首輪、確かな関係性

 窓ガラスの隅にひびが入っていることが、ずっと気になっていた。

 窓に面したカウンター席に腰掛けて、しばらくもせずに気がついた。おしゃべりの途中でふと視線を上げたとき、ガラスの左上の角で放射状に延びたその亀裂が目についた。それが何ということはないのだけれど、ひびを見つけたことで、目の前にガラスがあることと、その向こうにも空間が広がっていることを意識させられた。窓越しに見渡す街並みは、今は閑散として街路樹さえ枯れて朽ち果てていたけれど、見えているものは絵画や映像ではなくて、ガラス一枚を隔てただけの地続きな場所なのだと教えてくれた。外の歩道を誰かが通りかかったなら、そのひとはぼくたちがここに座っているのに気づくだろう。僕たちがおしゃべりをしたり、ごはんを食べたりしている姿が見えてしまうのだろう。

 それで気づいたことがある。ずっと上から足元まで、右も左も数席分にわたって伸びるこの大きな一枚ガラスは、カウンター席に座ったひとが景色を楽しむためにあるのではなくて、きっと通りかかったひとにお客の姿を見せるためにあるのだ。このお店の商品を食べたり飲んだりして寛ぐひとの様子を見せて、道行く人にこのお店を宣伝しているのだ。するとぼくたちは、さしづめ陳列棚のケーキといったところだろうか。

 なんていう推理をツレに開陳して見せたところ、

 「つまんな」

 と短い一言を賜った。なかなか厳しいことだ。しかしそんなところが好ましい。彼女は左腕で頬杖ついて、窓越しに辺りの風景を眺めながら右手に持ったハンバーガーにパクついている。眺めやる景色にさしたる感慨も起こされないといった表情で、眠たそうに僅かに降りた瞼が、きれいな二重のラインを強調していた。薄曇りの中天の日差しが窓越しに淡く差し込んで、日に透かされほんのり赤みを帯びた長い睫毛がきらめいている……

 ふいに彼女の視線がこちらを向いた。頬杖をついたまま、傾けた首で斜めに上目遣いを放るような、気のない仕草。むぐむぐと咀嚼を続けていた口が動きをとめて、喉が小さく動く。ハンバーガーの包みを卓へ置くと、唇の端についたソースを右手の親指の腹で拭い取り、そのまま指先を浅く口に含んでなめとった。そうする間も、つまらなそうな目でぼくを見ている。いったいどうした用件だろうと、ぼくも首を傾げて見つめ返した。なぜとなく、色の薄い唇と華奢な親指の腹との狭間にぼくの目は吸いついて、離れていかなかった。

 ツレはひとしきり親指の味を堪能したか、気だるげな、緩慢な動きで口を離した。湿った唇が指の腹に張り付いて、微かの間だけ引き伸ばされて、やがて離れたときにふるりと弾んだ。唇を巻き込んで閉じた口の境から、濡れた舌先が覗いて、右から左へ素早く移動して、唇の表を舐めていった。

 「なに?」

 気持ちの読めない、平坦な声音にはっと我に返る。いつの間にツレは左の掌から顎を離し、首をこちらに向けていた。片方の眉を上げて、訝しげにぼくを見ている。

 別段、なにということもない。むしろぼくの方こそそれを問いたい気持ちでいたはずなのだけれど、彼女の声音はこれといって含むところのないようだった。ぼくは曖昧に首を振って答えた。なんとなく居心地の悪い心持ちがして、窓の向こうを見る。視界の端で、ツレは「ふぅん」とこちらも曖昧に頷いているようだった。

 窓の外、車道を挟んだ対岸に建つビルは、集合住宅の一階部分が貸店舗になっていたらしい。今は固く落とされたシャッターに、スプレーかペンキか、原色で荒々しく文字が書きなぐられていた。文字の種類も判然としなければ、このうえ意味をとることもできないような、文字の切れ間も不分明な文章だったけれど、なんとなくそれは確かに文章で、恨み言を書き連ねているような気がした。よくみるとシャッター自体が重たい鈍器で殴られたようにあちこちに凹みを作り、シャッターの上で外壁に掛けられた看板は表面を割られて内側の蛍光灯が露出している。そういう暴力の跡に引きずられて、文字までもおどろおどろしく見えているだけかも知れない。

 見つめていると自分の心にまで呪いの文字を刻まれてしまいそうな気がして、左右に横たわる車道に目を移す。すぐ左手は十字路に突き当たり、片側一車線ながら繁華街を縦横に切り分けるこの十字路は、はす向かいの岸辺にまで横断歩道が渡されていた。往時には無数のひとがひしめいて、各々の向かう先へ足を急がせていたのだろう。信号の色が変わり、岸に溜まったひとが一斉にあふれ出す。ひとりひとりがてんでばらばらに動き出す。彼らはどんな顔をして、どんな服装で、どこへ行っていたのだろう。興味があるかというと、違うような気もするけれど、人波を想像するのは心が踊った。

 隣で、身じろぎの気配。ツレはハンバーガーを食べ終えて、包み紙を丁寧に折り畳んでいるところだった。角をそろえて卓に置き、左手で紙の角を押さえて右手を折り目にさっと滑らせる。いつも執拗なくらいに手入れをしている形のよい爪が、細くも芯のあるようなしなやかな指先に行儀よくのって、紙の上でひらめく。爪は漆か墨でも塗り込めたみたいに艶のある黒に染まっていた。何かを塗っているというのではなくて、それが彼女の、生来の色らしい。犬や猫にも爪の黒いのはいるけれど、彼女のはそうしたものとは事情が違うように思う。なぜって、彼女のむき出しの手足はよく日焼けをして小麦色になっていたけれど、今は装いのうちに隠れている、普段は日に晒されないところでは、その肌が対照的に透明なくらい白いのだ。爪の黒い犬や猫は、大概、体毛に隠れた地肌も黒いものでしょう。そうでなくとも、ペットと同じにされたら、ツレは怒り出すに違いない。

 ツレは包み紙を小さく畳んで、その角の整ったのに満足したのか、目線の高さに掲げて小さく息を吐いている。笑みでも浮かべたらいいのに、相変わらず眠そうな顔をしている。といって、彼女は始終こんな顔をしているものだから、表情の如何は内心を窺うときあまりあてにならない。ほんとうにつまらないと思っていることも、往々にしてあるのだけれど。

 少なくとも今この瞬間を楽しんではいるようだから、よかった。悟られぬように、気持ちだけで、ほっと胸をなでおろす。あり合わせで作ったハンバーガー(のようなもの)を持ち込んで、こんなところにまで足を運んだ甲斐があったというものだ。

 「帰る」

 ツレは先まで得意げに掲げていた包み紙を卓へ無造作に放った。卓の手前の端を両手で掴んで、それを横合いへ押しやった反動でくるりと丸椅子を回転させて後ろを向く。軽やかに椅子を降りて立ち上がる。そうしてぼくを肩越しに振り返った。「帰る」。もう一度、念を押すみたいに口にする。ぼくは自分の卓の前で、まだ食べきらない昼食を指さした。ツレはむっと眉根を寄せる。こういう感情ばかりははっきり面に表すのだから困ってしまう。しかしぼくが遅いのでなくて、彼女が早すぎるのだ。もう少しゆっくり食べたらいいのに。でも、それほどおいしかったのだろうと思えば、あんまり悪い気はしない。

 ぼくは肩をすくめて彼女の不満をいなした。ツレはじっとつい立って僕を見下ろしていたけれど、渋々といった面持ちで、唇を尖らせて、再びすとんと丸椅子に座った。腿の間で座面に両手をついて、床を踵で踏み切ってゆっくりと四半回転、ぼくに体を向ける。いや、ぼくではなくて、ぼくの食べかけのフライドポテトに狙いを定めていたのだろう。すいっと伸びてきた手がポテトをひとつ取って、あっという間にツレの口の中へ運んでいった。むぐむぐと咀嚼する間も彼女の顔は晴れない。食べても構わないけれど、せめておいしそうに食べてほしいものだと思う。ちょっとだけ意地悪な気持ちが湧いて、ぼくは手を休め、ツレの顔を正面に見た。

 「先に帰っていても、いいんだよ?」

 芝居っけをたっぷりに首を傾げてやる。するとツレも一瞬だけ手を留めて、ポテトの包みに向かっていた顔から視線だけをぼくへ向けた。渋面がころっと抜け落ちて、またもとの眠そうな無表情に戻っている。ぼくを見たまま、今しも掴んだところだったポテトをゆっくりと口に入れた。猫が警戒しながら獲物を咥えて、隙あらば逃げ出そうとするような、そんな仕草に見えた。でもそこにあったのは警戒や先までの不満でなくて、はっきりと怒りだっただろう。ツレは緩慢な仕草で身を起こして、背筋を伸ばす。僅かに仰向いて喉を日に晒す。その間も横目にぼくから視線を外さなかった。

 ツレはそうして、自身の首に回された、かわいらしい彼女の身にはあまり似つかわしくないをついと指さした。装飾品として似たようなものも確かにあったけれど、彼女の首に掛かるのは、実用一辺倒の、硬い牛皮でできた太いものだった。ツレは穏やかに言う。

 「じゃあこれ、外してくれるの?」

 彼女の首には、飾り気のない、無骨な首輪が巻かれていた。大型犬についていそうな、一方の先の中央に穴を空けて、もう一方の端の尾錠に差し込んで留めるだけの簡素な首輪だ。その気になれば簡単に外せてしまいそうなものだったけれど、彼女には外せない。決して外すことはできない。

 答えるべき言葉もなくて、ぼくは反対に首を傾げただけだった。ツレは思い切り肩を落としてため息を吐く。余裕を持たせて巻いた首輪が、細い首すじに重たく揺れた。肺の中の空気を全部出しきってしまうくらい長い吐息のあと、ふっと起こした顔にはなんの感情も浮いていなかったけれど、横顔に差す日の中で、目元が僅かに潤んでいるように見えた。

 ツレは無言で、またポテトをつまみ始める。先よりも勢いのよい食べっぷりだった。なんだか餌にがっつくペットみたいだなって、そう思ったけれど、これもぼくの内心だけにしまっておくことにした。

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