視線
柚緒駆
視線
伝線したパンストは捨てない。テレビやパソコンの埃取りに使えるし、掃除機のノズルにかぶせれば家具の隙間に落ちた小物を取るときに便利だ。それに、いろんな物が磨ける。革靴、指輪、そして泥団子。
暑い。9月だというのに真夏の暑さが続く。木枠の窓の磨りガラスの向こう側には、同じような色の空があるはずだ。遠雷が聞こえる。午後からは雨が降る予報。窓枠に動く小さな影。どこから紛れ込んだのか、蝿が一匹。
やれ打つな蝿が手をする足をする
一茶が詠んだ通りだ。まるで命乞いをするかのように、しきりに前脚をこすっている。殺しはしないよ。こんなクソ暑い狭い部屋で殺虫剤まで撒きたくはない。面倒なのは嫌いなのだ。そう、嫌いなのに。
両手にはめたパンストで、真っ黒い泥団子をこする。アパートの部屋の中、汗をかきながらゴシゴシと磨く。この姿を他人が見れば、蝿のようだと思うかも知れない。事実、私は蝿のようなものだったのだけれど。彼の中では。
あの目がまだ笑っているような気がする。いつも微笑みを絶やさない、でもゾッとするほど冷たい目。それでも見ていて欲しかった。私だけを見ていて欲しかった。だから仕方ない。こうなったのもやむを得ない。
磨き上がった泥団子が二つ。机に置くと部屋の傾きのために転がってしまうから、クッションを机に置いて、その上に鎮座ましましていただく。 これから毎日磨こう。いずれ宝石のようにピカピカに輝くだろう。
手にはめたパンストを外し、首にかけたタオルで汗を拭った。本当に暑い。要らない物は腐る前に片付けてしまわなければ。
「そこで見ていてね」
私は二つの泥団子にそう言うと、包丁とノコギリを手に風呂場へと向かった。
視線 柚緒駆 @yuzuo
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