四十六

 その日、政次はずいぶんかしこまって、安斎先生の前にいた。

「まあ、飲めよ」と、安斎先生は、杯を勧める。

「いや、まだいけません」

「まだ、とは」

「あの二人が、あれからどうなったか、聞いていないもん」


 赤羽のあの日、ともかくも土間で一杯の水を飲んだ政次は、居並ぶ人々があれこれ評定ひょうじょうするのを聞きながら、不覚にも、眠りこけてしまったのだ。

 気づくと、そばにはおし津がかしずいていて、由兵衛は囲炉裏の鉤にかけた鍋の様子を見ていた。

「よくお眠りになっていましたね」というおし津の表情はやわらかで、その声に気づいた由兵衛が、

「よろしければ、もう少しおやすみください」と言ったのだった。

 がばっと跳ね起きた政次は、

「今は何刻なんで!?」

「さて、もうじき暮れるころです」と、由兵衛も何か、くつろぎきった様子。

「おれは、こうしてはいられない」

「まあ、そうおっしゃらずに。菜っ葉ばかりの鍋ですが、夕餉ゆうげにお付き合い下さい」

「……」

「安斎大先生から、預かっているものがあります。……おし津や……」

「はい……」

 おし津に手渡された紙を開くと、そこには絵文字があった。

《鎌》《丸の印》《「ぬ」の文字》……。

 なんの、市川屋の人気の模様、「かまわぬ」だ。

 しかし、わからないのは、その先……。

ねずみ》《手のひら》《囲炉裏》……。

(……むうん)と、政次はうなる。

 由兵衛は、にこやかに、

「『せいぜいそれを、考えろ』と、おっしゃっていました」

「みんなは、どうしたんで?」

「それが……」と、いささか照れくさそうに、由兵衛。「あたしらは、なにも知らないのです」

「なにも……」

「長助さんと、おっしゃいましたね。あたしらを、物置にかくまって下さった方。あの方が、お声をかけて下さったのは、もう昼にもなるころでした。

 あたしたちは、心細く手を取り合っていたのですが。出てきたときには、長助さんだけ。……いや、よくおやすみの、政次さんと……」

 由兵衛はくったくなく微笑むが、政次は赤面する。

「誰も、いなかったんで?」

「ええ。長助さんは……」と、由兵衛は、少し真面目な顔になり、「『肥え桶で物置の蓋をしたのは悪うございました』と、丁寧におっしゃり……。そうして、早足で駆けていかれました」

 由兵衛とおし津は、他に何も知らないのだろうと考え、余計なことを言うのはやめにした。

「おまえさん……」と、おし津が由兵衛に、親しげな声をかける。「鍋はもう、煮えたようですよ」

「お。そうだね。じゃあ、御酒のしたくを頼むよ」

「はい」

「政次さん。あたしは、あなたのところで、ご商売の御酒を、かなりいただきましたね」

「いや、あれは、貝に飲ませるやつで……」

「つい、せんにね、岩淵の宿場から、下りものの御酒が届いたのです」

「はぁ……」

「安斎先生の、お取りはからいで……。あたしはもう、どんなふうにお礼を言っていいのやら……」由兵衛は、笑ったり、真顔になったり、そしてしんみりしたり、である。「今日はもう、政次さんと、あいつをいただきますよ」

 指さす先には、祝いものめいた赤い漆もまぶしい、角樽がある。

 引き窓を開けた家の中は、いい感じの明るさである。

 鉄鍋は、ふつふつと沸いている。

 田舎家には似つかわしくない、そろばん玉を大きくしたような南部鉄の銚子で、おし津が酒を運んでくる。

「政次さんから、まあ一杯」

「へぇ……」と、これも田舎のものとは思われない杯に、一杯受ける。

 おし津は、由兵衛にも、注ぐ。

「政次さん……」と、由兵衛。「暮れる前の酒も、いいものですね……。宿へ帰ろうとする鴉たちが、鳴き交わす。表を見れば、早苗さなえが青々としている。鍋の菜っ葉は、ちょうど煮えかかり……」

「……うん、確かに」

「それにね……。笑わないで、聞いて欲しい」

「うん。あまり、笑う気分じゃないから、大丈夫だい」

「いまのあたしには……」と、ここで由兵衛、伸びかかった月代さかやきを掻いて、「いまのあたしには、おし津がいるんですから」

「はぁ……」

 相変わらず、由兵衛は酒飲みのようだが、そこにどことなく、節度のようなものがあった。

(所帯を持つと、こういうことに、なるのかな)と、政次はぼんやり、思う。

 夏の大根と、芹のようなものが、濃い出汁で煮込まれた鍋を食った。

 いい心持ちで、杯を伏せると、おし津はにっこりと笑って、

菜飯なめししかないけど、召し上がってくださいね」と、座を立った。

 最後の酒をすすりかけた由兵衛は、杯を傾ける手を、途中で止めて、

「いけない、いけない。杯は、途中で止めるのが、一番ですね」と笑った。「で、政次さん……。先生の、絵解きは、解けたので?」


 そこまでの話をし終わると、安斎先生は、かっかと笑って、

「夫婦者の家では、さぞかし、妬けたかな」

「妬けた、なんてえもんじゃねえです」

「その夜は、物置でひとり、肥え桶を抱いて、寝たのかい」

「……せんせい」

 千春が次々と運んでくる酒を、安斎先生は手酌でくいくいとやる様子。

 しかしこの日、政次は、安斎先生に、見せるものがあった。

 由兵衛が置いていき、その後、酒の瓶に放り込んだままだった一両小判を取り出し、帯に挟んで、手で押さえてきたのだ。

 それを差し出し、

「いまさらだけど、こんなものを、預かってたんです」

「ほう」と言ったきり、安斎先生は、小判に、触れようともしない。

「金一両ってやつでしょう。……おれは、隠していたわけじゃないんで」

「何を言うのさ」

「へぇ?」

「隠すも隠さないも、おまえは由兵衛からそれをもらったんだろう。わしに、それを、いちいち告げる、いわれもないよ」

「でも、はやく言っておけば、よかったのかなと思う」

「それは、おまえの忖度そんたくよ。どうだっていい」

「……とにかく、おいら、こんな小判、どうしようもない」

「で?」

「せんせいなら、どうにかしてくれるかと思って」

「どうって、どうよ」

「んーっと、おれは、ほら、両替屋なんかも、知らないし」

 安斎先生は、ゆるりとした手つきで、小判を、手に取った。

「一両な……。なんだか、びみょうな額さ」

「……」

 自分で稼いだ金ではないが、そんなこと言われて、政次は気分が良くはない。

 安斎先生は、するめでも齧るように、小判に歯を立てて、笑い、

「こんなもの、使ってしまおうよ」

「一両なんて金を、どうやって?」

「わしが、これに、もう一両、足すさ」

「えっ?」

「おまえのような棒手振は、それは、食うや食わずの日々だろう」

「……おっしゃるとおりで」

「そんなおまえが、この日々、ずいぶんと、他人ひとのために、動いたな」

「そうなんでしょうか」

褒美ほうびをもらえよ」

「えっ? ……せんせいの、おっしゃる意味が、わかんねえです」

「おまえ、何をしたいのさ」

「何って……」

「考えてごらん」

 そういうと安斎先生は、つと立ち上がって、庭に降りた。

 政次は、とまどうばかり。

 どういう間合いか、またもや千春がやってきて、熱そうな銚子の手を捧げている。

「いっぱい、いかがですか」

「あ、こりゃ、面目ねえ」

 と、注いでもらうが、なんだか上の空の心持ち。

「あたし、はしたないけど、聞いていたのです。先生は、政次さんの望みを叶えたいのでしょうね」

「おれの……望み?」

「政次さん。怒らないで、聞いて下さいね。

 こんな小娘、って、思うかもしれないけれど、政次さんは、口が下手よ」

「……うん……そりゃそうかもしれねえ」

「思ったことを、なんでもぶつけてみなさいな」

「ぶつけるって……」

「先生にですよ」

 千春は上目遣いに政次を見ると、つと立って、消えた。

 政次は、庭で後ろ手をしている安斎先生に、声をかけた。

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