第40話 2020年5月28日 約定③
俺の仕事部屋と心の中で発生した暴風雨が過ぎ去った頃、会議は終わった。
机の上にあった仕事道具は大半が床に落ち、椅子の背もたれからはスポンジが顔を
部屋の中は
少し落ち着いた俺は、床に落ちた本を足で
本来は分別が必要なのだろう。
だが、俺は知るかといった気持ちで全てを可燃物のゴミ袋に放り込んだ。
かけらの一つ、青い陶器のかけらを拾った時、そのかけらが過去の記憶を呼び覚ました。
新婚旅行で行ったフランス、ルーブル美術館のスーベニアショップで購入した青いカバの置物、だった残骸だ。
青いカバはルーブル美術館の展示物で、幸せを呼ぶエジプトの守り神ということらしい。
俺自身はカバの置物などにさほど興味はなかったが、当時の美奈がなぜかお土産としてそのカバのレプリカを買って帰ることを強く主張したのだった。
その幸せを象徴する物体は今や床の上で四散していた。
俺は美奈の顔を思い浮かべ、そしてゴミ袋にカバの肉片を他のゴミと一緒に放り込んだ。
会議の後は
とはいえ、ここ最近は株価ばかりに気を取られていた為、ある意味では普段なりの仕事と言えなくもなかったが。
午後5時半になると俺は直ぐに業務終了メールを送り、酒を飲み始めた。
一昨日、順子の前で醜態を晒してから酒を遠ざけようと思っていたのだが、短い禁止期間となってしまった。
だが、このささくれだった気持ちを鎮める薬が必要だったのだ。
1時間程、焼酎のお湯割を飲み続けると眠気を
ポジションを縮小してから慢性的な寝不足は段々と解消されつつあったが、まだ睡眠が不足しているのだろう。
俺はスマホで目覚ましをセットして主に茂の遊び場として使われていた畳の部屋で横になった。
……
目覚ましが鳴っている。
スマホを手に取りアラームを止め、時間を確認する。
午後9時46分だ。
美奈との約束の時間まで、あと14分しかない。
俺はのっそりと立ち上がりトイレに行き、顔を洗った。
本当はシャワーを浴びて気持ちをリセットしてから話をしたかったが、どうやらそんな時間はなさそうだった。
仕方なく俺はいつもより念入りに顔を何度も何度も洗う。
顔を洗って鏡を見ると今度は髭が気になった。
先日会社に行った朝から剃っていないことに気が付き、電気シェーバーを手に取る。
目立つ部分だけ手短に刈り取り、鼻の下に付着した粉を払う為にもう一度顔を洗った。
ダイニングに移動し、スマホをスタンドに立てかけ時計を見た。
午後9時58分だ。
俺は約束の午後10時まで椅子に座ってスマホの時計だけを見つめ続けた。
午後10時ちょうど、俺はビデオ通話アプリを立ち上げ美奈を呼び出す。
5回程呼び出し音が鳴った後、着信した。
画面に現れた美奈は既に部屋着に着替えており化粧も落としているようだった。
仕事の都合で約束が遅くなったわけではないようだった。
「急にごめん。
今日どうしても話しておきたいことがあって。」
俺は慎重に口火を切った。
「なに? 改まって。」
美奈も心なしか緊張しているように見える。
「実は茂の教育資金の件なんだけれど、直ぐには返せなくなった。」
そこまで言って美奈の反応を伺う。
元々この件が原因で別居しているのだ。
美奈は怒り狂うだろう。
そう思っていたのだが、予想に反して美奈の反応は静かだった。
「そっか、やっぱりね。
私も少しおかしいと思っていたんだ。
周りの人にもそれとなく聞いたんだけれど、保証金がそんなに長い間戻ってこないことなんて無いって。」
美奈の声が少しうわずって聞こえる。
俺は軽く
「ごめん。
嘘ついていた。
株の保証金に使ったことは事実なんだけど、株価が予想した方向に動かなくて保証金を口座から取り出せなくなってしまった。」
スマホの前でテーブルに手をついて頭を下げる。
しばらく頭を下げ続けていると美奈は言った。
「じゃあ……じゃあ、いつ茂のお金は戻ってくるの?」
当然の質問だろう。
そして俺がずっと逃げ続けていた質問だ。
だが、今日は向き合わねばならない。
少しの間を置いて俺は話し始めた。
「保証金自体は損切り、つまり……損失を穴埋めする強制決済で無くなってしまった。
だから直ぐには返せない。」
視線を上げ画面の向こうの美奈を見るが、美奈は俺の顔を凝視しているだけで何も言わない。
ひょっとしたらあまりのことに青ざめ言葉が出ないのだろうか?
スマホの小さい画面越しでは、はっきりとしたことはわからない。
だが、きっと俺の予想は大きくは外れていないだろう。
更に言葉を続ける。
「茂の教育資金についは少し時間がかかるかもしれないけど必ず返す。
これは約束する。」
また、嘘つきの約束だな。
心の中で
だが、それ以外に俺は言葉を見つけられなかった。
そして、俺がこの損切りをしてからの二日間、心の奥底で考えていた決断を美奈に伝えた。
「あと、今回の一連の責任を取って離婚させて欲しい。」
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