月影と幽霊

 小高い丘の上に、こぢんまりとした公園があった。子どもが数人で鬼ごっこをするにも手狭なほどで、遊具と言えば隅で肩身狭そうに立ち尽くす小さな滑り台があるばかり。おまけに勾配の急な坂を登ってこなければ辿り着かないというのだから困りものだ。唯一の美点は南端で斜面にせり出して造られた一角で、バルコニーのように柵を半円形に渡されたその向こうには、遙か下に広がる街並みを一望できた。しかしそれさえも人を集めるには力及ばず、いつだってこの公園は閑散としているのだった。

 ところがその日、ひとりの男がこの公園を訪れた。背広の上着を片腕に掛け、ネクタイを緩めながらえっちらおっちら登ってくる、背の高い男だ。目鼻立ちがくっきりして、もとは精悍な顔つきだったことだろう。しかし今、その顔は疲労に侵されて、十は歳を余計に重ねたようであった。息を切らし、足取りも頼りなく、男はようやく最上段に足を掛ける、登りきる。夕空を仰いで呻いた。額に浮いた汗を、空いている片腕で拭った。

 息が整うと、男は柵を伝って右に折れ、展望台の突端まで来た。柵に両の前腕を重ねて寄りかかる。そして視界いっぱいの眺望を見渡した。

 男の右手側には、この丘から連なり眼下の街をぐるりと回り込むように山脈が続いている。今しもその山際に太陽の最後の断片が沈みゆき、山肌はのっぺりと黒を塗り伸ばしたように闇に沈んでいたが、稜線だけは陽の濃紅を移して燃え上がっていた。左手の空は既にして夜の色、地平線を継ぎ接ぎしたビル群の上に茫と白い満月が浮かんでいる。昼夜のあわいにあって、男は目を細め、ただ時間の流れに頬を晒していた。

 やがて星が増えゆくのに呼応して、街にもぽつりぽつりと灯りが点りはじめた。公園に電灯はなかったが、男の口元でぽっと小さな火が立つ。それが消えたあとに残されたのは、夕日の微かなひと欠片を掬いとったような紅の光点だった。

 月が眩いほどに輝き、青白い月光は男の右足から長く影を伸ばす。男は煙草をつまみ気怠げに口から離すと、月へ向かってふうと煙を吹きかけた。空高くまで立ち上り、煙はやがて雲となって月に食いついた。月が呑み込まれてゆくに従って、辺りの木々から闇が這い出し煌々と照らされていたはずの公園を侵食していく。男も、男の影も時を置かず闇に消え失せてしまった。ただ煙草の火ばかりが、頼りなくとも変わらずに仄かに揺れていた。

 「ねえ」

 闇の中、突然に声が上がる。男の傍で上がったそれはしかし、女性の声だった。控えめに、穏やかに投げかけられた声は、確かに相手を意識したものだったが、誰に受け止められることもなく地面に転がった。

 「探してほしいものがあるの」

 声は気にした風もなく、再び投げかけられた。受け取られずとも届いていると知っているようだった。

 雲が流れ、影はそれを追って丘を舐めて坂を下っていった。黒い布でも引き剥がすように北の端からまた光が差して、滑り台や、無数の砂粒や、男の黒髪を照らした。男は変わらず街並みを見下ろしていたが、くわえ煙草の先を下へ向け、口の端を僅かに歪めていた。幾分の疲労は影が連れ去ったようでも、代わりに不機嫌がそこへ居着いたらしい。

 ざり、と男の背後で砂が鳴る。月明かりの下、切り抜かれ取り残された男の影を踏みつけるように、いつの間に女が立っていた。黒いキャップを目深に被り人相は窺えず、簡素な装いは手足をすっかり覆っている。そのため年の頃は定かでないが、服の上からでも判る貧しい体つきは、年端もいかぬ少女か、或いは老いさらばえた老婆を想起させた。落ち着いた声音からはそのどちらとも判断がつかない。

 風が丘を乗り越え、街へ滑っていく。女の短く切り揃えた髪と右の袖が、風にさらわれ舞い上がった。しばらくもせずそれは落ち着いたが、右の袖は変わらず潰れたまま、肩から空しくぶら下がっている。女の右腕は付け根から全く欠け落ちていた。

 女は尚も口を開く。

 「きっとこの辺りに……」

 「他を当たれ」

 女の言葉を遮って、男は重たい煙を吐き出しながら言った。女を振り向くこともない。

 「どうして?」

 「どうして、って。おれはただの会社員だ、警察でも呪い師でもない。失せ物探しは専門を訪ねな」

 「警察や呪い師なら探してくれるの?」

 「それは知らん。ものによるだろ」

 「わたしの腕」

 「……」

 「わたしの腕、そのひとたちなら探してくれる?」

 男の眉根に皺が寄った。煙を胸いっぱいに吸い込むと、そのぶん煙草は明るく燃えてちりちりと縮んでいった。短くなった煙草を口から離すと、思い切り煙を吐く。それから男は上着のポケットから出した携帯灰皿に燃えさしを差し込んだ。柵に体重を預け、項垂れる。ゆっくりと身を起こす。

 月は少しずつ空へ昇りながら、変わらずに彼らを照らしていた。男の影は女に気取られぬようそっと女の足を逃れていった。

 男はようやく背後を振り返る。腰と両の肘を鉄柵にもたせかけ、あからさまに不機嫌な態度でもって女に正対する。その視線は必然、女の右腕があるべきところへ集中した。男は目を細める。腕が断ち落とされているだろう肩口で、女の纏う暗色の上衣が月明かりを鈍く照り返していた。そしてその反射は袖を元から先へ徐々に広がっていくのだ。まるで内側から水でも染み出しているかのように……

 「どうしたんだ、それ」

 「わかんない」

 「わかんなかったら探しようがないだろう」

 「知らないよ。でもこの辺りなの」

 頑なな声音で繰り返す女に、男は溜息を吐く。ゆっくりと鉄柵を離れ、一歩女へ距離を詰める。女に男の影が覆い被さる。女は頼りなさそうに身を竦めたが、後ずさりはしなかった。むしろ胸を張り男に対峙する。キャップの庇越しにもまなじりを決した顔が見えるようだ。彼らはしばらくそうして無言のうちに向かい合っていたが、終には男が先に折れた。やれやれと呟いて首を振る。途端に張り詰めていた緊張が弛緩して、女も微かに息を吐いた。

 女とすれ違い、男は公園を縦断して北側へと歩いていった。「行くぞ」と独り言みたいに言う。公園の開けた敷地内など探すまでもない。女の言を信じるならば、捜し物は南端以外の三方をぐるりと囲む林の中だろう。

 気乗りしないという雰囲気を全身から醸してだらだらと歩く男の後ろを、女は戸惑い気味に追いかける。女には、どうして男が急に協力してくれる気になったのかがわからなかった。断られることは前提で、泣きついてでも協力してもらうつもりでいた。女には別に頼るあてがなく、男に縋るより他に術がなかったのだ。

 もっとも、男は初めからそのつもりだったのである。何にどんな助けを求められるか、それは知らなかった。しかしここに来たら、何かに手を貸さねばならなくなることは知っていた。それを承知していたからこそ、男は普段絶対に立ち寄らないような、こんな寂れた公園にまで足を運んだのだ。

 あとをてこてことついてくる女に、男は振り返る。

 「見返りはあるんだろうな」

 「……っ。わたしのこと! 好きにしていい!」

 これは女がとっておきと思って用意していた台詞だった。しかし男は僅かの間を空けたのち、呆れたように答えた。

 「いらねえなあ」

 それから闇に沈んだ林の中へのそのそと足を踏み入れていく。

 女は一瞬絶句して立ち止まり、

 「失礼なっ」

 そう抗議の声を上げて男を追ったのだった。

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