夕暮れの丘
煙道 紫
第1話 そんな日常
私が初めて人間の死体を見たのは13歳の頃だった。
1995年の年を明けてもう中頃だっただろうか。確か、初めて中学生として1年を終わり新学期へ向けての期待と仲の良い友人と離れ離れになるであろう不安を抱えていた時期だった。随分、昔の事の様だが私には忘れ難く、未だにあの空気を覚えているのだからきっと、怖かったのだろう。
兵庫県の神戸市。兵庫県の県庁所在地で何故か大阪の人間が多く、夜には酔っぱらいが何処かで言い争っているような柄の悪さがあった。
都心程では無いにしても経済都市特有の賑わいを見せ、夜は明るく、神戸港という扇状の入り江があり、そこで働いていた貿易業を営む父と、確か・・・製造系の会社で総務部で働いていた母親。両親共に働いている事もあったのか家族間は冷め切っていた。
仕事で忙しい両親に私自身、愛情を感じたことは無く、家での私は空気のような存在で、子供ながらに夫婦仲が冷め切っていた事に気付いていた。
両親に迷惑をかけまいとしていた私の学校からの評価は大人しく、特に問題の無い生徒であった。両親の仲が悪いので、せめて私は迷惑はかけまいと考えていたからだ。
あの時の、毎日の夕飯は私にとっては苦痛で、海辺からやってくる潮風がマンションのベランダのガラス窓を叩く音とテレビ番組で芸人が笑っている声だけが、コンビニで買ったカップ麺を1人で啜る音か弁当を温める電子レンジの電子音と共に響くのだった。
中学校に登校さえすればクラスメイトの友人たちとくだらない話で笑い合えるが、1週間に3日。両親が大学生の男に家庭教師を頼んでいたので放課後は勉強に消えた。
塾に行かせるのは貧乏人と言う親なりの見栄があったのだろう。この頃は父の貿易業が非常に好調で、貴金属や宝石と言った高価な物から海外の輸入食品や水といった日常品にまで破格と言っていい値段が付いていた。
また、国外と関わりがあると言う事は一種のステータスの様に扱われていた時代で金持ちで顔も悪くなかったので父はモテた。少なくとも2人の愛人がいる事を私は知っていたし、恐らく母も知っていたのだろう。怒鳴り合いこそない物の母が父を見る目は冷たかったし、父は母が見せつける様にブランドのバッグを買う事を咎めもしなかった。
思い起こせば母についても良い部分より悪い部分の方が直ぐに出てくる。家族の偏見の目が無くても母は美しかったが外見と内面は反比例する様で、恐らく父もその高慢ちきで外面ばかりを気にする性格の悪い女に疲弊していた事は、私自身そう思っていたので良く解っていた。
両親は互いに憎み合っていた様にも見えた。殴り合いや怒鳴り合いに為らなかったのは私の存在ではなく、近所の家の目を気にしていたからと言う事も感じていた。
父は夜遊びで忙しく、母はブランド物を買い漁る事で忙しかったので基本的には毎日1人で夜食を食べた。
私に家族は居なかったのだ。
その日、マンションが大きく揺れたのは朝早くだった。確か私が起きて朝食の菓子パンを食べ終わった位の時間だったから6時になる少し前位だったか。母と顔を合わせたく無かったので、基本的に早くに起きてさっさと中学校に登校するのが私の日常だった。
温かいミルクに砂糖を入れた飲み物を冷ましながら啜る。この時の朝食は大きなメロンパンが2つにジャガイモ1つが入ったカレーパンだった。満腹しなければ中学の授業中に腹が鳴る。当時の私にとってはかなり恥ずかしい事だった。
牛乳は好きでは無かったが強くてデカい男に成りたかったので自分なりに工夫して飲んでいた。
強い男に成りたいと思っていたにも関わらずマンションが軋み、唸るようにして揺れる様に、立って居られなくなったのだった。
私は尻餅をつき、恐ろしさに震えた。先ず、食器棚が斜めに倒れ中にしまってある食器の殆どが床に落ちて割れた。これは唯の地震ではないとハッキリ解った。マンションが軋みベランダを隔てる窓ガラスに大きく罅が入ったので私はマンション自体が傾いたのだと思ったからだ。
余りの地震の揺れの大きさに普段、8時を過ぎないと起きてこない母が飛び起きてきた。
「何があったのっ!」
母はヒステリックを起こした様な声で私に怒鳴った。
「地震。かなり大きな」
未だに揺れが続く中でベランダから古いマンションが倒壊しているのが見えた。
もくもくと砂煙が上がり、メキメキ、バキバキと音を立てて近所のス―パーが崩れる。搬入の為だろうか、スーパーの近くに停めてあった大型トラックを巻き込み火事のように煙を上げる様に私はあぁと呟いた。
悲鳴に子供の泣き声。
男も女も関係なく誰もが叫んでいた。
母は如何にも現状が呑み込めていない様子でキョロキョロと部屋の辺りを見渡していた。
「早く逃げなきゃ!あんたも早くっ!」
「何処に逃げる気?まだ揺れてる」
私は高層ビルがその特性上、倒壊しにくいと言う事を知っていた。
緊急時にパニックを起こすと危険なことも、下手に動くと不必要な体力を使う事も。
1度恐怖から抜け出すと恐ろしい位に冷静になる。煩く喚く母を机の下に誘導し、私は玄関のドアを開けた。マンションが歪みドアを開けられなくなったら危険だと思ったからだ。緊張からか恐怖からかは解らないが速足で玄関まで向かったことを覚えている。玄関のドアは思ったよりも普通に開いた。
私はリビングに戻ると登校用のリュックとエナメルのバッグに保存食品と飲み物をありったけ詰め込み玄関に持って行った。幸いな事に保存食品はバッグに詰め込み切れないほどあった。今までの不満が報われた瞬間であった事に違いなかった。
食品を詰め終わると私の胸に突如として熱が灯るのを感じた。緊張からか全身に巡る血が湧いているのが解った。奇妙な力強さに万能感を抱きながら、私は母に声を掛けた。
「揺れが収まったら僕は出ていくけど、母さんはどうする?」
私はこの非常時でも母親と同じ場所に居たくなかったのだ。
「兎に角、何処か人が集まっている所に行かなきゃ」
母は、目的も無く焦燥感から動きたくて仕方がないらしかった。
私を連れて行こうとするのは愛情からでなく、周囲の人間に「お子さんはどうしたの?」と聞かれたくないからだろう。もう、とっくに両親からの愛情は感じていなかった。
「ふうん。此処からだと六甲小学校か神戸大学が近いよ」
「あんたはどうするのよ」
「スーパーで必需品を買ってくる。そのまま遊びに行くよ」
「は?あんた馬鹿じゃないの。こんな時に」
母の言う通り私は馬鹿なのだろう。ただ、少し。少しだけ望んでいた日が来たのかもしれないと思った。常ゞ両親とは違う空間で暮らしたいと思っていたし、私の事を『あんた』としか呼ばない母にも、そもそも会話が無い父にも。なんというか一緒の空間に居ること自体に疲れていた。
多分、これが初めて親と決別しようと考えて、実行に移した瞬間だったのだろう。今では此れは所謂、現実逃避から来る『家出』だったのだと考えられるが、当時の私にはこれは『自由を求める初めての冒険』に違いなかった。
両親に迷惑を掛けまいと日々を過ごしてきた私の初めての反抗心が、大きな地震と共に揺れ動いたのだ。
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