天使の笑い声

ねこK・T

天使の笑い声

 彼女は掌の内に蒼を持っていた。いつから持っているのか、それは彼女自身はっきりとは分からない。何故持っているのか、それも知りはしなかった。気付いたときにはそれは既に彼女のもとに在り、降り注ぐ光の中、まるで微笑んでいるかのようにその色をきらめかせたのだ。

 彼女は掌をそっと見下ろすと、唇に笑みを浮かべる。そして蒼を両の手で包み込み、抱きしめた。愛しく。大切で。このままずっと共に在りたい――この色を初めて目にした時から抱いている思いを胸の内で呟きながら、彼女はうっとりと瞳を閉じた。


   * * * * *


 そして今日もまた彼女は指を解いた。掌の内、抱きしめているその蒼を見つめるためだ。人差し指を下ろして。次は中指を――ゆっくりと、一本一本開いてゆく指の合間から段々と現れるその色に、彼女は心を弾ませる。そして抱きしめていた全ての指を開くと、満足気に息を吐いた。

 彼女が飽きもせずにその色を見つめ続けていると、ふるり、視線の先で、白光に照らされた蒼が身を震わせた。あら、どうしたの。彼女がそっと言葉を落とすが、それは何でもないと言うように蒼の色を閃かせる。心配しないで。大丈夫。掌を伝わってくるのは、どれも彼女のことを気遣う言葉だ。

 彼女はしばらく手の内を見つめ続けていたが、何度も繰り返される大丈夫という言葉に、観念したように息をついた。あなたがそう言うのなら、と。そしてようやく笑みを刷く。その彼女の表情に、嬉しそうに蒼は微笑みを返した。

 ――掌の蒼、その奥に微かに淀む闇色。

 先程身震いをした時に見えたそれは、きっと、自分の見間違いに違いない。掌の内側で微笑むそれには見えないように唇を噛むと、彼女は心の中でそう結論付けた。


 ――違う。やっぱり、見間違いなんかじゃない。

 彼女が感じ続けていた違和感が確信へと変わったのは、それから間も無くのことだった。指を解き、彼女がいつものように掌を覗き込むと、そこにはいつもとは明らかに違う色が浮いていたのだ。何度瞬きをしても、底に溶けたように沈んでいる濁りは消えてはくれない。蒼を振ってそれを取り除こうともしてみたが、一時は広がり薄まったものの、またいつしか闇色は凝り、濃い色合いを底に見せ始める。それの繰り返しだ。

 大丈夫、ねえ、大丈夫? 不安を覚えた彼女は何度も蒼に問い掛ける。こんな風にしていては逆に、また手の内のそれに心配されてしまう――彼女はそう思ったが、声は震え、泣き声に似たものとなってしまった。ついにはこらえ切れなくなってしまい、掌の内側へ、一つ、二つ、と雫を落としてしまう。

 泣かないで、大丈夫だから、泣かないで。濁りは一時のものだから。またすぐに元に戻るから。彼女を元気付けようとする蒼の声も耳に届いたが、一度流し始めた涙はもう止まらなかった。愛しんできた手の内のそれが、元のような輝きを取り戻すことはもう無いのかもしれない――そんな恐怖が彼女の胸に芽生えてしまったからだった。


 水気の失った瞳で彼女は掌を見つめていた。力ない瞬きを繰り返すその目には、ぼんやりとした光しか点ってはいない。流しすぎた涙はとうに枯れてしまい、泣き声を挙げすぎた喉は、声を出すことを忘れてしまったようだった。

 彼女の視線の先、手の内にある蒼には闇色が目立つ。だが、既に半分程染まってしまっているその色を取り除く術を彼女は持っていなかった。揺すってみても、小波が濁りを一時散らすだけ。落とす涙で薄めてみようとしても、漆黒に染まっていく早さの方がずっと勝っていた。息を吹きかけてみても色が渦を巻くだけで、静けさを取り戻せばまた元通り、闇色ばかりが占めるそれに戻るだけだった。

 どうすれば良いのだろうか。どうすれば、また、あの元の美しい色を取り戻すことができるのだろうか。彼女はずっと考え続けていたのだが、未だ良い案は浮かんではいない。

 彼女は大きくため息をつき、目を閉じた。涙を失いざらついた瞳は瞼の裏に痛みを与え、彼女は小さく悲鳴を上げる。いたっ。

 ――くすくすくす。あはははは。

 彼女の小さな悲鳴に被さるように響いたのは笑い声だった。彼女は痛む瞼を無理矢理開き、その声の元へと視線を放る。くつくつくつ。いかにも楽しくて仕方がないといったその声は、彼女の掌の内側から発せられたものだ。蒼色のそれ――否、その色の更に内側から声は響いている。

 彼女は鉛か何かを飲み込んだような気分になった。視線の先から響く笑い声を聞く度に、粘つき、自分の全てを絡めとってしまうな何かが、自分の内側で広がってゆく。彼女は一度唇を噛み締めた後、憎々しげに吐き捨てた。

 ――何故、あなた達が、笑っていられるの。

 

 蒼の内側から響くその声は、最近になって頻繁に上がるようになったものだった。蒼色そのものが言っている訳ではなく――蒼がその身の内に抱えている「何か」、それが発しているのだ。

 彼女は声を上げ始めた当初は大して気にも留めていなかった。今までずっと、蒼はその内側に様々なものを抱え続けてきていたからだ。具体的にどういったものを抱えているのかは彼女には見えないし、分からない。だが、掌の内で蒼が嬉しそうに微笑むのだ。こうやって、身の内に沢山のものを育んでいられるのが嬉しい、と。だから彼女も、蒼の抱く何かが笑い声を立てようとも、聞き流すだけでいたのだ。

 しかし、一月に一度、一週間に一度、三日に一度、ついには毎日――と、声の響く回数が急激に増えるにつれて、蒼を蝕む濁りもまた、急激に増えていったのだった。笑い声が一つ響く度――それに呼応するかのごとくまた、どろりと闇が渦を巻き。くるりと巡った闇が蒼を喰らってゆく。

 ずる、ずる、ぐちゃ、ねちゃり――くつくつくつ、あはははは。

 そして彼女は気付いたのだった。

 この笑い声を上げているものが、この闇を生み出す原因であったのだ、と。

 掌の内からは笑い声がなおも止まず、彼女の周りをくるくると巡る。喉の奥に飲み込んだ鉛が熱かった。この声を止めれば、闇も無くなるというのに。その方法が分からない。言葉と思考とはただ巡り沈むだけ、解決法をもたらさないままに彼女の奥へと潜った。


 そしてある時沈み込んだ思考や言葉が、ふつん、と、彼女の奥に広がる粘つきと結びついたのだった。

 一瞬にしてそれらは熱となって燃え上がり、彼女の体を焼いた。駆け巡るのは、痛みにも似た閃き。雷鳴に撃たれたかのような喜びだった。この感情は一体何だろうか。体中を覆い尽くす熱さ、こんな気持ちを抱いたのは初めてだった。

 ああ! 彼女は高く、高く声を上げ、笑い出す。

 久しぶりに上げた笑い声は、水気の無い喉には辛かったが、そんなことも気にならない。彼女は掌の蒼を再び取り戻すための方法をようやく思いついたのだった。

 種を植えましょう。種を。

 彼女はうっとりと瞳を閉じ、頬を掌の蒼へと擦り付けた。視界が闇に閉ざされるが、彼女の瞳の裏にはしっかりと、かつての蒼色が描かれていた。すぐにまた、この色に戻れるのだわ。唇からは笑い声が止まらなかった。

 その尋常でない様子に怯えたのか、手の内で蒼がふるりと微かに身震いをしたのが頬越しに彼女へと伝わった。その様子に、彼女はそっと蒼を掌で撫でる。大丈夫、何も心配しないでいいの――彼女の言葉を信じたのかどうかは分からなかったが、蒼はふつん、とその身動きを止めた。


   * * * * *


 そして今日もまた、彼女の笑い声が踊る。

 刻まれる時と内側から響く声に合わせ、掌の蒼には段々と闇色が広がり、淀み続けていった。そして、今となっては蒼の色は消えうせ、彼女の手の内には濁った球体が残っているだけだ。色を失くし、内から発せられる闇に飲み込まれた蒼から言葉が失われたのは、一体いつのことだったろうか。

 しかし、最早彼女の声が哀しみを帯びることはなかった。むしろ、その声は喜びを含んだ歌声にも似ていて。さあ、早く。早く、芽吹きのときは近いのだから。ああ、種はいつ、花を咲かせるのかしら? ――くるくると風に乗っては解け、まどろみに沈む種たちをそっと揺り動かすのだった。

 津波を秘める大海原に。噴火の胎動を重ねる山脈に。毒に染まる大地に、酸に汚れた雨に。灰に煙った空に、大気に。憎しみの炎、恨みの熱に覆われた彼女は、しなやかな指で蒼をなぞり、一つ、また一つ、と新たな種を植えてゆく。

 


 植えたその破滅の種はいつ芽吹くのか。いつ、蒼の抱く「それら」を焼き尽くし、喰らい尽くすのか。いつ、彼女の掌の内にかつての蒼色が戻ってくるのか。

 早く、早く。彼女は笑いながらその時を待っているのだった。

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