第3話 軒下の男
寒空に力強い男の声が響いた。良く通るハッキリとした声で、この声を聞くだけで腹に力を入れて叫んでいると解るような声だった。救急車か消防車の物であろうサイレンが嫌に五月蠅く感じた。
私は其処らを見渡すが男の姿は見えない。見晴らしは良いが、周りの倒壊していない家に反射するように声が響き、前後左右何処からか叫んでいるのかが解らなかったのだ。
「おーい。助けてくれー」
何度目かの男の声を聞いてアタリを付けた私は自転車でその場所に向かう。彼方此方で電柱が倒れ、道路は走り難かった。
3,4度目でようやく正解の場所を見つけたのだった。
私は自転車を降り、男の横側にしゃがみ込んだ。屋根が男の腰辺りを挟み込んでいるようで、私がいる位置は家屋の2階部の窓側に当たるのだろうと直ぐに解った。
「こんにちは」
男は目を見開いて私を見た。当時は何故男が急に黙り込んだのかが解らなかったが、今思えば救助を求めている時に中学生の小男が立って居たのだから、その失望は計り知れない物であったのだろう。
男は目測で30代中盤に差し掛かるであろう年齢で、腕は筋肉質で全体的に日焼けをしており、短いスポーツ刈りだった。目の上の瞼が切れたのだろう、血が頬を伝い見ていて少し怖いほどの量の血が顎下から滴り落ちている。顔は所々青痣があり、頭は何かで強く叩きつけたのであろう大きなたん瘤があった。
酷く殴られたボクサー。当時の私の感想だ。
「ああ、兄ちゃん。誰か大人を呼んできてくれんか?家族が下に埋まっとる」
男の頭の回転は速かった。小男に瓦礫の除去をさせないのはプロの方が助かる可能性が高いと考えたのだろう。
「解った。おじさん、名前は?」
「名前?田中 茂(しげる)や」
「近くの市役所にでも報告してくるよ。住所教えてくれる?教えてくれた方が救助が早く来ると思うよ」
「ああ、○○の○○番地の○○や」
「じゃあ、行ってくるね」
私は自転車に乗り込み急ぎ気味で西宮市役所へ向かう。市役所の場所は駅の案内板に描かれていた筈だ。
駅の案内板で市役所の場所を確認して向かう。西宮市役所では近くにある病院への誘導をしている様子で総ての大人が走り回り、その隙間を縫うように別の大人が走り抜ける。向かい側の病院からは人が溢れかえっていた。
私は市役所の職員のカードを付けている男の腕を掴み、無理やり呼び止めた。
男は不快感を隠そうともせずに怒鳴りつけた。
「なんや!」
「○○の○○番地の○○に住んでる田中 茂さんが家の下に埋まっています。救助をお願いします」
「あー!もうっ。分かった。これに住所書いてっ!君は避難所に行って」
私は渡されたバインダーの上に挟まった紙に住所と家に埋まり動けないと簡潔に書いた。職員にバインダーを返すと私は男の元に戻った。
「田中さん。市役所の職員に住所を教えて来たよ」
男を見つけた所に戻り胡坐を掻いて座ると、お遣いを終えた旨を伝えた。
「あぁ、兄ちゃんか。ありがとう。救助は何時来よる?」
「何も言われなかったよ。住所を紙に書いて後は職員さん頼り。近いから早めに来ると思うけど」
「そうか。早よ兄ちゃんは避難所へ向かい。ここは危ないで」
「うん?あー。今、冒険してるんですよ。灘区の六甲駅辺りから来ました」
今後の人生でこの男とはもう会わないだろう。だからこそ何を言っても良いと思った。
「はぁ?危ないやろ」
「勿論。彼方此方で火事が起こって電柱も道に倒れ込んでるので危ないですよ」
「せやろ。家族も心配しとるんちゃうの?」
「心配は・・・してないと思いますよ。してても僕はそう感じません。」
男は何かを察した様子で顔を顰めた。
「あー、仲。悪いんか?」
「単純に愛されていないだけですよ。居ないものとして扱われているので」
私は思わず、自分の発した言葉に傷付いた。唯の問答で事実を口にしただけであったが、普段から『愛されていない』と思っていても、口にして初めて自分の身に染みる様にその言葉が浸透していく様に感じたからだ。家族の不仲は気にされる事を諦めていた私にその事実を重く突き付けたのだった。
「・・・辛いか?」
「誰しもが望まれて生まれてくる訳では無いと言う事を骨身で知っているだけです。辛いと言うよりは・・・苦しいとは思いますが。捨てられなかったのでゴミ扱いはされてい居ないのでしょうね」
「親に気にして欲しいからこんな所まで来たんちゃうんか?」
そんなことはもう諦めている。
「気にしない割には拘束する親なので・・・籠の鳥が壊れた籠から出たと言った感じですよ。鳥は飼い主を気にしませんし、気に掛けて貰いたいから外に飛び立つわけでも無いでしょう」
「なんか、兄ちゃん。達観しとんな」
私はため息を付きながら答えた。
余り、こう言った事は普段話さないのだが、この非常時にかなり興奮していたのだろう。
自分の事ばかり話していても詰まらないのでこの男に1つ質問を投げかけてみた。
「諦めてるんです。田中さんは諦めませんか?」
「何をや?」
「生きる事」
「なんで?」
当時の私は非常時に対してある種の冷酷さを持っていた。
相手の心中を察する事が出来ず、今思えばあり得ない様な事を聞いてしまっているのは若かったからとしか言いようがない。
「なんででしょう。こんな状況だから聞きたくなったんです。ほら、埋まってる人なんて初めて見ましたし」
男は少し考えて、私に問いかけた。
「・・・救助、こーへんのか?」
「いえ、本当に何も言われなかったんですよ。市役所が近いので他の方よりは断然早く救助されるとは思いますけども」
「まあ、そうか。としか言えんわな。俺はこんなんでもきばるで。諦めん」
「そうですか。良かった」
私は笑って言った。
立ち上がり、自転車の籠に入っている炭酸飲料を2本持ってくる。3分の1程食べたチョコレートもだ。
「はい、あげます」
新しい炭酸飲料を1本。チョコレートを全て男に渡す。
男が本当に生きるのか、気になったからだった。
「ほんまに?ありがとう」
「いえ、僕は此れで失礼します。生きてくださいね」
「あー。すまん、キャップは開けてってくれんか?右手うごかへん」
私は、キャップを開けて男の左手に手渡した。うつ伏せで挟まっている男は飲み辛そうに炭酸飲料を1口飲むと頷いた。
「ああ、さいなら。兄ちゃんも元気でな」
私は自転車で走りだす。私は男に『生きる事を諦めないか』と聞いた。
私自身、男はあの瓦礫の中から救助されるであろう事を確信している。埋まっているのは男の右肩と腰下の下半身。胴体部分に圧し掛かる物は無かったし、市役所から歩きでも5分と掛らない。力尽きる前に救助されるだろう。
それでも私が男にそう聞いたのは、家族が下に埋まっていると聞いたからだ。
木造2階建ての下、つまり1階部分。
ぺちゃんこだった。
生きているなら少なくとも声が聞こえる筈で、男は家族の分の飲料を要求しなかったし、気が回らなかったにしても家族の安否位は私に確認させるだろう。『家族は無事か?』と。
つまり、男は家族を失っている事を知っていた筈なのだ。
それなら何故、家族を気にしないような振る舞いを私に見せていたのか。
男も、私の両親の様に心の内では相手の事をどうでも良いと思っていたのだろうか。
私は自転車を漕ぎながらそんな事ばかり繰り返し考えていた。
夕暮れの丘 煙道 紫 @endouyukari
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