あなたの好きなもの

 彼の足音が近づいてくる。庭先の門扉を潜り、飛び石を駆け、玄関扉を抜けて階段を上る。そうして段々と彼の存在が近づく度に、わたしの胸中で期待がふくふくと膨らんで体が熱を帯びるよう。この期待が生地だったなら、きっとよいパンが焼けるだろう。などと面白くもないことを考えて自分で笑えてしまうくらいに浮かれていた。パンなんかこの数年口にしてはいなかったけれど、甘い香りを思い出して幸せが上乗せされる。

 彼はわたしの待つこの部屋の扉の前で立ち止まったようだ。耳を澄ませると、廊下で躊躇いがちに身動ぎする、そんな気配が伝わってくる。深呼吸と咳払い。この扉は、彼が思うよりもずっと薄いのだ。それを敢えて教えていないのは、もし教えてしまったなら彼は今後ここを訪れるとき、きっとそういった諸々の仕草を押し隠すに決まっているからだ。自分で自分の楽しみを奪おうだなんて、わたしはそこまで酔狂になれない。彼がわたしを思ってくれる、それを実感できる一端を自ら手放すわけにはいかない。

 だからわたしは、彼が準備を整えて扉を叩くまで、笑い声を必死に押し殺していた。彼の来訪に気づかないふりをした。そしてようやくそのときがやってくる。扉の中央、少し高い位置を小突く、控えめな、硬い音。それ一つで彼の心情を読み取れるような、実直な音色。ひと呼吸の間があって、キィと扉が開かれた。

 顔の半分だけを覗かせて、彼はわたしを見た。わたしも彼をじっと見つめ返した。それからようやく、彼はほっと息を吐いて部屋へと足を踏み入れる。傷んだ床板が彼に踏まれて撓み、ギシギシ鳴った。わたしの代わりに彼の来訪を歓迎してくれているようだ。彼は何度かその床板に体重を乗せて、踏み抜きはしないかと確かめてからそっと次の一歩を踏み出す。凜々しい顔つきの青年だったが、臆病なくらい慎重な気質なのだ。

 彼の全身が扉の陰から現れて、後ろにしていた片手に枝が握られているのが窺えた。ちょうど片腕ほどの長さの、立派な松の枝だ。幹についたもとから無理に折り取ってきたのか、手前の端は不整で鋭利だった。そこから艶めかしいようなうねりを帯びてすらりと先まで伸び、末端にはまだ青い葉をつけている。そこに宿る生気はつい今しがたまで大地に息づいていたことを思わせた。しかしよく見ると所々に焼け焦げたあとがあるではないか。焼け出されながらも枯れることなく、懸命に生き抜いていたのだろう。このご時世、焼け跡のないものなど外界のどこにもない。

 彼は松の枝をわたしへ向けて掲げた。得意げな笑みをこぼす。

「今日は実家の近くまで行ってきたよ。これは、昔よく遊んだ公園の木の枝」

 言いながら彼は片腕でわたしを床から抱き起こし壁にもたせかけた。わたしの顔にまとわりついた髪をかきわけて、眼前に枝を突きつける。そんなに近づけなくても見えていたのに、彼はときどき意地悪だ。匂いでも嗅げと言うのだろうか。

 わたしの内心を悟ってか、彼は少年のようにくすくすと笑ってから、徐ろにわたしの右側に回った。そして突然断りもなしにわたしのシャツの裾をめくり上げ、右の脇腹から肩までを外気に晒す。あまりに急なことでわたしは声も上げられない。彼に見られることに慣れてはいたけれど、もう少し配慮があってもよいのではなかろうか。とは言え、彼が枝を携えて帰って、わたしを抱き起こした時点で、何をしようとしているのか大凡当たりはついていた。だからわたしは、彼が枝を床に置き、両手でわたしの肩にある傷口へ触れたときにも、文句も言わずおとなしくしていた。

 いつだったか崩れた瓦礫に挽きつぶされて、それきりわたしの右腕は肩からさっぱり欠け落ちてしまっている。手当などしていないから、未だに傷は塞がるべくもない。わたしに見えているのは肉がこそぎ落とされた鎖骨の先端と、関節部分が砕けて背中から翼みたいに突き出ている肩甲骨だけだ。それらの周りについた肉はドロドロに腐敗して、もとは綺麗だった白い肌など見る影もない。

 彼がこのどす黒い断面に触れる度、グチグチと粘質な音が立つ。辺りを飛び回る蠅が彼に苛立ってジリジリと羽音を立てる。それらを一顧だにせず、彼はわたしを見上げた。同時、片手につまみ上げたものを嬉しそうに見せてくれる。彼の指の間でのたくっているのは丸々と太った白い蛆虫だ。赤ちゃんみたい(事実蠅の赤ちゃんだが)でかわいらしい。それを彼はぱくりと口に含む。

「ふふ、僕は君を食べているのだね」

 あんまりに楽しげに言うものだから、彼の無作法を怒る気持ちにもなれず、それどころか少し、少しだけ恥ずかしい思いがした。顔が火照ってしまいそうだ。

 そのあとも彼は猿の毛繕いみたいに片手で蛆をつまみつつ、空いている片手で床に置いていた松の枝を取った。口にものを含みながら、もごもごと話す。

「この木はね、子どもの頃、よく木登りした木なんだ。なぜか根元から二股に分かれて伸びていてね、枝も低いところであちこちに張り出しているから、とても登りやすくて。とは言っても、そんなに高くまでは行けないんだけど、それでも、必死に登った先から見下ろす景色は、僕のいっとうお気に入りだったんだ。大好きだった」

 浮かれて話す彼は、その思い出の中にある子どものようだ。当時の彼をわたしは知らないけれど、案外そう変わっていないのではないかと思う。臆病で、そのくせ微妙に気が利かなくて、素直でかわいらしいところのある少年だったに違いない。

 いつか少年だったときのままの笑みで、彼が枝の折り取った端に近いところを先にして持った。そしてその鋭くなった先端を、わたしの右肩に突き入れていく。彼が大好きだと語るものが、わたしの中へと入っていく。ところが幾らも刺さらず肋骨に突き当たって止まった。あれ? と首を傾げ、彼は迷いつつも一度は枝から手を離す。すると当然、枝は自重で傾いで抜け落ちてしまった。

「ありゃ」

 そのときに彼が先よりも少し大きな声を上げた。てっきり失敗を嘆いたものだと思ったが、彼の視線はわたしの肩に注がれていた。枝が梃子になってわたしの肩の周りでまだ形を保っていた肉が一度にめくれ上がってしまったらしい。内側から爆ぜたみたいな惨事になっていた。爆破現場に居合わせた蛆虫くんたちが泡を食って暴れている。

 なんてひどいことをしてくれたのだと、わたしは彼を怒鳴りつけてやりたかったのだが、彼は気にもせず再び枝を取り上げていた。肉が削げたおかげで、一度目は何故うまく刺さらなかったのか、原因に気がついたらしい。肉の表面を撫でつけて形を整えつつ、また枝を肩から突き込む。今度は肋骨に当たっても諦めず、枝をこじって肋間にねじ込んでいった。肋骨の縁が枝の凹凸を削って、体の内側からゴリゴリと不快な音が響く。それを耐え抜くと、いつの間に彼は枝から手を離し、満足げにわたしを見下ろしていた。

 わたしの右肩から、ちょうど腕くらいの長さの枝が斜め上に向けてにょっきり伸びている。なるほどこれが、今日からわたしの右腕だ。彼の好きなものがまた一つ、わたしの体の一部になったのだ。海で拾った綺麗な貝殻、飼っていたペロの骨、彼の車のマフラーやエンジンオイル。彼の「好き」がわたしの足りない部分を埋めていく、これはえも言われぬ恍惚だった。少しずつ、少しずつ、わたしが彼の「好き」に染まっていくのだ。

 彼の気持ちも舞い上がっていたのか、珍しく軽やかな足運びでわたしの周りをぐるぐる回って、矯めつ眇めつわたしを見つめた。そしてその拍子、ついに傷んだ床板を踏み抜いてしまった。バズンッ、とものすごい音がして、彼の片足が床に埋まる。

 束の間の静寂と、彼の驚きに満ちたまぁるい目。

 次の瞬間、わたしは笑いが込み上げて、彼は堪らず大声で笑った。けらけらと、明るい笑い声が部屋を満たしていった。そんな彼の笑顔が、わたしは大好きだった。

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