートが痛い。テトラポットを見下ろすと、わたしの身の丈と同じくらい下で、波に半身を浸している。ここから飛び降りて、テトラポットを乗り越えて、月を道標に夜の底へ行こう。そうしたらわたしは、わたしの生きることを許せるに違いない。

 両脇で手を突いて、防波堤の上に立ち上がる。そのまま防波堤を降りようと思ったところで、すぐ横から声がした。

 「言い忘れたけれど」

 びっくりして振り向く。いつの間に猫さんが戻ってきていて、さっきとは反対側で、わたしの左足のすぐ隣に座っていた。ぜんぜん気づかなかった。いつからそこにいたのだろう。

 猫さんは相変わらず海の先をのんびり見つめて、緩い海風に髭を揺らしていた。

 「明日は、雨になる。傘を持ってくるんだね」

 それだけ言い残して、大あくびをすると、わたしの返事も待たずに猫さんは立ち上がった。お尻をこっちに向けて、尻尾をわたしの足首にそろっと絡める。その温くてくすぐったい感触はすぐに離れて、猫さんは防波堤の上を向こうへ歩き去っていく。

 明日。明日は雨か。猫さんは雨の中でも散歩をするのかな。それともそこらのあばら家の軒下で、雨雲を気だるげに見上げているのかな。そのときわたしは、猫さんとまた海を見ていてもいいのかな。

 ざやざやと、背後で木々がさざめいた。一陣の風が急に海から吹き寄せて、わたしを後ろへ押しやった。幅の狭い防波堤に立っていたわたしは、あえなくバランスを崩して防波堤を飛び降りる。どうにか転ばずに足をついたのは、もちろん地面の上だった。

 よかった、海に落ちるかと思った。怖かった。さっきまで海に飛び込んでやろうと思っていた、その意気はあっという間にしぼんでなくなってしまった。思い切り地面に突いてしまった足がしびれて、わたしはその場にしゃがみこむ。ああ、やっぱりわたしに、死ぬのは難しいなあ。ため息を吐きながら、顔を上げて向こうを見つめる。あれだけ強い風が吹いたのに、猫さんはなんでもなかったように、防波堤の上をとてとてと歩いて夜闇に紛れようとしていた。

 死ぬことより怖いことはない。わたしは思い切って声を出した。

 「明日、煮干し持ってきたげる!」

 猫さんは一瞬だけ足を止め、わたしを振り返った。

 「気が利くじゃないか」

 小さくそんな声が聞こえて、それからすぐに、猫さんは夜の向こうへ消えてしまった。わたしはなんだか笑いがこみあげて、声を殺して笑った。くすくすと肩を震わせながら鞄をとって家路についた。

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