四十八

 潮が引くのを待って、三人は、砂州をつたい、江ノ島へ渡った。

 賑やかな参道が、ずっと奥まで、上っている。

「千春さん、だいじょぶかい」

「あたしは、脚が強いのです」

 安斎先生は、ずんずんと先へ行っている。

「せんせい、ちょっと待ってくんねえかな」

 政次のせりふは、ほとんど、泣き言。

 品川の宿を出て、もう十里ばかり、歩き通しだ。

 いや、政次はもっと、歩けるのである。

 安斎先生を追い越すことだってできる。

 それより、この参道を、ゆっくりと味わいたいのだ。


 あの後、由兵衛とおし津の名で、療養所に、手紙が届いた。

 宛名には、千石安斎先生だけでなく、気付にて、政次の名前も、あった。

 ところが、政次に小判を置いていったときの手紙は、ずいぶんと読みやすい字だったが、この度の手紙は、まさに達筆というのか、悔しいながら、政次には読めない文字だった。

 安斎先生が、講釈してくれた――。


  夏の候を、みなさまにおかれましては、つつがなくお過ごしでしょうか。

  わたくし由兵衛と、し津は、いま、江ノ島の参道にて、

  ささやかな煮売りの屋台を持ち、生計たつきを得ております。

  聞きしにまさる風光がよい土地で、参詣客も多く、

  ふたりでつましく暮らすには、何も不自由がない日々です。

  安斎先生と政次さまには、お礼の申しようもなく、

  ふたりで江戸を拝んでは、感謝の日々。

  もしも江ノ島へとお運びの際には、

  参道の上の端、弁天様を越えての、向こう、

  けわしい段々を降りたところにて、

 「おしづ」という、ささやかな、紺の暖簾のれんを、

  気にとめて下さいますよう。


《たこせんべい》も食いたいし、妙な土産物だって、よく見てみたい。

 だのに安斎先生は、脇目もふらずに、上っていく。

 湯気の立っている、まんじゅうが、うまそうだ。

 焦げた醤油の匂いが立つ、貝も。

 ここが江ノ島のてっぺんだろうというところに、弁財天があり、さすがにそこはお参りするだろうと、政次は思ったのに、安斎先生は、ずんずん行く。

 石畳の道は急に下り、いったいどこに出るのだろうと思う。

 とたん、視野が開けた。

「あぁ……」と政次は、嘆息する。

 のしのしと進む安斎先生を追いながら、

「あぁ……あぁ……」と、声が漏れる。

 波打ちぎわまで降りたところで、安斎先生はやっと立ち止まり、

「いやはや、疲れたな」

 振り返ると、いつかあの、広重の絵で見た、江ノ島稚児ヶ淵であった。


 真っ赤な陽が、燃えている。

 海が黄金色に、輝いている。

 照らされた富士が、でっかく、でっかく、見える。

「きれいですねえ」と、千春が、つぶやく。

(きれいなんてえ、ものじゃないや)

 うっとりしている政次の足下に、打ち寄せた潮が、わらじを浸した。

「せんせい……。ここまで来るのに《おしづ》なんてえ店は、なかったね」

「そうかね」

「おれぁ、一生懸命、見てきたんだけどな」

 安斎先生は、西日に顔をてからせながら、

「おまえは、どこまでも、見えないやつだなあ」

「ええっ?」

 とんとん、と肩を叩かれて振り返ると、おし津と由兵衛が、にこにこ笑って、並んでいた。



 ―了―

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魚屋まさじ事件帖 呂句郎 @AMAMI_ROKUROU

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