最終話 2020年8月1日 相場に過去はない

緊急事態宣言が終わりを告げ人影が戻ってきた8月の休日、俺と美奈と茂の三人は公園にいた。


「パパー、もっとはやくはやくー」

「もっともっとー」

「もっとまわしてー」


茂はジャングルジムを球状にしたような遊具の中におり、俺にその球体を回転させていた。

恐らくはこの公園で初めて会ったであろう、同年代の子供たちも一緒になって球体の中に入り、俺にもっと早く、もっと早く回せとはやし立てる。

俺は茂の手前で手は抜けないと思い、遊具を両手で掴み全力で外周に沿って走り回し続ける。

ただでさえ重労働なところにマスクをしているものだから直ぐに呼吸が苦しくなる。

だが、それでもそうし続けることが俺の使命であるかのように限界まで動き続ける。

俺が汗だくになって走り続ける目の端に時折、周りの父親や母親の姿が映り込む。

皆笑っているようだ。

笑っているのは子供達の楽しそうな姿に対してか、あるいは駄馬のように汗だくになっている俺に対してか。


熱と脱水症状で倒れる寸前のところで俺は重労働から解放され、ベンチに座る美奈の元へ戻った。


「お疲れ様。

 はい、これ!」


美奈は俺の様子をずっと見ていたのだろう。

俺の労働に対してささやかな報酬、ペットボトルのよく冷えたスポーツドリンクをくれた。

俺はそれを貰うとすぐさまキャップを開け、半分以上飲んでから礼を言った。


「サンキュー。

 命拾いした。」


それを聞いて美奈は笑いながら言う。


大袈裟おおげさね。

 でも、確かに重労働だね。

 私には無理だし。」


俺は再度スポーツドリンクを口にしてから言った。


「ま、これくらいだからな。

 俺が茂に父親らしいことしてやれるのは。」


「ほんと、そう。

 こういう時くらいは頑張ってよね。」


半分は本気で言っているのだろう。

美奈の言葉には棘があった。

そして、しばらく茂の様子を二人で追った後、美奈が聞いた。


「まだ株はやってるの?」


「うん、やってる。」

後ろめたさはあったが、それを表に出さずに俺は即答する。


「そっか。

 男の人って懲りないんだね。

 それともハルが学習しない馬鹿ってだけ?」


茶化すような言い方ではあったが視界の端に見えた美奈の顔は少し寂しそうだった。

そんな顔を見て俺は心臓を一瞬つかまれたような圧迫感を感じた。

そして、『ハル』と美奈に呼ばれたことが久しぶりであることに気付いた。

だが、そんなことには何一つ気付かなかった振りをして、その茶化す言葉に合わせるように返答した。


「そうだなー。

 確かに馬鹿なのかもな。

 あんなに負けたのに止めようって思うことはなかったし。」


不思議なことだが株で大きな含み損を出している時、死にたいとは思ったが株を止めたいと思ったことはなかった。

何故だろうか?

いや、理由はわかっている。

そんなことを考えていると、美奈が鞄の中から緑の紙を取り出しながら言った。


「はい、これ。

 サインと印鑑、押しておいた。

 私の方で役所に出してもよかったんだけど、ハルが言い出したことだからね。

 私がそこまでする義理はないから。

 あとはよろしく。」


俺は緑の紙、離婚届を受け取り自分のリュックサックにしまった。

なんと言おうか迷っていると再び美奈が口を開いた。


「ほんとは迷ってたんだ。

 どっかでやり直せるんじゃないかって。

 でも、みんな反対するんだよね。

 それでも……」


そこまで言って美奈はペットボトルのお茶を一口飲み、続けた。


「もしハルが株を止めたら、もう一度がんばろうって思ってた。

 でも、今日話して私も吹っ切れちゃった。

 なんて言うのかな?

 人種が違う感じ?」


それを聞いて俺は何も言えなくなってしまった。

ただ、美奈を見つめることしかできなかった。

美奈が言った人種が違う、は確かにそうかもしれない。

美奈はきっと株のことを憎んでいるのだろう。

だが、俺には確固とした考えがあった。

俺が株で失敗したのは俺のせいであり、株のせいではない。

借金で失敗してもそれは借金をした人間の失敗であり、金のせいではないのと同じことだ。

それを美奈に説明しても負け犬の遠吠え以外の何物でもないので黙るしかなかっただけだ。


「そろそろ今日は帰るね。

 また、来月。」


美奈はベンチから立ち上がりながらそう言い、俺の方に向き直った。


「私待たないからね。

 今から株止めたって遅いんだから。」


美奈は目に涙を溜めながら、だが笑顔でそう告げた。

その美奈の姿は、俺がかつて愛した美奈そのものだった。


------


「よっ! どうだった?」


渋谷のカフェで席に着くなり、先に到着していた順子が口を開いた。


「いや、どうもこうも……。

 役所の時間外窓口に寄ってから来たよ。」


離婚経験者の順子にはわかる言い回しで俺が離婚をしたことを伝えた。

そうすると順子は嬉しそうに言った。


「ようこそ! こちら側へ。」


「ようこそ、ねぇ。」

そんなに喜ぶようなことかと思いつつコーヒーを口に運ぶ。


「でも、会いに行く前はどうなるかわからないって言ってたじゃない。

 最後の決め手はなんだったの?」

順子は首をかしげながら聞く。


「決め手は俺が株を止めなかったことかな。」

本当にそれだけだな、と思いながら答える。


「そっかー。

 そりゃ仕方ないね。

 そっちの意味でも春雄はこっち側の人間だから。」

うんうんと頷きながら順子は言う。


「こっち側って?」


「なんて言うのかな?

 株の魅力に取りかれた人間のこと?

 『相場に過去はない』って格言知ってる?」


また順子の株蘊蓄うんちく話が始まったと思いつつ首を横に振って答える。


「いや、知らないけど。」


「『相場に過去はない』って言うのはつまり、あの時あの株を買っておけば良かったとか売っておけば良かったって反省しても始まらないって意味。

 まあ単純にはそれだけの意味なんだけれど、深読みすると過去のことを思い返すだけじゃなくて、前向きに相場に向き合うことが大事ってことだね。

 で、私が思うに春雄は負けても相場に向き合い続けられる人間ってこと。」


「なるほどね。

 それでこっち側か。」


順子の言葉を聞いて、確かにそうかもしれないと感じる。

あれだけの大敗をきっしても俺は株式相場に魅了され続けている。

そして、コーヒーを口に運び考える、この順子にも。

あまり適切なタイミングではないとは思ったが、俺は順子に向かって話を切り出す。


「あのさ、順子には迷惑かもしれないけどさ……」


そこまで言って声が詰まる。

コーヒーを口にしたばかりだというのに喉が渇く。

順子はなになに? と言って身を乗り出してきた。


「俺と、付き合ってくれないか。

 その、離婚が成立した当日にこういうこと言うのはあれなんだけど。

 俺にはその……順子が必要なんだ。

 これからもずっと。」


自分で言って恥ずかしくなる。

なんて鈍臭い告白だろう。

高校生でももう少しスマートではないだろうか?

そんなことを考えながら回答を待っていると順子が喋り始めた。


「私が? 春雄と?

 冗談でしょ!

 なんであんたみたいな下手くそで嘘つきで35歳過ぎて離婚されちゃうような男と付き合わなきゃいけないのよ?

 人事にもにらまれてて出世もあやういし。

 そもそもあんたの奥さんに不倫相手と間違われてたのに、それで付き合ったりしたらなに言われるかわかんないでしょ。

 大体、私にメリットある?」


ある程度覚悟はしていたことだが、予想以上にずたずたに言葉のナイフで切り裂かれてしまった。

『35歳過ぎて離婚されちゃうような男』は以前、俺が順子に言った『30歳過ぎて離婚されちゃうような女』に対する意趣返いしゅがえしだろう。

俺は瀕死の重傷を負い、うなだれてしまった。


「でも、今日を起点に株で100万円勝てたら考えてあげてもいいよ。」


その言葉を聞いて顔を上げると、ニヤニヤと笑う順子の顔が飛び込んできた。

俺は内心順子にしてやられたと思ったが、うんうんと頷くしかなかった。


「今日は離婚祝いにご馳走してあげる。

 お店はどうせ早仕舞いだから、私の家で何か作ってあげるよ。」


それを聞いて俺はすかさず言った。

「じゃあさ、俺、カレーがいいな。

 家庭の味に飢えてるんだよね。」


「調子乗るんじゃないの!

 リクエストは株で100万勝ってから。」


俺と順子は席を立ち上がり、駅に向かって一緒に歩き出した。



相場に過去はない。

俺はきっと勝つだろう。

俺はきっと負けるだろう。

だが、恐れることはない。

相場は人生の縮図にしか過ぎないのだから。

ずっと相場に居続けさえいれば必ずチャンスは巡ってくる。

生き続けさえいれば必ずチャンスが巡ってくるように。

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株破滅日記 ロン・イーラン @dragon_1

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