第2話 小心者の小さな冒険

「じゃあ、僕は行くよ。玄関に食料を詰めておいたから持って行った方が良いと思うよ」


大きな揺れが収まると、私は宣言通りにリュックを背負って外へ出た。

母の分の食料はエナメルバッグに入れていたのでそれを伝えて母の返事も聞かずに。

玄関を出るとマンションの住民たちが井戸端会議のように集まり、何かを相談していた。


「あっ。藤原さん家の・・・。」


名前は知らないが顔だけ知っているマンションの管理人が私に声を掛けてきた。

良くエレベーターやホールの自動ドアを拭いて居るので何度か挨拶をした様な仲であった。


「智之(としゆき)です。酷い地震でしたね」


「危険だから家の中に居なさい。このマンションは耐震性が高いから外よりも安全なはずさ」


「いいえ、僕は近くの避難所に向かいます。今後、自衛隊が物資を送ってくるのは緊急避難所ですから」


私は適当な言い訳を話した。声が上擦っていたかもしれないが咄嗟に出た言い訳だった。住民はざわざわと話し合っている。私が言う事も一理あると感じたのだろう。住民たちはこの場に残るか避難所へ向かうかで話し合っている様子だった。


「恐らくですが、緊急避難所は近くの住民でいっぱいになります。その時に場所取りをしていなかったら食料とか、必要物資を受け取るのに手間がかかると思いますよ。近いとは言え、緊急避難所は自転車で10分は掛る距離です。物資が来る度に往復しますか?」


正直、この場所で話し合っている意味が解らなかった。自分の命は自分で守るべきだと、この時の私は本気で思っていたからだ。


「では、失礼します」


対話する意味など無い。私は何か言われる前に足早に階段で外へ出た。


駐輪場の鍵を開け、自転車に跨る。学校指定のシティサイクルのママチャリで前方に籠。後方に荷台が付いている。色はシルバーで中学入学時から家と六甲駅を繋ぐ私の相棒だった。

先ず向かうのは近くの海辺。

自由を感じる為に海を見たい。空でも良かったが、何分高層ビルの上階に住んでいたので空には飽きていた。

自転車を漕ぎ始める。ひび割れた道路に相棒のタイヤがジャリジャリと音を立てた。


その場で倒れ込んだ人や走り戸惑う人。彼方此方から救急車のサイレンの音が聞こえる。私が見る限り崩壊した家は昔風な少し古い木造の家ばかりであった。区役所を越えて、ゆっくりと自転車を走らせていると自販機が倒れているのが見えた。自販機の投下口を見るとペットボトルの炭酸飲料がガコガコと音を立てて落ち続けていた。私は思わず渇いた笑い声が出ていた。飲み物も食べ物もリュックにありったけ詰め込んでいる。しかし、自転車の籠には何も入っていなかった。

窃盗行為だと知っている。明らかな犯罪だと。しかし、私にはこの騒音と混乱の中ではちっぽけな、さして気にする程でも無いような小さな犯罪に思えた。


自転車の籠いっぱいの炭酸飲料。ニコニコと笑う私に遠くで聞こえる騒音。適度な満腹感に早朝特有の精練された様な空気に冷たい風が全身を撫でる。

この日は寒かった。指先は痛いほどに冷たく、それでも堪らなく嬉しい気分になっていたのは、平日なのに学校に行かず、子供なのに親の言う事を聞かず、日本がこんなにも混乱しているさまなのに私は羽を得た様に自由だったからだ。私はこの瞬間、真に自由だった。


大体20分も走れば、海辺と居住区を区切るように阪神高速3号神戸線が通っている。確か、見所の無い古墳のある公園を通り過ぎて直ぐ。高い場所に設置された高速道路の高架下を見ると大きな瓦礫のような物が転がっていた。


明らかに上から落ちてきたのだろう様子であったので恐怖感が襲ってきたが、立ち漕ぎで高架下を素早く通り過ぎた。ハッキリと潮の匂いが漂ってくる。海辺の砂浜の匂いとは違う冬特有の少しべたついたような魚臭い潮の匂いが。


風が強かったわけでは無いのに、海は異様に荒れている様に見えた。海面はいつもよりせり上がり、波についても少し高い。堤防から水しぶきを感じる時点で何かが違うと思ったが、今の私にとっては些細な問題だった。濡れたく無かったので堤防のある車線の反対側で自転車を走らせる。


私は海を右手に見ながら海沿いの道路をゆっくりと走る。海辺には意外と自然が無い。流通センターや自動車工場を横目にとにかく前に進んだ。

南魚崎駅の近くの幅の広い橋の真ん中で私は立ち止まり、疲れた脚を休めて汚い海を見る。海の近くは静かだと思っていたが、海に転落したコンテナやレンガ造りの倒れた倉庫のようなものに人だかりが出来ていた。こんなにも朝早くから働いている人が居るのにも、いい大人が泣き叫ぶ事にも驚いた。少なくとも私の知っている大人がやる事では無かったのだ。


前籠に入っている炭酸飲料を口に含む。埋立地が両側に、中央を川の淡水と海の塩水が交じり合った水が波立てながら揺れていた。汚いゴミの浮いた海に朝日が反射し、それはステンドグラスの様に美しかった。

暫く海を見つめていると日差しが若干強くなってくる。海辺の近くは日が昇ると風が強くなる。理由は解らなかったが経験から知っていた。

脚も少しは休まった。私は自転車を漕ぎだした。直線を進み、魚崎中学校の手前で曲がり、高架下を通り過ぎる。大き目の十字路を右手に曲がり、とにかく走った。


10時過ぎには西宮駅と言う大きい駅に到着した。腰を落ち着けて休憩したかったので駅の前にあるベンチに座り休んだ。炭酸飲料を飲みながら道のりを振り返ると崩壊した建物ばかりだったが、それを見て何も感じなくなっていた。今、この瞬間では家は倒壊しているのが当たり前なんだと思う程、町は壊滅的な様子だったからだ。


リュックの中に入れていた板チョコレートを齧る。あちこちで煙が上がる空気の中で食べるチョコレートはいつもより美味しく感じた。

西宮駅での休憩を終えて、大きな道をまっすぐ進むと大きな十字路があった。右手方向に曲がりまた走り進む。


急に冷たい空気を裂くように救助を求める声が聞こえてくる。


「おーい。助けてくれー」


煙が上がる家の中。


倒壊した木造建築の瓦礫の下に力強い男の声がした。

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