とあるカフェにて

惟風

とあるカフェにて

 週末の昼下がり。カフェのテラス席で機嫌良く雑誌を読んでいると、向かいの椅子に見知らぬ男性がいきなり座ってきた。

 あまりにも自然に着席したものだから、てっきり待ち合わせをしている恋人が来たのだと思って顔を上げて、僕はびっくりした。

「こんにちは。」

 男はハンチング帽を脱ぎながらニコニコと挨拶してくる。

 人間、驚きすぎると声が出ないものなんだなあ、と他人事みたいに考えてしまった。

「え、あの」

「いきなりゴメンね。ここの席が、なんだか良さげだったから。」

 つまらないドッキリか、怪しい勧誘か?無いとは思うがナンパなのか?考えている間に、席を立つタイミングを失っていた。もう僕は、とっくに彼のペースに巻き込まれてしまっていた。

 しかし、不思議と恐怖も嫌悪感も湧かなかった。

「あの、どちら様でしょうか。」

「ああそうか、名前が無いと不便だね。そうだなあ…」

 彼は少し考え込む。

「んーそうだね、クロにしよう。クロ、と呼んでくれ。」

 本名は黒田とか黒川とか、そんなところなのだろうか。それとも飼ってるペットの名前か。

 改めて、クロと名乗った男を観察してみる。

 細身で中背の、成人男性である。年は僕とそんなに変わらない、二十代後半くらいに見える。

 糸目で、鼻筋が通っている顔はイケメンとまでは言えないが、見ようによっては魅力的に感じる。

「あの、クロ…さん。」

 少し進んでいる腕時計をチラリと見て、話しかける。このままここに居座られたら、彼女が来た時にびっくりするだろう。もうすぐ時間だし、どうしたものか。

「呼び捨てで良いよ。それ、カッコイイ時計してるね。デジタルも良いけどやっぱアナログだよねえ。あ、すいませんミルクティーください。ホットで。」

「え、ちょっと」

 適当なことを言いながら勝手に注文までしてしまった。

「僕、人と待ち合わせしてるんです。だから」

「うん、知ってるよ。大丈夫。」

 最後まで言わせてほしい。そして当たり前のように言ったけど、知ってるって。

 やっぱりドッキリなんだろうか。まさか彼女が?いや、そんなことをするような人じゃないはずだ。なら、誰が?


 クロは上着を脱いですっかり寛ぎ、帽子をくるくると回して遊んでいる。上機嫌である。

「大丈夫じゃないでしょう、何でそんなこと知ってるんですか?何が目的でここにいるんですか?」

 今度は遮られずに言えた。

「最近さ、どうも調子悪くてねえ。まあちょっとした気まぐれだよ。最後の。」

 言えたところで、まともな答えは返ってこないんだな。そんな気はしてたよ。

「何の気まぐれか知らないけど、調子悪いなら早く帰ったら良いじゃないですか。」

 顔色が悪いようには見えなかったが、とにかく早くどこかに行ってほしかった。もう一度、左手の時計を確認する。

 こんなわけのわからない奴に邪魔をされるのは御免だ。久しぶりにできた彼女との、二回目のデートなのに。僕の向かいに座るべきなのは、彼女であってお前ではない。

「まあまあ、もう少しだけ、ね。ほら、彼女さん来たみたいだよ。」

「え?あ、エリ!」

 慌てて振り向くと、いつの間にか恋人のエリが立っていた。

「…コウ君ごめんねお待たせ…。あの、こちらの方は…?」

 彼女が驚きと不信感が混ざった微妙な表情で僕に尋ねてくるのも無理はない。こっちが聞きたいくらいだ。

 陽気な不審者だよと僕が返答するより前に、店員がミルクティーを運んできた。邪魔にならないように、エリには取り敢えず僕の隣の椅子に座ってもらう。

 落ち着いてニコニコしているのはクロだけだった。呑気に受け取ったカップに砂糖を入れている。エリに席を譲ってほしかったけど、動く気はなさそうだ。

 それなら、待ち合わせのためにここにいただけだし、もう彼女と店を出てしまおう。外までついて来ないと良いけど。僕は伝票を掴んで自分の上着を引き寄せた。ミルクティーの会計は絶対に絶対に別にしてもらおうと決意して。

 エリのスマホが振動する。

「ごめん、仕事のメールだった。ちょっと電話かけ」

「あー、ちょっと待って。すいません、店員さーん」

 クロは、立ち上がりかけた彼女を手で制して、近くのテーブルを片付けていた店員を呼びつける。

「こちらの方の注文を聞いてもらっても良いですか?」

 エリを示す。はい、と店員が来て愛想良く彼女に向き直る。

「え?あ、注文は…えっと」

 後で、と続けようとしたのだと思う。

 僕は、いい加減にしろよ、とクロに食って掛かろうとした。

 だが、エリが言い終わる前に。

 僕が怒る前に。


 僕達がいるテラス席の隣のテーブルに、乗用車が猛スピードで突っ込んできた。


 建物に激突する音


 悲鳴


 煙


 思い返そうとすると、スローモーションのように再生される、一瞬の破壊。


 すぐにはその場から動けず声も出せないのは、僕もエリも店員も同じだった。

 誰かが通報したサイレンの音が聞こえる頃には、現場は騒然となっていた。

 救急車が到着するまで、僕はパニックで泣いているエリをただ抱き締めていた。注文を取りにきていた店員さんも腰を抜かしており、他の同僚らしき人が背中をさすっていた。


 先程まで散々どこかに行ってほしいと願っていたクロの姿は、いつの間にか忽然と消えていた。


 後で知ったことだが、よくある、アクセルとブレーキの踏み間違いによる暴走車だったそうだ。

 幸いぶつかった先には空席のテーブルしかなかったため死者はおらず、怪我人も僕達が軽症を負ったくらいで済んだ。運転手も無事らしい。


 エリは、ショックのせいか貧血を起こしてしまい点滴を受けることになった。

 僕は救急隊員に指摘されるまで、左手から血を流していることに気がつかなかった。


 病院で手当てを受けながら、ぼんやり考える。

 あの時、エリが電話をかけるために向かおうとした方角。クロが呼びつけた店員が、片付けをしていたテーブル。

 もしクロがエリを止めず、店員も呼ばなければ。

 暴走車は、二人に直撃していただろう。

 紙でできているかのようにひしゃげていた椅子やテーブルを思い出して、身体が震えた。


 治療が終わり、僕の左手には包帯が巻かれていた。エリの点滴はもう少しかかるそうだ。飲み物を買ってくるね、と声をかけてから待合室横の自販機コーナーに来た。

 缶コーヒーにしようと思っていたが、ミルクティーのペットボトルを見つけて何気なくボタンを押す。近くの椅子に腰をおろす。辺りには誰もおらず、しんとしている。


 ペットボトルを開けながら、ハンチング帽を被った、マイペースすぎる糸目の男のことを思い浮かべる。

 一口飲む。冷たくて、とろりとして、甘い。

 ポケットから、壊れた腕時計を出してしばらく眺める。文字盤の中央に何かの破片がぶつかってしまったようで、粉々に割れていた。修理は無理なんじゃないだろうか。

 前から調子が悪かったんだよな。電池入れ換えたばっかなのに、すぐに時刻表示がずれてきて。安物だからかな。でも、気に入ってたんだ。

「…なんだよ、『クロ』って。安直にもほどがあるだろ。」

 無意識に、独り言が口をついて出る。


 聞こえたのだ。事故の瞬間。

 クロの声で、

「間に合った」と。

 テーブルを挟んだ向かい側に座っていたはずなのに、自分のすぐ左から。


「進んでたから、未来がわかってたってのかよ。何だよそれ。」

 笑ったつもりが、泣いていた。

 鼻水まで出て来てぐしゃぐしゃな顔を、右手で覆った。

「…ありがとう。」

 膝に置いた黒い腕時計に、涙がぽとりぽとりと落ちた。


 ーまあちょっとした気まぐれだよ。

 ー最後の。


 ハンチングを被った男が、帽子を脱いで会釈したような気がした。

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とあるカフェにて 惟風 @ifuw

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