第4話 真実なんて、誰も望まない
眠気という麻酔に打ち勝ち、僕はなんとか家を出る。
普段よりも登校する時間が早いからか、鳥の鳴き声は耳触りが良く、空気も美味しい。早起きは三文の徳とは、言い得て妙だ。
僕は呑気に校門をくぐり、下足箱前で履き替える。
「僕だけ、か」
有り余る時間を使い、他のクラスや他学年の下足箱を見るも、白い上靴しか確認できない。彼女の下足箱もまた、例に漏れず。
今日は一体、何の用だろう。
数日前から上手く眠りに付けず、睡眠不足だというのに、探求心や高揚感のせいかドキドキが止まらない。
静まれ、僕のドーパミン!
「……そうだ」
僕は肩掛け鞄から単語帳を取り出し、範囲を振り返ることにした。
待ち時間はこれで時間を潰そう。単語帳は文庫本に並ぶ便利グッズだからな。
階段と単語帳を視界で行き来しながら、テスト期間は億劫になってしまうはずの階段を難なく上った。
がしかし、教室前に立つと、実感と共に緊張感がこみ上げてくる。
中に誰もいない事は分かっている。音も聞こえない。けれど、これからの事を考えると緊張せずにはいられないだろ。
こんな時は深呼吸だ、深呼吸。
僕はゆっくりと息を吸い込み、両腕を天井に向ける。そうして吐くのと同時に、緩急をつけながら両手先を地面に向けた。
次に……いや、最後に覚悟を決め、僕は扉を開けた。
「――まあ、だよな」
朝日で色づけされた教室には、生徒の姿なんてない。あるのはただ、朝日を照り返して輝く埃と、美しいまでの静寂だ。
教室に足を踏み入れるなり、扉を閉め、教室内を見渡しながら席に向かう。
誰もいない教室は何度見ても新鮮だった。
荷物を机に置き、自席に座る。
「……あ」
なんとなく窓の向こうに目線を遣ると、ちょうど校門辺りに日葵の姿があった。
恐らくあまり時間はかからないだろうが、英語のテストのためだ。教科書の本文などは既に予習済み。だからこそ、基本となる単語の暗記が重要だ。
もう一度、単語帳を開く。
がしかし、すぐに階段を上る音が聞こえ、音量は徐々に上がってゆく。その度に集中力は掻き乱され、扉の前で音が止まった時には、意識がばらけて心音が暴走していた。
もうすぐ……もうすぐだ……。
扉が開かれたとき、僕は勢いよく立ち上がっていた。
「お、おはよう! ひま……り?」
けれど束の間、視界に映ったのは――
「おいおい、なんで守がいんだよ」
――野崎を含めた、男数人だった。
こんな日に限って部外者が来るなんて。先週の事と言い、とことんツイてない。
相手の不快感の籠る言葉を反射するように、首を傾げながら口を開く。
「君達こそ、こんな朝早くにどうして」
「朝練……と言いたいんだが今日は違うな。日葵に呼び出されたんだよ」
ったく、とダルそうに嘆息を漏らした。
一体どういうことだ。日葵が呼んでいたのは僕だけじゃないのか? でも、そうなると余計に分からない。彼らと僕は、ほとんど接点ないんだぞ。
「そっちも似たようなとこだろ? さっき、俺らの事を日葵って呼んでたんだし」
野崎がそう言うなり、他の連中がクスクスと笑う。
……たいして信頼もない奴から笑われるのは不快だな。まあ、言えないけど。
「でもまさか、二度も同じことしようとするとは、あいつも懲りねぇよな」
「こうなるって知ってたら、野崎先輩、絶対に来ませんもんね」
こうなる? って、だからどういう状況の事だよ。
内輪で話されても、僕には全く分からない。
目を眇め、問い詰めるように尋ねた。
「一体何の話をしてるんだ、君達は」
すると全員がこちらを向き、そういえばお前もいたんだった、と示すような蔑んだ視線を浴びせられる。
「あー、そうだったな。お前、あの時の記憶飛んだんだっけ」
言って、野崎は唇の両端を釣り上げて、制服のポケットからガラケーを取り出した。
一体何だ、この胸のざわつきは。胸が窮屈で、何かに押しつぶされそうだ。
額や背中、手のひらからも汗がジワジワと滲み出して止まらない。
僕は緊張と一緒に口内に溜まっていた唾液を飲み干した。
そうして何かを見つけた野崎は口を開き、
「あった、あったー。ほらよっ」
こちらにガラケーを投げつけてきた。
「そこに映ってる写真、見てみろよ。それが集められた理由だと思うぜ」
口角を歪に釣り上げ、ふんと鼻を鳴らし、野崎は僕が手に持つガラケーを指さした。
言われるがまま、僕は画面に目を遣る。
もちろん恐怖はある。いいや、今は恐怖しかないのかも。けれど、これを確認しなければ決して先へは進めない。
たとえ蛮勇と罵られようとも、僕に進まないという選択肢はなかった。
「……これ、って……」
写真には日葵が写っていた。
彼女が一人で教室にいる写真。ジャージを置き忘れた僕の机に顔を埋めており、手は下へと伸びているため確認が出来ない。
けれど、二枚目に移ったときだった。
写真の構図はほとんど変わらない。彼女の表情が見ているか見えていないかだ。
されども、息を呑んだのは二枚目の方だ。
それは……彼女が浮かべる顔が、あまりにも官能的で、画面越しでも纏う色香が伝わるほどに――火照っていたのだから。
そうして野崎は口にする。
この瞬間、僕が最も望まない言葉を。最も聞きたくなかった言葉を――
「日葵はよぉ、その写真をネタに揺すれば何でも言う事を聞く、俺らの有能な道具だったんだぜ? 三枚目を見てみろよ」
ニタニタと笑いながら、もう一度ガラケーを指す。
震え切った指は意思と正反対に、ボタンを右にクリックしていた。
刹那のうちに重く鋭い後悔が胸に突き刺さる。
僕の両目が捉えたものは、到底言葉にならないものの数々。
(こいつらの性根は、どこまで醜く腐ってるんだ‼)
憤怒は歯を軋ませ、単語帳には爪がめり込む。
「どうだよ? こんな日葵、見たことないだろ?」
……言うな……、
「そりゃそうか。勉強熱心すぎて、幼馴染の涙にも気づけなかったんだっけか?」
……言うな、
「日葵は辛かっただろうよ。なにせ好きな人が自分のことなんて見ないってことを自覚させられる日々だったんだからな」
「言うなああああああああああああ‼」
気づいた頃には手に持つ全てを投げ捨てて、野崎めがけて駆け出していた。
握り込まれた拳は震えが止まらず、怒りと罪悪感が混じり合う。
怒りは内側でドロドロとした赤黒い炎を生み出し、表面でそれを覆わせた。
体が熱くて、熱くて、熱くて、熱くて――
思いのままに内にある全ての感情を乗せ、僕は野崎の顔面を殴り飛ばしていた。
心音がうるさい。汗も酷い。息遣いさえままならない。
されど、後悔なんて微塵もなかった。
「許されると思うなよ……」
殴られた箇所を手で押さえて勢いよく尻餅をつく野崎に、鋭い目つきで狙いをつける。
拳に力を入れ、再び正義の鉄槌を野崎めがけて下す――はずだった。
「――かはッ……‼」
突如として、僕の腹部に鈍い痛みが走る。
それは、よく考えれば当たり前のことで、必然的ともいえる攻撃だったんだ。
「困るなー、こっちは野崎先輩だけじゃなんですよ?」
拳が腹を抉るように押し込まれていた。
数歩下がるも痛みはそう簡単に消えず、猫背で睨みつけるのが精一杯だった。
「……覚悟しろよ、守」
言いながら立ち上がる野崎は、再び歪な笑みを浮かべて、仲間と共に反撃を開始する。
まずは顔面。次に腹部、胸部、頭部。そうして再び顔面へと。
それからの記憶はあまりない。
殴られ蹴られ。僕が床に倒れ込もうとも、それが終わることは無い。
止めどなく。絶え間なく。
痛みは途中から麻痺していき、足が腹に当たっている感触しか分からない。
瞼を開ける力も乏しくなると、目の前は徐々に暗くなる。
意識がなくなる前に物音がしたような気がしたが、その音がどこから聞こえたのか、それが日葵かどうか見極めることは出来なかった。
ごめんな……、日葵。僕が不甲斐ないばかりに。僕の正義に力がないばかりに。
でも、君を傷つけたまま去るわけにはいかないから……。だから。
僕はいくらでも、君が現れるのを待つよ。たとえこの命が果てようとも。君との約束を守るために。
そうしてもし、その時が訪れたのなら、――僕に頭を下げさせて欲しい。
直後、僕の意識は途切れた。
――っは⁈
しかし突然だった。
意識が戻り、寝そべった状態のまま半開きの眼に光が差し込む。
全身の痛みはなかったが、何故だか頭部だけジンジンと響くような痛みが走っていた。
頭を片手で押さえながら上半身をむくっと起こすと、目の前には顔色の優れない女の子がいるじゃないか。僕が元々持っていた記憶の中にいた女の子が。
どうなっているんだ。それに、野崎達はどこに……。
周囲を見渡すと、壁に張り付き、怯え苦しむ生徒が多く見受けられる。
時刻は八時四十分を少し過ぎていた。
そう、か……そうだったのか……。
そうして遂に理解する。自身のことも。この状況も。
「僕は――死んでいたんだ」
窓ガラスに映るのは僕自身。
けれど、暗く深い影を全身に纏っているために、人型ということしか分からない。
内から湧くのは――辛い、悲しい、許せないといった負の感情だけだった。
担任もこの騒動に駆けつける。
そりゃあ、こんなのがいれば避けたくなるよな……。
でも、どこからか声が聞こえた気がしたんだ。
聞き覚えのある、馴染み深い声が。
「ごめんね――守。私の中途半端な覚悟のせいで……」
〇練 雪海 @yukiumi
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