第8話 インド
わたしたちは、ビルの入り口で厳重なセキュリティチェックを受けていた。商談のために持ち込む資材の詳細なリストとパスポートのコピーはすでに何日も前に届けてある。
訪ねたのは、ウクライナの政府機関のひとつ、「ウクライナ投資イノベーション庁」である。
2005年に設立されたまだ新しい行政機関で、ウクライナ経済への投資を呼び込んだり、技術革新を進めたりするための政策立案を担当している。その活動内容は内閣によって定められ、経済担当大臣が管轄するという。
外国の企業がウクライナの農地を次々と借り集めていることを、この国の政府はどのように受け止めているのか。わたしたちも農地獲得に乗り出す前にまずは、この点を確認したいと思っていた。
応接室に通されてまもなく、仕立てのよさそうな紺色のスーツに身を包んだ紳士が現れた。
ウクライナ投資イノベーション庁の長官だった。精悍な顔つきをした若手で日本とは根本的に政治を担う年齢層が違うと感じた。
優し気な表情を崩さない育ちのよさそうな印象の人物だった。
ウクライナの農地に多くの外国企業が進出していることをどう思うか、まずは率直な質問をぶつけてみた。
「それは当然のことではないでしょうか」
意外なほど、あっさりとした答えが返ってきた。
「この国は巨大な資源を持っています。この資源が求められているのです。ウクライナ政府は、外国の投資家たちがこの国で活動し、それがこの国の経済への投資促進や技術の革新につながることをいつでも歓迎しています」
わたしとしては、環境問題にまで発展したランドラッシュに対して「外国企業がこの国の領土を侵すなんてとんでもない、なんらかの規制を考えている」というような答えが返ってくるのではないか、とも考えていたからだ。
土地というのは代々受け継がれるものであり、個人の視点からは簡単には手放せない財産であり、国という視点から言えば侵害されてはならない領土であるこのように漠然と感じていたのは、わたしが日本人だからであろうか。
この国の政府は、外国企業の農地への進出を拒否せず、むしろ積極的に受け入れていこうとしていた。投資イノベーション庁は、そのために日本だけではなく、ヨーロッパやアジアの国々をまわり、ウクライナへの投資を呼びかける取り組みを続けている。
2008年9月のリーマン・ショックをきっかけに広がった世界同時不況は、ウクライナの経済に大きな打撃を与えた。この年、ウクライナの株式市場は七四%も下落。特に旧ソ連時代からの基幹産業である鉄鋼や化学の分野が大きな影響を受けた。
経済危機で輸出量が激減、鉄鋼業では前年と比べて生産量が半減し、半分近い高炉が停止する状態だったという。ここからようやく脱却しようとしているなかで当然の取り組みだったのかもしれない。
しかし、エネルギーの分野での混乱も抱えている。ウクライナは天然ガスや石油などエネルギーの確保を隣国ロシアに全面的に頼ってきた。そのロシアが天然ガスの価格を従来の二倍に引き上げたことで、ウクライナ経済はさらに打撃を受けたのだ。
国家財政は破綻の危機に陥り、IMF(国際通貨基金)から百六十四億ドルの融資を受け、立て直しを計ろうと苦戦を続けている状況だ。
経済を活性化し立て直すには投資が必要だが、今のウクライナ国内にその余裕はない。外国から多額の投資を得られるのであれば、ウクライナ経済にとって願ってもないことで、この国の肥沃な農地を虎視眈々と狙う外国企業にとっては、今、その進出を政府からも歓迎されるという圧倒的な追い風が吹き続けているというわけなのだ。
ウクライナ政府は、2009年1月に自国の農業へ海外から投資を呼び込むためにウクライナ投資イノベーション庁を中心とした訪問団がある国を訪れた。経済成長著しい大国インドであった。
訪問したのは北部のパンジャブ州。インドの中でも有数の穀倉地帯だ。ウクライナの訪問団のメンバーはその目的を次のように語ったそうだ。
「わたしたちはインドの農業の潜在力を調査するためにやってきました。そして、インドの農民や投資家を招くためです。彼らはウクライナの肥沃な土地で農業をすることに興味を持ってくれています。ウクライナに最大限の投資を呼び込みたいと考えています」
インドは、この時点では食料をほぼ自給していたし、国土が広く農業地帯も多い。井戸を使って地下水をくみ上げて農業用水に利用したり、化学肥料を使用したりといった農業の近代化も進め生産性を高めてきた。
しかし、将来的には決して安心できる状況ではなかったのだ。インドの人口は現在、約十三億人を超え、2026年には十四億七千万人を超え、中国をぬいて世界一位の人口大国にのしあがる見込みだ。
永続的に食料を自給できる保証はない。ウクライナ側にしてみれば、近年の急速な経済発展で高い投資能力が見込まれ、食料増産の必要に迫られているインドは、投資を呼びかける相手としてうってつけだったのだ。
訪問団は、数日に渡ってインド・パンジャブ州に滞在、農業経営者や農業大学を訪問したり、市場を視察したりした。そして、記者会見を開きウクライナへの投資を呼びかけた。
世界有数の肥沃な大地をめぐる世界各国の農地争奪戦は、世界経済の情勢や政府の思惑をも巻き込みながら、さらに加速しようとしていた。
極東奪還闘争 又吉秋香 @akika_m
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