四十七
今日は、雨は、ない。
湿った土の上で、あじさいが、どれも色とりどりに、ふっくらとしている。
探せば、大きなまいまいも、這っていそうだ。
だが、政次に、そんな風情、いまは、ない。
「赤羽の話は、おいらがした通りです。ときに先生、おれには、わからないことだらけだ」
「どこから、さ」
「舟が追ってきたところ。……あんな夜中に、五郎さんが、佐助さんの舟を手配りした。それを追ってきたのが、やつらだった。不思議な話です」
「それか……。なに、五郎は舟のひとつやふたつ、秘密で呼んでこられるさ」
「じゃ、あの日は、秘密が漏れたんで?」
「漏れたのではない。船頭の佐助に話を通じておきながら、あちこちの船宿で、騒いでみせたんだろう」
「では、あの二人は、はなからこちらを張っていたってこと……」
「だろうな。……おまえと神田川を上った時、あちこちで、騒いでおいたじゃないか」
「騒いで……って」
「猿若町の安い役者をがたがた言わせて、小日向の武家屋敷を訪ねて……あの日は楽しかったよな」
「小日向のあの茶屋には、迷惑をかけたってこと」
「迷惑じゃないさ。あの親爺は、話がわかるやつでさ。よそから来たわしらと、下屋敷のさむらいと、どっちが大事か、よくわかっている」
「どっちなんで」
「聞くだけ、野暮さ。おまえの名前が入った、
「やつらに、張られていた、というわけですね」
「張らせた、と、言えよ」
(そうか……)と、なんとなく、政次にもわかる。
あの日の舟の遊びは、連中を引きつける、罠、だったのだ。
「次郎衛門と小菊は、おれたちがどこへ向かうのか、ずっと追っていたってこと?」
「結果は、そうだったな」
「五郎さんがつまづいてみせたのは、時間稼ぎ……」
「うん。あいつが、なまくら侍に斬られることはあり得ないから、まあ、道行きをやらせた」
「長助さんは……」
「おまえが聞いた通りじゃないか。由兵衛とおし津を、物置にかくまって、肥え桶を置いた……。肥え桶とは初耳だったけどさ」と、安斎先生は、かっかと笑って、「まあ、百姓の家の肥え桶を取りのけて物置を開けるのは、そりゃ、やだよなあ」
「椹木さまが、あの朝すぐにも来たのは、どうしてなんで?」
「おまえも、少しは自分の頭で、考えろよ」と言いながら、安斎先生は、あじさいの葉から、とりわけ大きなまいまいを取り上げた。「でかいな、これ……」
「せんせい……。まいまいは、いまは、どうでもいいんで」
「椹木氏には、長助を通して、言い含めておいた。岩淵まで舟で上れば、そこで朝が来るだろうと。あの御仁は、まっすぐに来るだろうと、わかっていた」
「じゃ、船着き場で……」
「そう。長助が、そこから手引きした……のだろうさ」
「……のだろうさ、って、せんせい……」
「あんまり、からくりの謎を言うのは、野暮さ」
「せんせい……さいごに、ひとつ。下手人は、やはりあの、小菊さまなので?」
安斎先生は、手にしていた大きなまいまいを、あじさいの葉に戻した。
まいまいは、のろいと見えて、そうでもなく、虹色のねばねばを引きながら、葉の上を進む。
「ぐうぐう眠っていたおまえに、なんで、こんな話をする羽目に、なるかな」
「すみません。あれはおれの不覚です」
「……」
「でも、これを聞かないと、おれは、眠れないよ」
「椹木の家に嫁いだ小菊は、妹の美雪の男狂いには、気づいていたろう。それは、苦々しいことだったろうさ。しかしやがて、そのうちの、あのへなちょこ侍の次郎衛門に、
ぐうぐう眠っていた誰かさんは聞きそびれたかもしれぬが、初めのうち、次郎衛門はただ、一両、二両と、小金ではあるが高利の金を、萬屋に、借りるだけだった」
「小間物屋が、高利貸しをするので?」
「どこだって、するさ。
しかし、やがて、利が滞る。
人知れぬように用立ててやったのが、小菊。……もっとも、惚れてなければ、やれないことだ」
さすがの政次にも、ここに至って、なにかが見えてきた。
「じゃ、なんというか、その……。やきもちが焼けたんで?」
「わしはな……」と、安斎先生は、政次を向き直る。「おまえのそういう、うぶなところが、嫌いになれなくてさ」
「……」
「何度目かの利払いに、次郎衛門がやってきたとき、相手をしたのが、たまさか相手をしたのが、美雪だった」
「う~ん……」
「『ぬしの利は、いったいどこから払われているのか』と、詰め寄ったのも、美雪の気の強さよ。
次郎衛門などという、さむらいもどきは、なまくらな刀の他には、色しかない。奥の座敷で、ごちゃごちゃと誤魔化そうとしていたときにさ……」
「小菊さんが……」
安斎先生は、答えず、
「お……。まいまいは、思いのほかに、脚が速いよな。もう、見えない」
「せんせい……」
「……もう、いいよ。それよりおまえ、わしは由兵衛の田舎の家に、おまえの好きな判じ物を、描いてきたのにさ」
「うっ……」
「まだ、読めないのかい。……からくり好きのまいまいも、いずれ、たいしたことはないな」
「せんせい……。ひとつだけ、聞かせて欲しい」
「ん」
「なんであの、明け方に、あんなところに、ちょうどよく、椹木さんが、来なすったんで?」
「……そこまでを、言わせるか。
半ばまで、おまえのほうが、よく知っているだろう。
由兵衛とおし津を、物置に押し込めた長助は、気の毒になあ、肥え桶を立てかけておいてから、岩淵の船着き場に走ったのさ。
市郎衛門なりに、調べはしていただろうが、さすがにあの、二枚の絵図、そして、おまえのところの、くされた握り飯のことまでは、誰も知るところではない」
「では、せんせいが、判じ物かなにかをやらせたので?」
「いや。誰もがおまえのような、下世話な判じ物好きではないよ。ありていに言えば、わしらが舟に乗る前に、小日向の屋敷に、早い手紙を出した」
「……」
「おまえの目に浮かんでいるのは、謎解きと判じ物の、らんらんとした光りだが、世の中はな、なんとなあく、なるように、なるのさ」
政次の心の中には、まだもやもやが、消えない。
「せんせい。ひとつ聞かせておくんなさい。あの、囲炉裏にぶちこんだ、まぶしいやつは、あれは、何だったんで」
「あれか。……おまえにわかるように言うなら、あれは《にがり》だよ」
「にがりって……あの……」
「豆腐に使う、あれさ」
「ええっ?」
「あいつをちょっと、煮詰めてなにすると、な。……まあ、おいおい話すこともあろうさ。……さて、千春が何か、台所で工夫をしていたようだよ。食ってやらねば、あの娘も、へそを曲げる」
湿った地面を避けるように、小さな庭の飛び石を踏みながら、安斎先生は、縁側に戻ろうとする。
「おいら、まだ、判らないことがあるんだ」
「なによ」
「鼠に手のひらに囲炉裏の、あの判じ物です」
「ふふふ……」
「あれが、まだ、おいらには解けないんで」
「それは、じつに、よかったな」
「……」
「解くまでの、楽しみがあるさ」
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