短編「ユキハコビ」

 わたしの住む村には、ユキハコビという蝶々がいる。雪が降るほど冷え込んだ冬の夜、一斉に蛹が孵り、その真っ白の蝶は花吹雪のように舞い上がる。まるで降雪を知らせ、雪を連れてくるようだから、雪運びユキハコビ。初めてそれを目にし、義父とうさんの口からその名を聞いたとき、なんて素敵な生き物なのだろうと思った。朝日に青く煌めく雪上を、淡く燐光の尾を引いてひらめくその姿は、子どもながらに神秘の息吹を感じたものだった。

 それからわたしは、白い吐息が吐いたそばから凍りつくのではないかと思われるように冷えた日には、早朝からこっそりと家を抜け出して辺りの林をふらつくことにしている。今朝、寝台から身を起こしたとき、鼻の奥がツンと痛むほど空気が冷えていて、今日がその日だと確信した。急く気持ちを宥めつつ手早く身支度を調えて、懐にはゆきどけの呪い(とっておきの自信作!)をたくし込み、足音を忍ばせて戸口に立つ。消えかけた囲炉裏の傍らで眠る義父さんは、もしかしたらわたしの出だすのに気づいているのかも知れなかったけれど、これまでも、そして今日も、彼がわたしを引き留めようとする気配はなかった。ほんの少しの後ろめたさに、丸まって眠る彼を束の間振り返り、それもすぐに振り切って戸をくぐる。

 夜明けにはまだ遠く、空は厚い雲で覆われていた。東の山際に微かな朝日の匂いを感じ取れたのは、そこで細く切れた雲の隙間から、空が白く煙るみたいな仄かな光を放っていたからで、太陽は今頃、まだ夢のただ中にあることだろう。それにも拘わらず辺りの空気が夏の川床のようにぼんやりと光を満たしているのは、一面の白銀に太陽の夢が映るからだ。昨晩のうちに降り積もった雪が、目に映る限り全ての景色を白く白く染め上げていた。

 今冬の初雪を見つめ、思わず感嘆の溜息が溢れた。この村で迎える冬は三度目だったが、未だにこの感動が薄れる気配はない。雪が降る度に義父さんは長く厳しい冬を思い、「またか」と辟易した顔をするものだけれど、わたしはいつまででもこの高揚を忘れずにいられるような気がする。

 林へ向けて、道を踏み出す。積もった雪に踏み込む初めの一歩は、自身の肌に刃を立てるときのような、仄暗い興奮と後ろめたさのうちに刻まれる。それから先は叫び出したいほどの興奮の連続だ。膝上まで埋まるほどの雪を、飛び跳ね、蹴り上げ進んでいった。誰も彼も、太陽さえもが夢の中にいて、わたしに気づくのは寒さに身を縮め震えている木々だけだ。彼らも口を噤み、迷惑そうに目線をわたしへ向けるだけ、声を掛けてくることはない。ひとりだって、わたしに気を遣うものはないのだ。この瞬間だけがわたしに自由を与えた。ユキハコビなんてただの建前で、ほんとうはただ、こうしてひとりきりの時間を踊り回りたいだけなのかも知れなかった。

 林の奥に分け入っていく。どんどん人里から離れ、その分わたしはわたしを取り戻す。別段、ここでの暮らしに不満があるわけではなかった。義父さんはもちろん、神明経の老爺おんじ連や明仁房の子たちもみんなやさしくしてくれる(あのイジワルな赤毛くんは別だけど)。のわたしにこれ以上ないほどよくしてくれる。それに文句を言っては罰当たりだ。だけれどずっと、心の隅っこでしつこくこびりついて消えない不安が、時折みんなの笑顔を不気味な仮面にすげ替えてしまうことがあった。それがわたしには、堪らなく怖い。

 優しさは、取り繕える。嘘で他者を嫌うひとはいないけど、好いている振りをするひとはたくさんいる。思ってもいない気遣いで、ありもしない優しさを向けることはできるでしょう? だとすればわたしに手渡される温かなもの一つひとつが、ほんとうに存在するのかどうか、どうやって確かめればいいのだろう。

 物音さえも凍りついた林間を、以前、幹に内緒でつけた傷を頼りに進む。すると幾らもしないうちに目当ての場所に出た。雪をまとったたくさんの針葉樹に埋もれるように、冬枯れした小ぶりな山桜が、ひっそりと佇んでいる。そしてその山桜を取り巻いて、数えきれぬほどのユキハコビが踊っていた。

 この光景をいったい村の何人が知っているだろう。縁起がよくないと言って神明経ではやや敬遠されているらしいこの蝶を、積極的に探すひとは少ない。だからこんな林の奥に山桜があることも、そこに毎年ユキハコビの蛹がたくさんついていることも、わたしだけの秘密だった。

 わたしは太い木の陰から、そっとユキハコビの逢瀬を見届ける。とても警戒心の強いこの蝶は、ひとの気配に気づくや否や取り付く島もないほどにわたしを拒絶して、きっとどこかに飛び去ってしまうだろう。一匹だって残ってくれやしない。そうして独り取り残される自分を想像して、わたしは少し安心する。好意に嘘はあっても、嫌悪や無関心はいつだって本物だった。ユキハコビの見せる拒絶は、わたしに向けるほんとうの気持ちなのだ。

 かじかむ指先に息を吹きかけ、手を擦り合わせながら、他に何をするでもなくただ蝶を見つめ時を待った。いつしか、木々に地の雪に、そして辺りに満ちる青白い空気そのものに、段々と光が増していた。頭上では分厚い雪雲を割って、白い光のすじが樹冠のさらに上を伸びている。日が昇り夜気が振り払われる、朝が来る。

 そしてついにその瞬間がやってきた。針葉樹の隙を縫って山桜へ真っ直ぐに日が差し込む。山桜が背景の木々から浮かび上がって一際明るく輝く。途端にユキハコビが一層激しく翅をひらめかせ、山桜の纏う朝日を乱反射して無数の光の欠片が弾けた。あまりの冷気に、日の光さえ凍って降り注ぐようだ。

 わたしはそれを、息を飲んで見つめていた。決してわたしの存在を許すことのない、奇跡のようなこの瞬間を、あますことなく瞳に焼き付けたかった。わたしがいなくとも、いやわたしがいないことで完成する美しい世界こそが正しいのだと、そんなふうに思えた。

 視界が白く煙った。知らず、自分がバカみたいな笑みを浮かべていることに気づく。口から漏れる声は、笑い声なのか嗚咽なのか、自分でも判断がつかない。両手で口を押さえた。朝日がこの声に気づいてしまったら、あっという間にこの舞台は幕を閉じてしまう。わたしはまた、わたしの居場所へと戻らなければならなくなってしまう。

 しかしどれだけ声を抑えても、涙を堪えても、目を覚ました太陽から隠れ仰せることなどできない。確かなきっかけもなく、山桜に注いでいた光がふっと途切れた。空は明るみを増して、相対して辺りに落ちる影は濃くなっていく。いつの間にユキハコビも木々の奥へと散って、雪景色に解けてしまった。幕切れだ。やはりわたしはこの場に残されてひとりきり、来た道を引き返すほかに行き場はない。

 義父さんを心配させてはいけないから、早く戻らなければ。もうきっと起き出している頃合いだろうが、それだからとのんびりしていい道理もない。手足の先はすっかり冷え切っていて、火に当たらなければしもやけにだってなってしまうだろう。

 踵を返す。家に帰ったときに浮かべるであろう、義父さんの困ったような笑顔を思って、少しだけ帰る歩調に力が増した。わたしの背後から、温かな木漏れ日が差していた。

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