それでも私は彼女が嫌いだ ―救命ボートー

「救命ボート?何の話や?」


 琥珀は不思議そうな顔をした。私は意地の悪い笑顔を浮かべたまま言った。


「思考実験の1つですよ」


 琥珀は“思考実験”?というような顔をしていたが、私はかまわず続けた。


「あなたは海難事故にあいましたが、無事救助され救命ボートに乗ることが出来ました。そこでは、温かいスープも配られ、救助された人間には笑顔が見えます。しかし、あなたは一つのことに気が付きました。あなたの乗るボートから200mほど離れた場所でおぼれている人間がいることに。あなたが、救命ボートのキャプテンにそのことを伝え、助けようというと、彼は言いました。『なんでわざわざリスクを冒してまで助ける必要がある?私はこの居心地のいい空間を壊したくないし、他の救助者もそれを望んでいるだろう。なぁに、例え彼が死んだとしても私たちが殺したわけじゃない。彼は一人で溺れて、一人で死んでいくだけさ。さぁ、クッキーでも食べるかい?』。さて琥珀さんあなたはこの話を聞いてどう思いますか?」


 私の話を聞いた琥珀は心底むかついたといった様子であった。


「ひどい話やなぁ、ウチだったらすぐに助けに行くわ!なぁに悠長に菓子なんか食っとんねん」


「……そういう反応なんですね。ちなみに琥珀さんは外にいた時ボランティアとかしてたりしましたか?」


「ん?どうしたんや急に。ボランティアかぁ、したことないなぁ。周りもしてる人おらんかったし」


 その答えに私は意地悪く笑った。


「実はこの話の登場人物である救助者と溺れている人はあるものの比喩表現なんです。何の比喩表現だかわかりますか?」


 琥珀は眉間にしわを寄せて数分考え込んだが、結局その口から回答が発せられることはなかった。


「んぁー、わっからん!答えはなんなん?」


「この話に出てくる登場人物は先進国と発展途上国を表しているんです」


 琥珀はそこまで言ってもなんのことだか理解できなかったようで、きょとんとしていた。


「つまりですね、救命ボートでぬくぬくしている人々は富める者たち、つまりは先進国を表しているんです。そして、溺れて苦しんでいる人は貧しい発展途上国を表しているんです」


「はぇー、翠はすごいなぁ。よくそんなこと知っとるなぁ」

 

 琥珀はその大きい瞳を、いっそう見開いて驚いているようであった。

 

「……それにしても、琥珀さんは偽善者なんですね」


 その言葉を言った瞬間に、私は後悔した。これは言わなくてもいい言葉であった、少なくとも目の前の自称姉とは、これから少なくない時を共に過ごすことになるだろう。それなのに、喧嘩を吹っ掛けるような言葉をついつい吐いてしまった。けれども、吐いた唾は呑み込めない。


「偽善者?どういうこっちゃ?」


琥珀は偽善者と言われて気分を害したのか、少しむっとした様子になった。


「あのっ、えとっ……」


 私の脳内ではすらすらとこの琥珀を論破する筋道はたっていた。しかし、私の口からは、私の意志に反してまともな形の言葉が出てくることはなかった。耳が、顔が熱くなるのが分かる、琥珀の顔を直視できない。自分から嫌味を吹っ掛けておいてこの様だ、情けなさ過ぎる。


「あぁ、いや怒っとるわけちゃうんよ。ただ気になっただけなんよ」


 琥珀は明らかに気を使った様子でそう言った、先ほど見せた苛立ちもその表情には見る影もない。先ほどの彼女の子供のような態度とはうって変わった大人な対応に、私はひどく惨めな気持ちになった。


 私は今、この場所から逃げ出したくてたまらなくなった。しかし、私の世界のすべてともいえるこの狭い空間に逃げ道などなく、ガラス越しに立つ琥珀という少女から逃げるすべを私は持っていなかった。


 従って、私には目の前の少女——琥珀の問いに答える以外の選択肢はなかった。


「あの……ですね、先ほどの話に出てくる“救助された人間”は先進国、“溺れている人間”は発展途上国、というより貧しい国の人々の比喩っていう話はしましたよね。それで、ボートの上から、つまり安全圏から“可哀そう”とだけ言って、ボランティアも何もせずにしているのは、なんというか――」


「偽善者っちゅうことか」


 言葉に詰まった私の代わりに、琥珀が言葉を紡いだ。


「まぁ、翠の言いたいことは何となくわかったわ。けど、私はちょっと違う気はするけどなぁ」


「違い……ますか?」


「あ、いや、偽善者って部分は確かにそうかもなぁとは思ったけどな、ボランティアとかしたことあらへんし。ただな、やっぱり目の前で起こっていることと、何百キロ先で起こっていてただ情報だけしか知らんってのとはやっぱり何というか、現実味が違うんと思うんよ。目の前で泣いてる子がおったら当然助けるけどな、手の届かんところで泣いてる子がおってもウチには何もできひんからな。そういう意味だと、さっきの話って助けようと思えば助けられるわけやん?だったら、先進国と発展途上国って例えはなんか微妙に合ってない気がするんよなぁ」


 あぁ、いやだなぁと私は思う。私は心の中で、目の前の少女を見下していた。病に侵されていて現実を見ていない彼女を愚かしいと思っていた。しかし、彼女は私が本で知って――いや、知った気になっていたことに関して平気で反論してくる。私なんかよりもよっぽど現実が見えている、いや見ようとしている、そんなちっぽけな事実を私は受け入れたくなかった。


 そんな私の気持ちになど気が付かない様子で、琥珀は私に微笑みかけてきた。


「それにしても、翠とは楽しくやっていけそうで安心したで。実はどんな子なんやろなぁって不安に思ってたんや。明日からもまた楽しい話しような!」


「え?は……、え?」


 琥珀が先ほどまでのやり取りのどこに楽しさを感じたのかさっぽり理解できなかった。何かの嫌味かとも思ったが、琥珀の表情にはとてもそんな裏があるようには思えなかった。


 そんな時、ザザッというノイズ音と共に、天井のスピーカーから聞きなれた声が流れてきた。


「さて、今日はもういい時間だし、寝る準備をしなさい」


 小鳥遊ゆうきはそれだけ言うと、一方的にスピーカーを切った。そして、それと同時に目の前のガラスが曇りガラスに切り替わり、琥珀の姿をとらえることが出来なくなり、彼女の声も聞こえなくなった。


 私は寝る支度を済ませると、ベッドにバタンと倒れ込んだ。比喩表現なしに人生で一番疲れたかもしれない。今のこの静寂に満ちた空間が何よりも落ち着く。

 

 私はちらりと、曇りガラスをみた。平穏で山も谷も何もなく終わるはずの人生にほんの少しだけできた起伏。それを私は嫌っているのかそれとも喜ばしく思っているかは分からなかった。ただ一つ、はっきりと言えることは、私はあの自称姉のことが嫌いだという、ただそれだけだった。

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籠の鳥は大空の夢を見るか? 一字句 @ichiji-ikku

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