サヨナラ、小さな罪

新巻へもん

晩夏の夜の悪夢

「あづい」

 もうすぐ日付が変わろうという時間なのにもわっとした空気が体にまとわりつく。もう9月だぜ。疲れた足で階段を登り切り、地上に出た俺は心の底からげんなりした。家まで7分の灼熱地獄。


 人通りの少なくなった道をゆっくりと歩く。早く家に帰って寝たいが、これ以上スピードを上げるのは命に関わるような気がする。地下鉄の冷房で引っ込んでいた汗が再び滲みだし、体にワイシャツを張り付かせた。交差点を曲がって、自宅のアパートが目に入る。一番端の301に明かりは点いていなかった。


 小夜はまだ帰っていないのか。ということは、じりじりと西日で熱せられて、熱々の空気が満ちた部屋に入らなくてはいけないということだ。エアコンで快適になった部屋に帰れることを期待していた俺は、部屋から漏れ出る熱気を想像して、さらにうんざりする。そこへメッセージが着信。

「いま駅着いた」


 半分ゆであがった頭に天啓が閃く。まてよ。ということは小夜が家に居ないということじゃないか。当たり前の事実に気が付き、俄然元気になった俺は煌々と明かりがついたコンビニエンスストアに入って行く。自動ドアが開いて冷気に包まれた。はあ、天国。いやいや、ここでのんびりしている場合じゃない。重要なミッションが発生したのだ。


 小夜が帰ってくる前にスーパーデラックスチョコミントアイスを独り占めしなくてはならない。同棲をはじめて3か月の小夜と俺との相性はばっちりだが、1点だけ相いれないところがある。小夜は食べ物をシェアしたがるが、俺は自分のものは全部自分だけで食べたい。


 冷凍ケースに鎮座するチョコミントアイスを手にレジに向かい会計を済ませる。覚悟を決めて自動ドアを出てから猛然とダッシュした。夜遅いので階段は静かに登って家の玄関にたどり着くまでが50秒。鍵を取り出し、ドアを開けて、リモコンをひっつかみエアコンをオン。手洗いとうがいを済ませて、スプーンを用意して着座。準備完了だ。


 紙製のふたをはがして、ちょっと表面が溶けかかったアイスにスプーンを突っ込んで口に運ぶ。冷たさと清涼感とチョコのパリパリ。うまい。生きててよかった。じーん。目じりの涙を人差し指で拭うと次々とスプーンで口に運ぶ。いつもなら半分のラインで止めなくてはならない。しかし、今日は違う。全部食ってやるのだ。


 アイスが喉を滑り落ちて行き、腹が少しだけ冷たくなる。こうなると家の中の熱気もむしろアイスを旨くするためのスパイスだ。ゆっくり味わいたいがタイムリミットが迫っていた。最後のひと匙を口に放り込むと流しでカップとふたを洗い、水けを拭き取って、仕事用のかばんにしまう。明日会社で捨てよう。スプーンも同様に食器棚にしまった。さらに消臭剤を噴霧する。


 1か月前にうっかり食べた後の空き容器をゴミ箱に入れ、小夜にバレてひどい目にあった教訓だ。バイバイ、俺の悪事の証拠物件よ。そのタイミングで、カギが差し込まれる音がする。おっと、あぶねえ。ギリギリでミッションを完了した俺は達成感に浸りながら、小夜を出迎える。


「おかえり」

「ただいま。ああ。ちょっとだけ涼しい」

 小夜はショルダーバックを投げ捨てるとブラウスのボタンを外して、合わせをつかむとパタパタする。なかなかに大胆な姿だ。


 人心地ついた小夜が、俺の顔をみて、ん? という表情をする。目を細めるとにやっと笑った。

「ねえ。悠斗」

「なに?」


「一人でこっそり食べるチョコミントアイスは美味しかった?」

「!」

 俺はすばやく行動を振り返る。すべての証拠は隠滅したはずだ。俺はとぼけることにする。


「何言ってんだよ」

「私が帰ってくるの分かってたのに、残しておいてくれなかったんだ。ふうううん」

 俺は平静を装う。小夜はびしっと右手の人差し指で俺を差した。

「口の端に青いものがついてる」

 しまったあああ。敗北を認めた俺は全面降伏をする。


「すいません……」

「アイス買ってきて」

「い、今から?」

「文句ある?」

「ありません」


 ようやく、本格的に涼しさを感じられるようになってきた楽園から追放された俺は、とぼとぼとコンビニに向かうのだった。

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