最期電車
不立雷葉
最期電車
迫り来る納期の中で発覚した重大なバグ。
これを取り除く為に行ったのは度重なる残業と休日出勤だった。何とかバグを取り除き、テストが順調に進んでいく中やって来たのは突然の仕様変更という無茶な要求。
クライアントに納期の相談をしてみたが、案の定というべきか認められなかった。それでも仕事だ、納期には間に合わせなければならない。
上司に人員の追加を打診はしたが、どこも余裕が無いとのことで助っ人はやって来なかった。そうなると労働時間を増やすしかない、残業を通り越して会社に泊まりこむのは当たり前の日々が続く。
その甲斐があって、とは思いたくないのだが俺のこの無理は報われた。納期に間に合ったのだ、クライアントに成果物を納めることが出来たのである。
ここからさらなる修正や調整が必要になる場合もある、というよりそうなる事がほとんどなのだが納品してしまえばひと段落。やるべき事はまだまだ舞い込んで来るだろうが、来たところでそれまでの非ではない。
手足だけでなく頭も鉛のように重く、体を引きずりながら会社の最寄り駅に辿り着いたのは午後の一〇時を過ぎていた。充分に遅い時間なのだが、徹夜や休日出勤を繰り返していた身には早退したかのような感覚だった。
遅い時間ではあるが駅のホームは人が多く、ふらついてしまう俺にとってはぶつからないようにするのに一苦労する。どうしてこんなに人が多いのだろうと疑問を抱いていると、アルコールの臭いが鼻に付いた。
重い頭を起こして辺りを見渡すと赤ら顔の人が多い、それで今日が金曜日だということを思い出す。曜日感覚が消えてしまうほどに働いていた自分に苦笑すると同時に、明日そして明後日は惰眠を貪れる、そう思うと緊張の糸が緩んだ。
ただでさえ重い体に手枷足枷が付けられたようだった。電光掲示板を見上げてみれば次の電車は五分後だという。短い時間だが今はその短い間ですら立っているのが辛い、しかし小さい幸運が舞い込んできた。
ベンチが一つ空いていたのだ。駅の固いベンチであっても、疲れたこの体には極上のソファのように見えてしまう。ふらふらと歩きながら座面に尻を着けると無意識のうちに溜息が出た。
そして瞼が下りてくる、せめて電車に乗ってからだと己の体に言い聞かせるが瞼の動きは止まらない。せめて瞬き一回だけだと、頭の中で呟いて次に目を開けた時、ホームに人の姿は無かった。
背筋に冷たいものが駆け下りてベンチから飛び上がると、勢いのあまり一瞬だけ靴底が床を離れる。瞬きのつもりだけだったのに、寝てしまったと気付くのに時間は要らない。慌てて時計を見上げると、針は午前一時に差しかかろうとしていた。
口から見えないナニかが抜けていくようだ。最終電車の時刻はもう過ぎている、だからホームに人はいない。ベンチで寝こけてしまっていたのだから、車掌が起こしてくれたって良いだろうにと思うが過ぎたことを考えても仕方が無い。
睡眠時間は二時間と少し、寝ていたのはベッドではなく固いベンチでしかも座って。とはいえ疲れ抜いた体には充分な効果があったとみえる。倦怠感はあったが重さを感じるほどではなく、頭は不思議と冴え渡っていた。
仕事から解放された後、ということもあるのだろう。最終電車を逃がして帰宅できなくなりはしたが、それならそれで楽しもうという気持ちが湧き上がってきたのだ。
駅を出てちょっと歩けばそこは繁華街になっている。日付が変わっても営業している店はあるし、始発電車が動くまでやっているバーも珍しくない。酒場に行く趣味は無いが、行ってみるのも一興だろう。
ホームにいた所で駅員に追い出されるだけ、嫌な気分になるより早く自分から出て行こうと改札へと続く階段を下りようとしたところで足を止めた。
最終電車が過ぎたというのに階段を上がってくる姿があったのだ。駅員だろうと思ったのだが鉄道会社の制服を着ていない、俺と同年代と思しきスーツ姿の男だった。遅くまで仕事をしていたのか、俯き体を引きずるように一段また一段と上ってくる。
途中、視線に気付いた彼は歩みを止めて顔を上げた。それを見た途端「あっ」と声を出してしまい、俺は彼へと駆け寄るとその隣に立って昔そうしたように背中を叩く。
「久しぶりじゃないか! 何年ぶりだぁ!? 元気してたか?」
彼は俺の顔を見ても誰か分からなかったらしく、苛立たしげに睨み付けてきたが束の間のこと。すぐにその表情は柔らかなものへと変わる。
「お前……テツか? どうして、ここに……ってまぁこんな時間だもんな、決まってるよな」
彼、大学の同期であるトシは力なく笑い俺もそれに合わせる。運動部に所属し日焼けした肌が印象に残っていた彼だが、今は生気を感じにくいほどに白い。けどそれも当然だろう。
こんな時間、こんな顔で電車に乗ろうとする人間が何をしていたかなんて決まりきっている。そう、長時間労働だ。
「まぁそんなとこだ、ってことはトシもか。俺も疲れすぎてベンチで寝ちまってさ、最終電車逃しちゃったんだよな。どうせだったら飲み明かそうと思ってるんだが……その、トシさえ良ければ一緒に朝までコースどうだ? 昔みたいにさ」
そういえば最後の電車が出た後だというのに改札を通れるものなのだろうか、ふとした疑問が湧きあがる。それも聞いてみようかと口を開きかけたが、トシが少し驚いたように口を開けていたので言葉が引っ込んだ。
俺はおかしな事は何一つ言っていないつもりなのだが、トシは首を傾げて取り出したスマホで画面を確認すると、一人納得したように頷いている。
「いやテツ、電車はまだ来るよ」
「えっ……? あっ、そうか!」
素っ頓狂な声が出て、変な事を言いやがると一度は思ってしまったが何もおかしな話じゃない。最終電車の時間はよくずれる、酷いときには三〇分遅れてくる事だってあるのだ。
連絡している路線の影響を受けていたり、客の乗降に時間が掛かっていたり。今日は金曜日で酔っ払いが多い日だ、どこかの駅でトラブルが起きていてもおかしくない。俺は寝てしまっていたから、あったはずのアナウンスを聞き逃したのだろう。
ラッキーと口に出してしまえば不謹慎かもしれないが、心で思うぐらいは良い筈だ。トシと肩を並べ、再びホームへと戻る。さっきと同じで誰もいないホーム、いるのは俺とトシ二人だけ。
そこで不意に違和感を覚えた。ホームには人がいるはずだ、最終電車を待つ人がいるはずなのだ。なのに誰もいないのはおかしい、遅延したことで一本前の電車が最終電車の時間にやって来ていたらあり得るかもしれない。
けどそんなことあるのだろうか、確かめるのは簡単だ。電光掲示板を見れば良い、電車が来るなら何時頃になるのか、そこに表示されているはずだ。ところがそこには何も出ていない、真っ暗だった。
壊れているようだ。そういう場合は張り紙の一つでもありそうなものだが、駅員はまだ気付いていないのだろうか。
けども電光掲示板は一つじゃない、どんな駅にだって二つ以上はあるものだ。別の掲示板を見に行こうとする俺の肩をトシが掴む。
「どこ行くんだ?」
「どのぐらいで電車来るのか見ようと思っただけよ。ほら、こいつ潰れてるから。他のは生きてるだろうし」
頭上の掲示板を指差すと、トシは「ふーん」と気の無い返事を返す。
「そのうち来るよ、ベンチにでも座って待ってようぜ」
トシは座り込むと手招きで俺を誘う、その動きは力が無い。余程疲れてるのだろう、数時間前の俺も大差は無いので人のことは言えないが。
旧友の隣に座り、俺はビジネスバッグを開けた。取り出したのは栄養ドリンクだ、残業が続く時は常にカバンの中に入れるようにしているのだ。
「ほら、飲めよ。疲れてるからって栄養ドリンク飲むの、ほんとはあまり良くないらしいけど……何かお前、家着く前に倒れそうだぞ」
どこにでも売っている安物だがトシへと差し出した。すんなり受け取ってくれるものとばかり思っていたが、彼はじっとそれを見るだけで腕を上げようともしない。
早く受け取って飲めよ、そう促すように瓶底で彼の胸を小突く。けれどもトシはドリンクのラベルに視線を落とし続けるだけでやっぱり動かない。
「どした? まさか自分で飲めないぐらい疲れてるのか?」
からかってみるが愛想笑いをすることもなく、彼はゆっくりと首を振る。
「いやぁ気持ちだけ貰っとくよ。どうせ後は電車に乗って揺られるだけだし」
断られてしまったが一度出した手前、そのままカバンに入れなおすのは何となく気が引ける。栄養ドリンクの瓶を開けて一気に煽り、すぐ傍にあったゴミ箱へと投げ捨てた。
会話は無かった、久しぶりに友達と会えたというのにどうにも言葉が出てこない。トシから話題を振ってくれないだろうかと横目で彼を見ると、手を組んだまま線路のある一点をじっと見ていた。
何かあるのだろうかと視線の先を追いかけてみたが、何の変哲も無いレールがあるだけ。ゴミが落ちているわけでもない。
話しかけずらい雰囲気を出されていたが、無言のまま座り続けるのは辛かった。これから話すぞという宣言の変わりに息を吸い込む。
「お前さ、何の仕事してんの?」
友の顔を見ず、こちらと同じく誰もいない反対側のホームを向いたまま尋ねた。
「施工管理だよ」
「あぁ、そっか……そりゃ疲れるよな」
納得して頷いた。施工管理の仕事の内容は知らないが、休みの取れない職だと聞いたことがある。
「まぁな……けど、今日辞めたよ。耐えられなかった」
「そっか」
それしか言えなかった。会っていない間、トシの身に何があったのか知りたくはある。でもそれを聞くのは今ではないはずだ。
会話が終わる、沈黙の間が流れ始めるが気まずさは一切ない。俺から話しかけるのは控えることにし、トシから話し始めるのを待つ。風が吹く音すらなく、静寂が耳に痛い。
聞こえるはずの無い針の音が聞こえるようだった。
トシは何も言わない。彼の表情を伺うこともしない、何かあったことは間違いなかった。今は色々と内に篭りたいのかもしれない、だから俺はただ居るだけに努める。
時計を見上げた、衣擦れの音が聞こえるほどの静寂。時刻は一時を過ぎていた。
「電車、来ないな……」
黙っているつもりだったがつい独り言が漏れた。
「きっと来るよ、もうすぐさ。きっと、な」
おかしいぞ、トシは最終電車が遅れていることを知っているのではないだろうか。遅延の程度がどの程度なのかも知っているはずだ。
「終電どのぐらい遅れてるんだろう」
彼に対しての質問だったが、独り言のように言いながらスマホを取り出す。運行情報を調べてみたが、遅延の情報は一切無かった。これから乗ろうとする路線はもちろんのこと、近隣を走るどこの路線も遅れてはいない。
つまり、最終電車は既に出発したということだ。ぐるりぐるり、頭の中で灰色の靄が回り始める。怪訝に思いながら隣に座る友を見た。
彼はやっぱり手を組んだまま、線路を見つめて待ち続けている。
「なぁ……どこも遅れてないみたいなんだけど、本当に……電車、来るのか?」
今のトシを少しでも不安がらせてはいけない。気をつけてはいたが、俺の声は不自然に高くなってしまう。
「来るよ、最期の電車がやって来る。必ず、きっともうすぐ」
返事が来るのは早かった、淀みはなく抑揚も無い。背筋に薄ら寒いものがやってくる。
「そ、そうだよな。電車、絶対に来るよな」
気味が悪くなってきた。人の気配が無いホーム、ここには俺とトシの二人だけ。
そういえばと気付いたことがある。電車が遅延しているなら、電車がどこを走っているのかのアナウンスがあるのが普通じゃなかったか。
今の場合なら、最終電車はどこの駅に着いたとか、どの区間を走っている、とか。そういうアナウンス流れるはずではないのか。二人でベンチに座ってから一〇分ぐらいは経っている。
この間、一度も駅員のアナウンスはなかった。
気付いてしまえば背筋の寒さは怖気へと変わる。
「な、なぁ……電車、来るんだよな……?」
震える声で尋ねると、彼は機械じみた動きで俺を見る。その瞳は黒かった、真っ黒で底のない奈落のようだった。
「あぁ、来るよ。お前も乗るだろう……?」
急速に口の中が渇いてゆく。返事をしようとするが喉が動かず、口を開けては閉じるだけを繰り返す。
レールが震えはじめた、電車が近づいているのだ。すぐに震えは大きくなり、聞きなれた音が聞こえる。ヘッドライトの明かりがホームを舐めて、見慣れた車両が滑り込む。チャイムの音が鳴り扉が開く。
普段は聞こえない鼓動の音が頭の中に響いていた。落ち着け落ち着けと、息を整え見た客車はいつも乗っているものと変わりが無い。見える範囲にいる乗客は数人だけ、みな虚ろな顔で俯き気味だった。
だがそれは最終電車ではよく見かける表情だ。何だいつもと同じじゃないかと安心して、トシと一緒に立ち上がって開かれた扉へと向かう。おかしなところはあるが、遅れていただけなのだ。
サイト上にも構内にもアナウンスは無かったが人間のやることだ。ミスがあったに違いない、そう言い聞かせて高ぶる鼓動を押さえながら車内に入ろうとした。
そこで止まってしまった。車両の行き先表示板を見たのだ、そこには何も書かれていない。静まりかけていた心臓の音がまた大きくなり始める。
トシは既に車両の中、こちらを見て立っていた。どういうことだ、尋ねようとしても息すら上手く吸えない。
「だよな、知ってたよ。お前は乗らないって」
「どういうことだよ?」
問いを喉から搾り出す、返事は無い。トシの口元が少しだけ緩み、ドアが閉まる。反射的に体は白線の内側へと引いていた。
モーター音が響く、電車が走り出す。俺は一人、誰もいない深夜のホームに取り残された。
「……! ……さん! お客さん!」
耳元で誰かが叫んでいる、あまりの大声で痛かった。
「えっ、あれ……?」
周りを見渡す、場所は変わらない。会社の最寄り駅のホーム、俺はベンチに座ったままで、目の前には鉄道会社の制服を着た駅員が立っていた。
「最終電車ですよ、乗るんですか? 乗らないんですか? 早くしてくれないと出発できないんですよ」
表情には出さないように努めているらしいが駅員の声は荒い。事態を飲み込めなかったが、とにかく立ち上がる。その時にたまたま時計が目に入る、午前の一時半を回っていた
「あれ……? 終電、もう出たんじゃ……?」
「踏み切りで人身……失礼、接触事故があったんで遅れてたんですよ。それよりも、乗るんですか? 乗らないんですか?」
半ば呆然としながら止まっている車両を見る。中は満員のすし詰め状態、窓際の客の中には俺を睨み付けている者までいた。
そう、そうだ。今日は金曜日だ、最終電車はいつも満員だったじゃないか。じゃあさっきの電車は何だったんだろう、疑問を浮かべながらも足早に乗り込んだ。扉が閉まり、動き出す。
四方八方から掛かる肉の圧力、酸素も心なしか薄く感じる。けれどもそれが心を落ち着かせてくれた。そう、いつもと同じだと。じゃあさっきのは何だったんだろうと考えたが、夢を見たとしか思えない。
疲れていたし駅のベンチだ、寝心地が良いわけなんて無い。そんなところで寝ていたのなら、変な夢を見てしまったっておかしくないだろう。
そこからはもう考えなかった、夢のこともトシのことも考えなかった。家に帰り、風呂にも入らずベッドへと倒れこんでそのまま眠りこける。
夢を見ることなく眠り続け、目を覚ましたときはまだ暗かった。もちろんそんなはずはなく、スマホで日付を確認すれば土曜日の午後九時。溜まっていた疲れの量に苦笑いを浮かべながら、旧友からメールが来ていることに気付く。
開いてみれば、それはトシの訃報だった。死因は自殺、夜中の踏み切りで電車に飛び込んだ、と。確かに、そう書いていた。
最期電車 不立雷葉 @raiba_novel
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