第7話

デミオスに遭遇してから、三日が経過した。今日はリベレイターになるための試験がある日だ。この三日間で特に変わった事は起こらなかった。パノのカラミタにも遭遇していない。そもそも、あんなデミオスのようなカラミタが何体も存在したら、敵わないだろう。もしかするとひつぎが倒してくれるかもしれないが・・。それよりも、夏樹の心の状態の方が問題である。試験当日は緊張していて、中々落ち着かない。海月先生が「別に落ちたりはしない、もう合格みたいなものだ」と言っていたとしても、そればかりが気になって、気になって仕方ないのだ。

・・・一体どんな相手が、模擬戦の相手なんだろう?・・うぅ、就活の時みたいな、嫌な緊張感があるぞ・・あの時も大変だったなぁ・・高校を卒業してから就職活動したからなぁ・・。自分の経験不足を痛感したというかなんというか、まぁ、誰にでも一番最初っていうのがあるからなぁ。あの時はまだ、やる気に満ち溢れていたから、なんとか、気合で上手くいったのかもしれないけれど・・。

そんな事を考えながら、いつも通り、シャワーを浴びて、着替えようとした夏樹。海月先生に渡された用紙には、服装は自由と書いてあった。試験と言っても、筆記試験ではなく、何らかの運動をするはずだ。スーツじゃ動きにくいだろうから、近くのホームセンターでジャージを買って来ていた。長袖の横とズボンの横に二本の白いラインがある、ごく普通のデザインである。ジャージの色は藍色だ。時刻は午前八時を少し過ぎたくらいだ。集合の時間まではまだ十分に時間がある。ジャージに着替えると、もう後はする事は無い。時間が来たら駅まで歩いて、電車に乗り、指定された場所に向かうだけだ。ひつぎはまだ姿を見せていない。何処かには居るだろうから、心配はしていない。

朝食は普段はあまり食べないが、今日は運動というか、外出するので一応トマトジュースと、食パン、ハム、を食べた。何も食べないよりかはマシである。夏樹は支度を済ませ、部屋の鍵をかけて、駅に向かった。


試験がある場所は、夏樹の住んでいる町から山の方に向かった郊外の場所だった。一時間ほど電車に揺られながら、近くの駅で夏樹は降りた。民家も少なく、人の気配もあまりしない静かな所だ。駅から少し歩いたところに商店街もあるようだが、午前中なのにほとんどのお店は閉まっていて、少し物寂しい印象だ。用紙に書かれている地図を頼りに、夏樹は、山の方へと歩いて行く。事前にネットで付近の地理を確認していたのだが、やはり初めて訪れる場所は、少し心細くなってしまう。何度もスマホの位置情報を活用した地図も見ながら、目的地に進んで行った。


「・・地図によると、この辺りなんだけどなぁ・・目印が元小学校跡地の石碑が建っているらしいんだけど、段々人工物が無くなってきたし、どんどん山の中に入っているなぁ・・」


昔は舗装されていたのであろう、アスファルトが所々剥がれたり、ひび割れてしまっている道をどんどん進む。いつの間にか、民家も無くなり、道の両脇は林が茂っていた。二十分ほど道なりに歩くと林が途切れ建物がまた現れる。恐らくは昔、人が住んでいたのであろう、ボロボロの民家なのか倉庫なのか分からない建物がちらほら確認出来た。草や、蔦が伸び放題の状態で、軽トラックの残骸のようなガラクタもある。持ち主はもう居ないのであろう。手入れもされていなかった。そこからもう少し進むと、ふいに視界が開ける。あるものが目に入った。縦二メートル、横五十センチメートル程の石柱がならんで二つ、門のように建っている。昔は鉄の柵でもあったのだろう。そのすぐ後ろに凸凹ではあるが、上へと続く石の階段があった。石の階段より少し先に目をやると、学校のようなコンクリートの建物が見えた。石の階段から、学校までの距離は大体三十メートルくらいだろうか。階段の傾斜は四十五度より少しあるくらいの中々急な傾斜である。


「あ、やっと見つけた。多分ここだ。結構歩いたなぁ・・と言うか、タクシーに乗れば良かったよ・・キツイ。はぁ、運動不足だね完全に・・。試験が始まる前からこんなに疲れてちゃ、駄目過ぎるなぁ・・」


思った以上に、歩き疲れた夏樹。石柱の少し横に座り休憩をすることにした。丁度、座るのにいい感じの大きさの岩があった。ここ数日雨が続いていたのもあり、外に出て運動をしていなかった為、今回の散歩は中々ハードであった。そもそも、運動をしようという気力も、うつのせいで沸き上がってこないのだが・・・。日頃から運動していればこんなことにはならない。ただ単に、夏樹の運動不足である。首筋をベトベトの汗が流れていく。リュックサックから、水が入ったペットボトルを取り出し、一気に半分ほど飲み干した。


「・・・ゴクゴク、ぷはぁっ!・・ふぅ~。生き返るなぁ・・。やっぱり、本格的に運動した方が良いのかもね・・」


夏樹はふと、空を見上げた。暑さはいくらかマシになってきてはいるが、まだ蒸し暑い日々が続く。木々の間から見える空は、眩しいくらいに青く、澄んでいた。大きな雲が右の方にゆっくりと流れていく。優しい風が頬を撫でていった。


「にゃぁ~」


夏樹がボーっと空を眺めていると、急に猫のような鳴き声が聞こえてきた。夏樹は慌てて、辺りを見渡した。すると、石の階段の真ん中辺りに、黒い猫が背筋を伸ばして座っていた。暫く観察していると、夏樹に背中を向けて、階段を軽い足取りで、どんどん上って行く。あっという間に姿が見えなくなってしまった。

・・・猫?何処かで見た事があるような・・。そう言えば、海月先生のクリニックに初めて行った時は黒い兎・・・ラビスさんが案内してくれたよね?という事は、もしかしたら、あの黒い猫もエニグマなのかもしれない。案内してくれているのかも・・考えすぎかな・・いや、まぁ、黒い猫なんてどこにでも居るからなぁ・・・。

そんな事を考えながら、猫の後を追って、夏樹は石の階段を上って行った。石の階段を上がった先には、先ほどちらりと見えていたコンクリートで出来ている学校らしき建物が建っていた。横に長い校舎だ。入り口が正面、恐らく来客用の大きな玄関と、左右に一つずつ生徒用の扉があった。外から見た感じでは、三階建てでコンクリートが小豆色のような色に塗装されていた。今はあまり使われていないようで、外壁にもヒビが入っていたり、塗装が剥がれている場所もあった。ただ、手入れは行き届いている様で、中庭に草が生えていないし、校舎の窓も割れていない。恐らく今も誰かが、この建物を管理しているのだろう。


「・・えっと、確か・・中央玄関に受付があるんだったっけ?・・」


夏樹は用紙に記載されている内容を確認する。そこには、「中央玄関で受付をして下さい。」とだけ書かれていた。中央玄関の位置はすぐに分かった。石の階段を上ったすぐ目の前にあったからだ。両開きの、ガラスがはめ込まれた頑丈そうな扉だ。扉の左側が外向きに開け放たれていた。玄関に入ってすぐ右側に受付らしき場所がある。試験が始まる時間まで後、三十分ほど余裕があった。早いに越した事はないので、受付に向かう夏樹。

受付に近づくにつれて、見知った顔が受付にいた。薄々、気が付いていたのだが、近くに寄るまで確信が持てなかった。初めは置物か何かかと思ったが、明らかに大きくて長い耳のような物が遠くからでも、ぴょこぴょこと動いているのだ。


「お~、みたにん!早いなぁ?元気やった?うちは勿論、元気やけど。ん?その顔は・・・何でうちみたいな、キュートで可愛い兎さんが受付におるんかて?それな、確かに、誰でもそう思うやん?まぁ、答えは簡単なんやけどな?それはキュートで可愛らしい兎やから、やで?・・・そうやなぁ、試験までまだ時間あるんやけど、みたにんは真面目やからなぁ・・そういう所、本当にえらいなぁ。感心するで。あ、それはそうと、なんか、あかん奴に襲われたみたいやん?大丈夫やった?ああ、うちら、結構連絡取り合ったりするけん、そういう情報はすぐに入ってくるんよ。しかし、まさか、あのデミオスが直接勧誘に来るとはなぁ・・。いやぁ、危なかった、危なかった。最悪の場合、みたにんが敵になっていたかもしれんかったもん。みたにんが無事で本当に良かったなぁ・・」


受付に居るのは人間ではなく、海月先生の黒い兎の姿をしたエニグマ、ラビスである。とにかく良く喋る。後、独特の話し方をする。方言みたいな?それはそうと、少し気になる事を言っていた。


「え?えっと、敵ってどういう事ですか?」


・・裏切るとか、そんな感じなのかな?・・人が敵になる?・・。


「ん?ああ、それはもう少しで、みたにんが「イドル」になってたかもしれんて、事やな。・・・んん?どしたん?・・その、なんか、いまいち言ってることが理解出来てないです、みたいな顔は?あっ、そっか、みたにんはまだリベレイターになってないから、説明を受けて無かったんやった。そやそや、そうやった。まぁ、そうやな、う~ん、うち、説明苦手なんやけど、簡単に言うと、イドルっちゅうのは、人間がカラミタと結託して悪い事してる奴らのことやな。関係性はリベレイターと同じで共生関係にあるんやけど、こいつらは、自分の欲望の為に力を使うんよ。しかも野良のカラミタと違って、生身の体を使ってるから、中々強いんよなぁ。まぁ、ほとんどの場合はカラミタに意識を乗っ取られて、姿は普通の人には人間に見えるんやけど、うちらが見ると、異形の化け物みたいな姿になってるんよね・・・・」


・・・イドルって、確かレオルドさんがそんな事をチラッと言っていたような・・。そういう意味だったのか。今まで何回も見てきたんだろうな、

人間がイドルになっているところを・・。


「そんな、存在が居るんですね・・知らなかったです・・。何でそんな事をカラミタはするんですかね?」


「う~ん、まぁ、うちらは感情をエネルギーとして食べてるからなぁ。人間の感情は実に種類が豊富やから、そういう自暴自棄の人間とか、邪悪な感情が好きな奴もおるけんやろうなぁ・・あくまで、うちの想像やけど。うちはな?海月ちゃんの静かな、川の流れのようなゆっくり流れる感情が好きなんやけどな?それから、自分の幼い見た目を悩んでいる時の複雑な感情とか、別に可愛いから、そんなんで悩まんでもいいのになぁ・・」


「ふむふむ、そうだったのか、ラビス。君も私の見た目を幼い、と認識しているのか。しかし、川の流れは時として、激しい濁流にもなったりする。岩にぶつかり、飛沫を上げたりね。その力は地形を変えてしまうほどだ。まぁ、滅多に私は怒ったりはしないがね?そうか、そうか、やはり見た目が幼いか・・」


夏樹は声がする後ろ側に顔を向けた。そこには滅多に感情を露わさない海月先生が、明らかに微笑んで佇んでいた。病院でもないのにいつもの白衣を着ていた。

・・え?何だろう?・・笑顔なんだけど、ちょっと怖い気がする・・。いつからそこに居たんだろうか?幼い見た目って、やっぱりすごく気にしていたんだなぁ。でも個人的には、年齢より若く見られるのは良い事だと思うけれど。若々しく見られるのは何だか得した気分にもなれるし・・。


「あ、あはは、なんや、海月ちゃん、お、おったんやな?全然気が付かんかったなぁ。いやぁ~。あはは、じゃっ!みたにん!うちは、やる事があったんけん!後はまかせるっちゃ!」


と言い残し、脱兎の如く(兎だけに)正面玄関から逃げて行ったラビス。その場に取り残されてしまった夏樹。少しだけ気まずい時間が流れていく。最初に口を開いたのは夏樹だった。


「あ、あの、先生、こんにちは、いつもお世話になっています。あの、受付って名前を書けばいいんですよね?というか、先生が何故ここにいらっしゃるんですか?」


上手く、話題を幼い見た目から逸らすことが出来た・・はずだ。


「ふむ、ああ、三谷君。息災だったかね?いや、なに、今回の試験の運営を手伝っているんだよ。何分、「スズラン」に在籍しているリベレイターのほとんどがご高齢でね?中々遠出は厳しい状況にあるから、若手が駆り出されるのさ。私もそこまで若手と言う年齢ではないのだが・・。先人達から見れば、私もまだまだ、ひよっこということなんだろう。まぁ、少し時間が早いが、三谷君、名前をそこの用紙に書いたら、この玄関を出て、建物裏のグラウンドに来てくれ。準備が出来たらすぐに試験を始めてしまおう。対戦相手も既に到着しているようだし・・」


そう言うと、海月先生は、ちらっと窓の外を見た。夏樹もつられて窓を見たが、特に何か居る訳でもなかった。用紙に名前を記入して、夏樹は海月先生にお礼を言って、裏側にあるグラウンドに向かった。玄関には海月先生がまだ残っていた。静まり返る空間。備え付けの丸い時計から、針の動く音が「カチッカチッ」と時を刻む。外の林から、鳥の鳴き声が聞こえてきた。そして唐突に誰かに話しかける海月先生。


「ふむ、どうだろう彼は?リベレイターに向いているかね?私は向いていると思うのだが。そもそも、パノのデミオスに遭遇して、手助けがあったとはいえ、普通に生還している時点で、彼のエニグマは相当強いと結論付けるしかない。たとえ、デミオスが戦闘ではなく、勧誘しに来ただけだったとしても。君はどう感じた?」


「・・・・エニグマがどうであれ、戦ってみれば分かる・・・」


何処からともなく、小さな声で返答が返ってきた。


「ふむ、確かにそうなんだが・・。貴重な人材という事は肝に銘じておいてくれると助かる。君の後輩になるのだからね?あまり手厳しい事はしないで欲しい。言わなくても分かるとは思うのだが・・」


「・・・もう、行く・・・」


誰かの気配が遠ざかっていった。一人その場に残された海月先生は、誰かに聞かせるというわけでもなく、ポツリと呟く。


「・・ふむ、彼らは少々力の加減が効かないところがあるからね・・。三谷君は大丈夫だとは思うが、何も問題など起こらず無事に試験が終わって欲しいものだ・・・さて、そろそろ行くとするか・・・・」


海月先生も、その場を後にして、裏側にあるグラウンドに向かったのだった。夏樹は無事に試験を終える事が出来るのだろうか?いよいよリベレイターになるための試験が始まる。


夏樹は、だだっ広い、グラウンドの真ん中付近にポツンと一人で立っていた。他に人は見当たらない。体感だが、縦五十~八十メートル、横約二百メートル程あるのではないだろうか。昔は沢山の生徒が居たのだろう。活気があった時代になんとなく思いを馳せる。知らない土地、知らない時代。自分の事ではないのに懐かしく感じてしまう夏樹。

・・なんて言ったっけな、ノスタルジックな気持ち、だったっけ?・・。

周囲をざっと見渡すが、どうやらこのグラウンドは山を削って平らな土地にしている様だった。外側はぐるりと林に囲まれていて、整地はされていない様だった。草がぼうぼうに生えていた。グラウンドとされる場所には砂利が敷かれていた。雑草が生えていて、境界がやや曖昧であるが・・。


「にゃぁ~」


突然、猫の鳴き声が夏樹のすぐ近くで聞こえてきた。夏樹は猫の姿を探す。すると、夏樹から二メートル程離れた所に何処かで見た事があるような、黒い猫が背筋を伸ばして座っていた。


「あ!、君は、さっき僕を案内してくれた猫・・さんだよね?もしかしてデミオスと遭遇した日にも居た、あの猫さんだったりするのかな?まぁ、でも黒い猫なんてどこにでもいるもんね?」


黒い猫は何も言わずゆっくりと夏樹に近づいて来て、そのまま足元を通り過ぎて行ってしまった。夏樹は目線で猫を追う、そのまま後ろを振り向いた。そこには見知らぬ少女が立っていた。黒色のベースボールキャップに黒いノースリーブのシャツ、青緑色のモッズコートを着崩して、着ている。紺色のホットパンツ姿でスラっと細い足が見える。白い肌に印象的な透き通る様な緑色の瞳。ストレートロングの金髪。鼻筋が高く整った顔。どう見ても外国人だ。恐らく、十代後半から二十代前半くらいだろう。身長は百六十センチくらいだろうか。外国人なので見た目はずっと大人びて見える事が多い。もっと若いのかもしれないが。逆に日本人女性は海外の人から見ると、年齢より若く見えると、聞いた事がある。その少女は腕を前で組み、夏樹を無表情で見つめていた。ずっと見つめ返すのは失礼だと思い、夏樹は勇気を振り絞って声をかけてみた。


「は、はろー。まいねいむいず、ナツキミタニ。えっと、ユア、リベレイター?あ、えっと、イズディスキャット・・・ユアーズ?」


暫くの沈黙が訪れる。夏樹は急に不安になった。

・・あれ?通じてない?、というか、この子誰?白昼夢でも見てるのかってくらい現実離れしてるよ?この子。まぁ、そうだよね、こんな適当な英語じゃ通用しないか・・。もっと喋れるようになっとけば良かったなぁ・・・。いや、滅多に使わないと思ったからさぁ・・。日常でそんなに英語で会話する事ってないじゃん?ここは日本だし・・。

そんな事を考えていると少女が口を開いた。


「・・別に無理に英語を喋らなくてもいいわ。私が日本語話せるから。私の名前は、アリエラ・キャンベル。普通にアニーって呼んでいいわ。そしてこの子は、私のエニグマよ?」


よく通る澄んだ声だ。ただ、少し疲れているような感じだ。声に元気が無い気がする。日本語がとても上手で色々助かるが。


「あ、そうなんですね?日本語凄く上手いね?・・えっと、その、もしかして、僕の今日の対戦相手と言うのは、アリエラさんだったりするのかな?」


・・・何だろう、この子は不思議な感じがするなぁ・・。ふわふわしていて掴みどころのない、煙のような・・気迫が無いような・・あんまり生きているような感じがしないぞ・・。生きてはいるんだろうけれど。気力が無いというか、覇気が無いのかな?・・。


「まぁ、そうね。本当は断ろうと思ったんだけど、海月がどうしてもってお願いしてくるから・・仕方なく・・私だってそんなに暇ってわけじゃないのに・・・・ふぅ・・」


・・あれ?あんまり、歓迎されてないような・・・。というより、体調が悪いのだろうか?・・。


「まぁまぁ、そんなに拗ねないでくれたまえ。ちゃんと君にも報酬が出るのだから、任務の一環だと思って割り切ってくれ。君が居てくれて本当に助かっているのだよ?アニー?」


声のする方を向くと、いつの間にか海月先生とラビスが近くに来ていた。丁度、夏樹とアリエラの真ん中辺りに少し離れて立っていた。


「あ、先生。どうも、その、この子が僕の対戦相手という事ですか?というか、他に審査をする人とかは・・いらっしゃらないのでしょうか?・・もう時間ですけど・・・」


「ふむ、ああ、そうだ。彼女が三谷君の対戦相手だ。彼女はまだ十四歳だが、リベレイターとしての素質と、実戦での経験、判断力、どれを取っても一流のリベレイターなんだよ?私が保証しよう。だから、遠慮せず、安心して戦ってくれたまえ。今回は私とラビスが審査員なんだ。前にも言ったが人手不足でね?まぁ、危なくなっても私達が止めるから、肩の力を抜いてリラックスしてほしい」


「そ、そうだったんですか・・あの、でも、余計なお世話かもしれないんですけど、アリエラさんがちょっと、気分が悪そうというか、元気が無いというか・・そんな感じがするのですが・・」


少し驚いたような表情をして、海月先生はアリエラに話しかける。


「ん?そうなのか?アニー、体調が良くないのかね?だったら無理はしない方が良い。また日を改めてもいいのだよ?さっきは大丈夫そうだったのだが・・」


「ふわぁ」と欠伸をするアリエラ。眠たいのだろうか?彼女が口を開く。


「・・いや、ゴメン、ちょっと寝不足で・・いや、無茶はしてないのよ?別に体調が悪いとかじゃなくて・・なんていうんだっけ・・ああ、オール?そんな感じ・・」


「ふむ?徹夜かね?夜更かしはあまりお肌に良くない。昨日は特に依頼や任務は無かったと思うのだが・・もしかしてまた・・」


「いやっ!違う違う、まぁ、年頃の乙女には色々あるのよ・・」


何か、話を誤魔化しているような感じがひしひしと伝わってくる。そもそも自分で自分の事を年頃の乙女って言ったりするのか、少し謎だが・・。


「いや、彼女は最近、日本のアニメにハマっているのだ。確か、少女が魔法で変身して、悪い奴らと戦うんだが、その少女達は、魔法を使えばいいのに、何故か素手で殴ったり蹴ったりする。そうやって怪物を倒してしまう。少し手荒な気もするが、そこに彼女は衝撃を受けて、思わずイッキ見してしまったのだ。普通は屈強な男たちがヒーロースーツを着て悪の怪人と戦ったりするのだが。儂としては、女、子供には戦って欲しくはないのだ。まぁ、空想の世界であれば、それもアリなのではないかと、最近は思えるようになったし、つくづく、人間の想像力は凄いと感心させられる・・現に、儂のパートナーも十分若いが、こうやって悪いカラミタと戦っているしな・・安心してくれ、前のように徹夜で仕事という訳ではない。お主が心配するような事はしとらんよ」


一体誰が喋ったのか、声の主を探すと、アリエラの近くに居たエニグマの黒い猫だった。なかなか渋い声・・というか、この声何処かで聞いた事があるような?


「ちょ、ちょっと、レオ!余計な事は言わなくていいから!いつもは、ほとんど喋らないのに、何でそんなに詳しく言っちゃうのよ!ち、違うの!そうじゃないから。海月!うっかりとかじゃないから!今日の試験の作戦を考えていたら、いつの間にか朝日が出ていたの!」


アリエラに対して、少しだけ親近感が生まれた夏樹。やはり年相応の人なのだろうと。彼女は慌てていて、少し頬が赤くなっているように見えた。・・確かに僕も、昔たまたまそのアニメを見た事があるけれど、魔法少女というより、スーパーヒーローみたいな感じだったなぁ。もろ、肉弾戦だった。フリルの付いたスカート、きらびやかなドレスのような恰好なのに、バシバシ、怪人を殴っていくんだよなぁ・・。あ、でも女性にとって、煌びやかなドレスはある意味、戦闘服なのかも・・。


「ふむ、個人の趣味にとやかく言うつもりは無いよ。むしろ人生において為になる漫画やアニメは沢山あるからね?体調に問題がなければ、このまま模擬戦闘を開始してもいいかね?時間も無限ではない。では、二人とも準備はいいかな?お互いに自立型のエニグマだから、分かりやすいように、自分の目の前に顕現させてくれ。因みに、戦闘フィールドはこのグラウンド内だ。周りに人は居ないが、念のため人とカラミタに気が付かれないように、結界を張ってるからそこは心配は要らない。思う存分戦ってくれたまえ」


「わかったわよ!もうさっさと終わらせて、寝るんだから!じゃぁ、全力で行くわ!言っておくけど、弱かったら承知しないんだからね?わざわざこの私が相手をしてあげるんだから。レオ!お願い!」


アリエラがそう叫ぶと右手の人差し指を前に突き出して、黒い猫、もといレオに前に行くように指示を出した。黒い猫はゆっくりとアリエラの前に移動する。


「まぁ、そんなに気にするな。ただの照れ隠しだ。が、儂も手を抜く気は無い。今持てる力を存分に発揮せよ。小僧。いや、三谷・・」


そう言った途端、黒い猫の体から黒い煙が立ち上がり、黒い靄に覆われたかと思うと黒い塊がどんどん大きくなっていく。黒い靄が無くなった瞬間、猫から逞しい黒いライオンに姿が変わっていた。デミオスとの戦闘で助けてくれた、あの黒い大きなライオンだった。印象的な青い目をしているから、間違いない。


「れ、レオルドさん?でしたよね?まさか貴方だったんですか!あの時はどうも、有難うございました!僕だけじゃぁ多分、色々と無理だったと思ったので・・」


夏樹は素直にお礼を述べる。あの時は実のところ、勧誘に乗りそうになっていた自分がいた。隠しきれない負の感情・・生きていてもしょうがないじゃないかって、世界なんて壊れてしまえとか、何回思った事か・・上手く表せないけれど、こう、心の中にある、嫌な思い出とか、感情を溜め込んだ大きな黒い鍋みたいなのがあって、いつもは蓋をしているんだけど、ふとした瞬間に、蓋がズレて中からぐちゃぐちゃでドロドロの感情が漏れてくる時がある。デミオスの能力なのかどうかは、分からないけど、その負の感情のエネルギーを、僕は増幅させられていたのかもしれない。パノって呼ばれるだけのことはある。海月先生には黙っていたけど、デミオスの誘いに乗りかけていたんだ、僕は、傾きかけてた。でも、すぐになんとか考えは改める事が出来た。一人だったらどうなっていたことか・・。そんな可能性を考えると、ひつぎとレオルドさんがいてくれて本当に良かった。世界は敵ばかりではないんだ。後、散髪した後で、気が緩んでいたのもあるのかもしれない。「魔が差す」って昔の人は上手く言ったもんだよね。僕の場合、本当に悪魔みたいな奴だったけれど。


「いや、始めは、傍観するつもりだったのだが、何故かお主の前に出ておった。儂はほとんど何もしていない。お前のエニグマが、あの悪魔を締め上げていなければ、そもそも分身だったから良かったが、本体だった場合、儂だけでは恐らく勝てない。アニーも居なかったし・・運が良かったくらいの感覚で構わんよ。そんなに大したことはしていないからな」


その会話を聞いて、眠たそうだったアリエラの目が見開く。アリエラが驚いていた。眠気が吹き飛んだ様子だ。


「えっ?監視してただけって言ってなかった?どういう事?レオ!貴方が他のリベレイターを助けるなんて、珍しい事もあるのね・・・。ふ~ん、そっか、少しだけ三谷夏樹に私、興味が湧いたかもしれない。レオは基本的に優しいけれど他人には、そこまで過度に干渉しないのよ。だから何かが無いとリベレイターを助けてたりなんて、滅多にしないの。力を温存しないといけないし。「触れぬ神に祟り無し」って言うでしょ?まぁ、出来る限り、私の目の届く限りは助けたいけど、ちょっと昔色々あって、休息も大事にしてるの・・。レオが助けたって事は、貴方は彼に認められているって事。でも、私はまだ認めてない。それはこれからね。あっ、補足するけど、えっと、レオは勿論、私と任務中は困っている人を助けてくれるわ。休みの日はちゃんと休養するように言ってあるんだけど・・。自分から助けに行くなんて、今までそんな事は無かったのに・・本当にびっくりね・・・。相当敵がヤバかったって事なのかしら?まぁ、パノだったらそのくらい強いのかもしれないわね。私はまだ遭遇した事が無かったから、そのデミオスとかってやつがどの位の強さか推し量れないのだけれど、それだったら私も参戦してたわ!」


アリエラはかなり驚いている様だった。夏樹からすると、そこまでレオルドは冷たい感じはしなかったのだが・・。レオルドはゆっくとアリエラの方に首を動かすと、弁明をした。


「うむ、流石に目の前で人間が「イドル」になりかけている所だったら儂も止めに入るが?体力は温存するのも大事だが、救えそうなものは、救うというのは、アニー。お主の考えではなかったか?それくらいは儂も常識を持っているつもりだぞ?・・それにお主は休息しないといけなかっただろう?儂にもベイツを分けてくれているのだし・・」


アリエラはやれやれと言った感じで、ため息をついた。


「まぁ、確かに、そうだけど・・いざって時に戦えないって事になったら大変なんだからね?・・そこは後で問い詰めるとして・・・そうね・・、私達が所属している「スズラン」だって全ての人間を助ける事が出来ているかと言うとそうでもない。そこまで完璧な組織は存在しないと思う。だからそれぞれが協力をしあってなんとかここまで、被害を抑えてきたつもりなんだけどね?私だって只の人間だし、眠らないといけない時もあるし、お腹も減っちゃうし、ほんと、生き物って不便よ。もし眠らなくていいのなら、もっと沢山の人達を救う事が出来るのに・・まぁ流石にそこまでは無理だけど・・無茶したら駄目。そうよね?海月・・」


唐突に海月先生に話を振るアリエラ。その語りは、後悔していることがあるような、そんな感じを含んでいた。その言葉を聞いて夏樹は、この子を信用していいと思った。もっと人を救いたい・・。そんな事を言葉に出来るなんて、本当に優しい子だ。きっと過去に色々な、辛い事とかがあった筈なのに、優しくて強い子なんだ。まぁ、勝手な想像なんだけれども。それに比べて僕は、覚悟が少し足りなかったな。何となくここまで来たけれど、今一度気合を入れないとね・・。


すると海月先生は、いつもの調子でコホンと咳をした。


「ふむ。そうだな。我々は万能の神ではない、生きている人間だ。だから、すべての被害を防ぐことが出来る訳では無い。可能ならそうしたいが。いつも事件が起きてから行動をすることの方が多い。どうしても後手後手になってしまうのが現状だ。いくら防止しようとも、限界がある。それでもアニーは普通のリベレイターの何倍も働いていた。若いから体力があるのは勿論だが、誰にも負けない強い意志があるからね?以前は本当に寝ないで、何日も任務をこなしていた。見ていて危うかったから、私が勿論止めたが。健康に良くない。うつにも良くない。それに睡眠をとらなければ、判断力も鈍ってくるし、視野も狭くなる。そんな不安定な状態でカラミタと戦闘となれば、危険はいつもの数十倍に跳ね上がるだろう。何よりも、幼い顔に鬼気迫る勢いで戦う彼女を見ていられなかった。それは子供がするような表情ではない。まぁ、彼女の過去は本人から追々聞くといいよ。三谷君・・・」


アリエラはまた、驚いた。今度も目を大きく見開いている。ついでに口も。コロコロと表情が変わって、見ていて飽きない。


「な、何で、私が、三谷夏樹に、過去のことを話さなきゃいけないのよ!今日が初対面なのよ!話されても、きっとつまらないだけだし、変な気遣いをされてもこっちが困るわ!海月なら信用出来るけど・・あっ、そうだ、別に海月が三谷夏樹に話してもいいわよ?どうせ、知る事になるんでしょうし・・遅いか、早いかの違いよ・・」


海月先生は、少しだけ微笑んでいた。・・多分僕にしか分からないくらいの表情の差だと思う・・。


「ふむ。さっき、三谷夏樹に興味が湧いたと言っていなかったか?手っ取り早く親しくなるには、己の身の上話をすればいい。相手も、自分の事を分かってくれるし、相手も自分の身の上話をして、すぐに打ち解ける事が出来ると思うのだが・・。因みに相手に嫌われたい時は、その人物ではなく、その両親か、家族を馬鹿にするといいぞ?滅多に無い状況だと思うが・・まぁ、色んな人間がいるからね・・。人の心理は実に興味深い・・何故、自分よりも大切な人が馬鹿にされると、物凄く怒ってしまうのか。勿論、自分も特別で大切だが、それ以上に愛するものを大切に想う。素晴らしい事だとは思う。そう思える家族や恋人、友人が居ればの話だが。それに好きの反対は嫌いと言われているが、実際、興味はあるのだ。つまり好きの反対は無関心。これは人間の恋愛感情に限るがね?他の動物は本能に従っているんだ。子孫を増やすだけなら、人間の感情や理性は実に非効率だ・・好きな相手に自分の気持ちを伝えるのが何故こんなにも難しいのか・・嫌われたくないとか、色んな感情が頭の中を渦巻く。思考が行動を妨げたしまう。理性もね。やはり人間は感情を味わう為に創造されたのだろうか・・。いや、しかしそれだと、今の社会環境はかなり暗い方に偏って・・・」


「なぁなぁ、海月ちゃん?話がズレちょんよ?あんまり結界も長い時間持たんし、そろそろ始めた方が良いんやないの?」


そう言いながら、ラビスが海月先生の白衣の裾を小さい手で引っ張っていた。それに気が付き、海月先生は「コホン」と軽く咳払いをして、白衣のポケットから、懐中時計を取り出し、全面のカバーを「パカッ」っと開く。時刻を確認している様だった。今時、懐中時計は珍しいなと思った夏樹。ひつぎはいつの間にか夏樹の目の前に居た。音も無く現れるので毎回少しだけ驚いている。後ろから見ても只の黒い冷蔵庫のような、縦長の箱である。太陽の光にほとんど反射して光っていないので、ひつぎの居る空間がその部分だけぽっかりと抜けているように見えた。何も無い虚空・・。それに体が、意識が吸い込まれそうな、そんな妄想をしてしまう・・。夏樹の場所からだと丁度、視線の先にひつぎが居るので、アリエラとレオルドがどんな表情をしているのか、見る事が出来なかった。しかし、いつの間にか現れたひつぎに気が付いてアリエラから、

「はっ?いつの間に?」という声が聞こえてきた。

・・・うん。確かに僕もそう思う・・。


「ふむ、確かにラビスの言う通りだ。いや、すまない。話が脱線してしまったね?三谷君。君のエニグマは・・・既に準備完了のようだね。早速試験を始めよう。時間は有限だ。サクッとやろう・・」


夏樹は、「はっ」と我に返り、ひつぎから視線を海月先生に移した。


「あ!、でも先生、質問何ですが、僕はひつぎに指示とか、出して戦った事はなくて勝手に敵を倒してくれるんですが、その間、僕は動かなくてもいいんですか?ひつぎに頼りきりで何だか僕は、その、全く戦ってないような気がするんですけど。それでもいいんでしょうか?」


夏樹はずっと心に引っかかっていた考えを海月先生に聞いてみた。・・リベレイターになると決めたのは僕だけど、実際に戦うのはひつぎだ。いくら、自らで戦ってくれるからって、ちょっとそれはひつぎに対して礼儀に反しているというか、僕にも何か出来ないのだろうか?パートナーだし。


「ふむ。確かに三谷君は何もしていないような気がしているのかもしれないね。そうだな・・車は燃料が無いと道路を走る事が出来ない。それはエニグマにとっても一緒なんだ。リベレイターとエニグマは共生関係にあると言ったが、エニグマが実態を持って活動するには、パートナーのエネルギー、つまり燃料にあたるベイツが不可欠なんだよ。これが供給されなければ実体を保つのは難しい。ゲームで言うところのMP、マジックポイントとかマインドポイントとかそんな感じのものだ。これは人間にしか生み出せないものなんだ。三谷君のエニグマも活動するのに君からベイツを貰っているのさ。何もしていないが、厳密に言えば、エニグマに戦闘中は絶えずにエネルギーを供給していることになる。・・人がカラミタを直接触れる事は難しいからね。お互いがカバーしないといけないんだ。自分のエニグマを纏えばまた話が違ってくるが・・今日はとりあえず様子見かな・・。何処から敵が向かってくるとか、攻撃が来るとかその辺りをひつぎ君に教えてあげるのもいいかもしれない。この辺は経験を積む以外に鍛える事は出来ない・・何事も、習うより慣れろ、だ・・」


「あ、確かに言われてみるとそうかもしれないですね・・。ん?あれ?、でもひつぎは僕からベイツを食べていいか、確認してくれるんですけど、それはまた別のエネルギーなんですか?」


・・まぁ、そうだよね。いきなりやれって言われても出来ない・・。これから徐々に戦闘にも慣れていけばいい。それに、やっぱりひつぎにも活動限界があるって事だよね?アリエラさんも休憩が大事だって言っていたし・・。僕はどのくらいの間、ひつぎにエネルギーを供給し続ける事が出来るのか、限界を知っておかないといけないな。じゃなきゃ、本当の戦闘になった時に色々と困るぞ・・。


「ふむ・・その辺りのエネルギー管理はひつぎ君本人でないと、私には分からないな・・。まぁ、色々なケースがあるから、一度ひつぎ君と話し合ってみるといいよ?いい機会だし、自分の限界を知る事が出来れば今回の模擬戦兼試験もやったかいがあるというものだね・・あまり無理はしないでくれると助かるが・・その辺も追々やっていこう・・ああ、それと人間に直接攻撃は今回は止めてくれ。怪我をしたら後でお偉いさん方に何を注意されるか分からないからね?・・。ふむ。さぁ、始めるぞ?準備はいいか?二人とも?危なくなったら私か、ラビスが止めに入るからその時は戦闘を終了してくれたまえ」


・・海月先生は、やはり僕の考えを読み取れるのだろうか・・。それとも能力?・・どっちか分からないけれど・・。当たってるのが凄い・・・。

そう言うと海月先生は右手を垂直に上げ、「始め!」と号令をかける。それと同時に右手を勢いよく下に降ろした。

夏樹の運命を変えるかもしれない、模擬戦闘がやっと始まる。夏樹は戦闘態勢に入る。思わず両手をきつく握りしめていた。後、脇汗が滝のように流れているのが分かる。嫌な感じだ。まだ夏樹の心に少しの不安を残しつつ、戦闘開始の号令が鳴るのであった。




「もう!ちょっと、一体どういう事なの?何?アレ?意味わかんない!」

アリエラは相当に憤っている様子だ。模擬戦闘は、ほんの数秒で夏樹の勝利で幕を閉じたのであった。


数分前・・・・。


始まりの合図とともに夏樹はひつぎに命令を出す。命令と言っても「あんまり無茶しないようにお願い!」と言っただけだ。ひつぎは「分かった」と短く返答した。そこからはアッと言う間で、ひつぎの前面の扉っぽい部分が少しだけ開いて、いつもの細くて黒い腕が沢山飛び出してきた。それを見たアリエラは咄嗟にレオルドに指示を出したのだが・・。


「な!何?あの手みたいなの?ヤバい!レオ!絶対に躱して!捕まったらダメ!」


それを聞いてレオルドは軽やかに横にステップしてひつぎの黒い腕を躱したのだが、黒い腕の伸びるスピードが速すぎて、夏樹が瞬きを二回した時にはもう、レオルドは黒い腕にグルグル巻きに捕らえられていた。黒い腕を振りほどこうと爪で引っ搔いている様だったが、全く黒い腕に傷がつかない。夏樹も只、呆然と眺めている事しか出来なかった。


「ぬぅ?・・・これは、動けんな・・・しかも・・くっ、ベイツを吸われておる・・すまぬ、アニー。油断したわけではなかったのだが、儂のベイツをほとんど喰われてしまった。これ以上の戦闘は無理のようだ・・面目ない・・」


レオルドはそう言うと、元の黒い猫に姿が戻ってしまうのであった。目がグルグルと回っていて、ぐったりとしていた。それを観戦していた海月先生は、戦闘を止めに入り、


「ふむ。よし、そこまでだ!三谷君、ひつぎ君を止めてくれ」


と、夏樹に指示を出したのであった。アリエラは何が起こったのか理解出来ていないようで、口をポカンと開けたまま固まっている。夏樹はひつぎに拘束を解くように指示を出した。すると、レオルドに絡まった黒い腕がスルスルと解けていって、ひつぎの中に戻って行く。扉が閉まり、静寂が訪れた。アリエラはハッと我に返りぐったりとしている猫の姿のレオルドを優しく抱きかかえた。それを確認した海月先生は、


「・・それでは、今回の入団試験兼戦闘能力確認模擬戦闘は、三谷君の勝利だ。ひつぎ君の能力は、少し聞いていたが、まさかこれほどのモノとはね・・・。三谷君がイドルじゃなくて本当に良かったと安心しているよ。ますます、ひつぎ君の箱の中身が気になるが・・結果は皆も分かっていると思うが、三谷君のリベレーターの資格兼秘密結社「スズラン」の入社試験は合格だ。おめでとう!これからよろしく頼むよ?三谷君とひつぎ君。・・詳しい事はまた後日にでも説明しよう。ああ、そうだ、急な話で悪いんだが、三谷君には引っ越しをしてもらわなければならないんだ。我々の組織が所有している・・まぁ簡単に言うと、寮に住んでもらうと言った方が良いかな?」


・・合格か・・良かった・・これで何とか生きる目的が出来たというか、

色々結構ツライけど・・。まだ僕の人生は始まったばかりだし、適度に頑張ろう。ひつぎの正体がちょっと良く分からないけれど、それも後々分かってくるだろうし・・。リベレイターに転職したってことなのかな?そう考えると、少し気持ちが楽になったかも・・。ずっと無職って訳にもいかないし・・。海月先生も優しいし・・・・。僕は一人じゃないんだ・・。ああ、駄目だ、暗い事ばかり考えてしまう・・。


「ご、合格なんですね?・・そうですか・・あ、有難うございます!これからよろしくお願い致します。・・えっと、寮・・ですか?まぁ、そうですね・・・部屋に僕の荷物なんてあんまり無いし、引っ越しはすぐにでも出来ますけど・・」


「ふむ、本当に急な話ですまない。三谷君の症状から考えて、こんな急な事をやってくれと頼むのは心苦しいのだが・・またいつ、強力なカラミタが襲ってくるとも限らない。私も色々と考えてね。一週間以内に指定した場所に引っ越してもらいたいのだ。人手が足りないのならこちらで人員を派遣しよう。これくらいしか私には出来ない・・。引っ越しの手続きは出来そうかね?無理そうだったら代理として私がやるが?」


「い、いえ!そこまでして貰わなくても大丈夫です!部屋にそんなに荷物なんて無いし、まぁ、少し散らかってますけど・・・・一人でどうにかなります。えっと、電気とガスと水道を解約して、市役所に行って住所を移せばいいんですよね?引っ越しなんて何回もしてるんで、慣れたもんですよ。あはは・・」


・・まぁ、正直なところ、結構ゴミが溜まってたりしてるし、友達が来たりとか、引っ越ししなければとかじゃないと掃除しようなんて思わないよね。やっぱり感覚がおかしくなってるのかも・・。というか、まるで僕の部屋を見た事があるような口ぶりだったなぁ・・。海月先生は何でもお見通しなのかもしれない・・。


「ふむ。そうかね?まぁ市役所関連はこちらで手続きをしておくから、三谷君は部屋の掃除などに専念してくれたまえ。私も仕事で患者の家に行ったことが何回もあるのだが、大抵のうつ患者の部屋は汚い。特に一人暮らしだと、ゴミを朝出しに行くのも面倒になって、それが溜まってしまう事も多い。特に多いゴミはペットボトルやインスタント麺などのプラスチック類、そして、段ボールなんかも捨てずにそのままの場合が多いな。彼ら彼女らは、掃除が面倒でしないのではなく、出来ないのだ。酷い場合だと自分が寝るスペース以外は足元の踏み場が無いくらいゴミが散乱している事もある。うつになると、周りの事が見えなくなってしまう。話を聴くにそこまで部屋の中は酷くはなさそうだが・・・。さっきも言ったように掃除はかなりの労力を使うし、そのままにして今の部屋を出ても後で掃除費用なんかも請求されたりする場合があるから、やはり誰かを手伝いに行かせよう。話し相手がいた方が、掃除も捗るだろう。こちらの都合なのだからそれくらいさせてもらえないだろうか?」


「えっと、じゃぁ、そうですね・・。確かに人手があった方が助かります。正直な所、部屋の状態がいいのか、悪いのか段々と自信が無くなって来たので、もしかしたら僕が思っている以上に汚れてたりするかもしれないので・・お言葉に甘えて・・」


・・確かにそう言われると、僕は普通に生活しているけど、他の人が僕の部屋を見たら、物凄く汚れて、散らかっているのかもしれないなぁ。ここは無理をしないで、手伝ってもらおう・・。


そんな事を考えながら、夏樹は少しの不安と期待を胸にリベレイターとしての一歩を踏み出したのであった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

うつつの彼方 高西羽月 @tetora39

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ