めざめ(3)

 帰宅すると、柚子は部屋着に着替え、髪の毛を低い位置で一つに結んで夕食を作った。心ここにあらずといった様子で野菜を炒める。自分が何を考えているのか、自分でもよく分からなかった。信じられない。ありえない。……だけど……。

「……はあ」

 柚子は小さく溜息をついた。ぼんやりと考えながら料理をしていると、玄関の扉が開く音が聞こえてきた。母親が仕事から帰ってきたようだ。

「……おかえりー」

 柚子は母親に向かって声をかけながら心に決めた。やっぱり信じないことにしよう。

 女手一つで育ててくれた母親にはとても感謝している。父親は柚子が生まれてすぐに病気で死んでしまった。親戚はもう一人もこの世に残っていない。

 環境にはあまり恵まれていなかったかもしれないが、生活に不満を感じたことは一度もなかった。母親や親友たちと毎日を平穏に暮らせるだけで十分幸せだった。このまま今まで通りの日常を続けていたかった。

「ただいまー。お、いい匂い。カレーだ」

 そう言ってキッチンまでやってきた母親は、柚子の顔を見ると心配そうに声を上げた。

「……何かあった? 大丈夫?」

「なんもないよ。うん」

 柚子はそう言って笑った。母親には絶対に心配をかけたくなかった。

「もうできるよ」

「分かった。いつもありがとね」

「どーいたしまして」

 柚子は軽い口調で返しながら白米とカレーを皿によそった。それから、先に作り終えていたサラダを冷蔵庫から取り出し、二枚の小皿と共にテーブルに置く。母親が手を洗って着替えて戻ってきたところで、二人は小さなリビングでカレーライスを食べ始めた。

「そういえば、朝は大丈夫だったの? 間に合った?」

「え? ああ、大丈夫だった」

 母親の言葉に、柚子は笑顔で返した。正直、今日会ったことはすべて忘れたかった。

「それならよかったけど。でも朝ご飯はちゃんと食べた方がいいよ」

「分かってるよー。明日からは気をつけるって」

 柚子がそう言うと、母親と目が合った。その瞬間、柚子は思わず口を開いていた。

「……ねえ、お母さん」

「ん?」

 母親がなあに、と首を傾げる。柚子はハッとした。

「ううん、やっぱなんでもない」

「えー、何? 気になるんだけど」

「ごめんって。別に大した話じゃないよ」

 そう言ってサラダを頬張った時、ベランダのガラスが割れる音がした。二人がベランダの方を見る。大きく割れたガラスから獣のようなものが素早く中へと入りこんでくる。母親が悲鳴を上げた。あの時どこかへと消えていったもう一匹の雄の鼬だ! 柚子はそう気付いたが、驚いて声も出せなかった。鼬の姿が前見たものと変わっていたのだ。前脚が大きく変形しており、関節の先から鎌のように長く折れ曲がった刃が伸びている。柚子が固まっていると、母親が立ち上がった。

「姫君!」

 鎌鼬は鎌を引っこめ、放課後に見た時と同じ大きな鼬の姿に戻って真っ直ぐ柚子の元へとやってきて、縋るように声を上げた。

「姫君。先程はとんだご無礼を……兄と姉のことはどうかお気になさらず……大変失礼いたしました。ですがもうご心配は不要です。今こそ私めたちの元へおいでください。共に白面金毛様を蘇らせ、妖の世を築いていきましょう……どうか!」

「また……? もうやめてよ! 来ないでよ!」

 柚子は顔を青くして、鎌鼬を振り切ろうと腕を動かしながら叫んだ。すると、母親が柚子たちの方へ駆け寄ってきて化け物の体を掴んだ。

「ゆ……柚子から離れなさい! 離れろ!」

 その声を聞いた鎌鼬は母親の方を向いた。まるで今までまったく彼女の姿が目に入っておらず、ようやくその存在に気付いたかのように驚いた表情で母親を凝視している。

「誰だ? 貴様……」

 鎌鼬の声は、地獄から聞こえたのかと思うほど低かった。それから、鎌鼬は柚子から離れて母親に飛びかかった。

「キャッ」

 柚子は反動でその場に尻餅をついた。立ち上がり、急いで鎌鼬を追いかける。母親の体の上に乗る忌々しい化け物を無理矢理引き剥がしてベランダの外に向かって思いきり投げつけると、あることを思い出して部屋まで走った。スマートフォンを手に取り、鞄の中から財布を取り出す。名刺だ。群治郎に貰った名刺に、電話番号が書いてあったはず! 名刺を見つけると、柚子は大慌てで番号を打ってコールボタンをタップした。早く出て、早く出て、早く出て!

「もしもし」

 柚子は声が聞こえるや否や叫んだ。

「助けて! 柚子です! 助けて! 早く! 家に鼬が!」

 電話の相手は、状況をすぐに把握したらしい。

「柚子ちゃん、難しいかもしれないけど落ち着いてね。住所を教えて」

「住所? 新陽区東――」

 震える声で答えていると、母親の叫び声が聞こえてきた。柚子はその瞬間スマートフォンを放り投げていた。

「お母さん!」

 外に放り出したはずの鎌鼬がいつの間に戻ってきている。再び大きな鎌を出して、恐怖に身を縮こまらせている母親に馬乗りになっていた。鎌鼬の下にいる母親と目が合った。

 いや、おかしい。目が合わない。目の焦点が合っていない。身を縮ませているわけでもなかった。切り刻まれて歪な体に重なっているのだ。床には真っ赤な水溜りが出来ている……。

「……え?」

 何が起こったのかよく分からなかった。鎌鼬の刃が、大量の血で濡れて鈍く輝いているのが見える……。

「お……お母さん……?」

 柚子は両手で頬を覆い、掠れた声で囁いた。

「あなた様の母君はこのように脆く下等な人間などではございません」

 鎌鼬が刃をしまい、前脚を元の形に戻しながら振り向いた。

「白面金毛九尾の狐様でございますよ!」

 鎌鼬は誇り高く叫んだが、柚子の顔を見て急に押し黙った。柚子は鎌鼬を睨みつけた。その目には悲しい怒りが満ちており、激しく血走っていた。

 今、こいつ、何をした? なんて言った? 人の母親をバラバラにして、侮辱してきた。許さない。許さない。許さない。殺してやる!

 全身の血がどくどくと波打ち、体中を駆け巡る。

 そこに柚子はいなかった。白面金毛九尾の狐の娘が立っていた。

 力を解き放った娘を見て鎌鼬は顔を綻ばせたが、すぐさま異変に気付いた。白面金毛の娘の感情のない冷たい瞳は、射貫くようにして真っ直ぐに鎌鼬に向けられている。それが何を意味するのか、彼は知っているようだった。

「お、おおおおやめください姫君! 申し訳ございませんでした! お許しください! お許しください! お許しください!」

 鎌鼬は叫んで懇願した。白面金毛の娘は何も言わずに鎌鼬の元へゆっくりと歩いていく。鎌鼬は逃げ出した。

「姫君、どうか、どうか、どうかおやめください! お許しを、お許しを、おゆ――」

 白面金毛の娘の美しい尾が一本、凄まじい速さで伸びて鎌鼬を素早く裂いた。断末魔もないまま、鎌鼬の体はその場にバサバサと落ちた。白面金毛の娘は何も言わずに鎌鼬の死体を見下ろしてくるりと踵を返し、そして、意識を失った。



 気がつくと、柚子は血まみれになった母親の死体を抱いて泣いていた。玄関の向こうから声が聞こえてくる。陰陽師たちのようだ。やがて乱暴な音がしたかと思えば、玄関の扉が無理矢理開けられ、慌ただしく陰陽師が中に入ってきた。柚子は後ろを振り向かなかった。自分が殺した鎌鼬の死体を見たくなかったからだ。

「柚子ちゃん……」

 群治郎らしき声が聞こえる。その隣にも気配を感じる。あきらだろうか。

 柚子は声を上げて泣いていた。涙で何も見えない。何も考えたくない。

 やはり、姿を変えた時の記憶はない。でも、もう分かっていた。私は妖怪。私は化け物。私は白面金毛九尾の狐の娘。でも、それでも妖怪が許せなかった。

「……柚子くん」

 太郎の声が聞こえる。彼もここに来ていたらしい。

「君はこれからどうしたい?」

 太郎の声は静かだった。母親の亡骸を抱きしめたまま、柚子は震える口を開いた。

「……陰陽師になったら、妖怪みんな殺せますか?」

「正直言うとキリがないと思うけど……でも君が望むなら、いくらでも」

 太郎がまるで歌うように答える。ならば、選ぶべき道は一つしかない。

「じゃあ……私……陰陽師になります」

 柚子は喉の奥から声を絞り出した。泣きすぎたせいで声は枯れ、囁くような声しか出ない。だが、太郎には届いていたようだった。

「それが君の答えだね?」

 太郎が言う。振り向かなくとも分かる。彼はきっと、嬉しそうな笑みを浮かべているのだろう。

 だが、そんなことはどうでもいい。たった一人の家族を失った今、そうすることでしか自分に生きる意味はないと思った。陰陽師になって、この世の妖怪みんなぶっ殺してやる。柚子は涙でぐちゃぐちゃになった顔で頷いた。

「はい」

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柚子の狐 枦豊イロ @en_a_de_le

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