四十五

 どこかで雄鶏が鳴き、開け放たれた戸の外が、見る見る明け色に染まっていく。

 次郎衛門はせんから、しくしくと泣き続け、小菊はあらぬ方向に目を据えたままだ。

 安斎先生は煙草入れを取り出し、煙管を詰める。

 五郎は、何事もなかったかのように、火箸でつまんだおきを差し出す。

 政次は今になって、膝ががくがくと震え出す。

 喉が渇いて仕方ないが、立ち上がればよろけそうだ。

 うまそうに煙を吐き出した安斎先生は、捕縛された二人に向かって、穏やかな声をかけた。

「年の功というやつでな……。おおよそのことは、この安斎にもわかってはいるが、申し開きをしてみるつもりはないか」

「……」

「掟や定めと一辺倒の、奉行の調べのことは知らぬが、人のみちの話をするなら、今が最後かもしれないぞ」

 次郎衛門はただ泣くばかりだったが、気丈に突っ張っていた小菊の顔が、わずかに、崩れた。

 一度、鼻をくんと言わせると、安斎先生の顔を正面から見据え、

「かくなる上は、どのようにも御白洲の裁きを受けましょうけれど、お医者様にお話しする人倫の話などはございませぬ」

 きっぱりと、言った。

「なるほど。それはそれで、ご決心だ。……そのうえで、ひとつ聞くよ。妹御の美雪どのを手にかけたのは、小菊さん、あなたかな」

 小菊は、後ろ手に縛られた身体を、一度弾ませるようにしながら、顔を紅潮させた。

「先生の、お考えの通りでございましょう。この……」と次郎衛門を、侮蔑を込めた横目で見やり、「このやわ侍に、なんのことができましょうか」

 嗚咽していた次郎衛門は、この一言を聞くなり、前のめりになって、号泣した。

 雀らが、ちゅんちゅんと鳴き交わす朝にもふさわしくない、きみょうな景色だった。

(これがこれから、どうなるんだろう)と、政次はいぶかる。(水が飲みてえや……)

 と、戸口に影がさした。

 長助である。

 土間に立ったまま、ざっと家の中を見回し、悟り顔で、目を伏せた。

「まずはわたくしだけ、早足でやってまいりました。御仁ごじんもやがて、着くころでありましょう」

(《ごじん》とは、なんだ?)と政次が思った時、小菊は身体をねじり、きっとした目で長助を見た。

 長助は、顔色を変えない。

「どういうことです」と小菊が言うのへ、安斎先生は、

「あなたをいちばん、心配しておられる……いや、おられたお方だよ」

「……これは、どういうからくり」

「からくりでもなんでもない。人の倫の、はたらきさ」


 息を切らせて戸口に立ったのは、椹木市郎衛門さわらぎいちろうえもん――小菊の夫、だった。

 小姓袴こしょうばかまの、にわか旅装束で、供の者も、ない。

 暗い百姓家の中に、すぐには目が慣れない様子だったが、土間に一歩踏み入れ、すべてのことを悟ったらしい。

「小菊っ!」と叫ぶと、まるでそれが習いでもあるように、刀の柄に手をかけた。

「待て!」と鋭く言ったのは、安斎先生である。「市郎衛門どの、その鯉口を切っては、おしまいですぞ」

「……」

「わけあって、こうしたありさま。さぞ、驚かれたであろうさ。しかし、これはこれで、われわれの《いのち》を救うためで、やむなきことだった」

 市郎衛門は、身を震わせ、

「……定法じょうほうに従って、うぬら、重ねて斬り捨てるっ!」

 すると、次郎衛門の嗚咽おえつが、さらに激しくなる。

「待ちなさい。……わけがあるなら聞こうともしたが、あなたの妻女には、思うところがあるようだ。これ以上は、わしは、知らぬよ。しかし、世の定法がどうあれ、ここで刀を抜くことは……」と、ここで安斎先生は、一段と強い声で、「この千石安斎が、許さない!」

 市郎衛門の手は、柄にかかったまま、青白くなって、震えている。

「ああっ……」と言ったまま、小菊は美しい顔をくしゃくしゃに壊し、泣き崩れた。

 涙を拭おうにも、後ろ手のままでは、どうしようも、ない。

「小菊……」と、駆け寄った市郎衛門は、懐から手拭いを取り出し、その顔を拭いてやる。「小菊よ……」と言う、市郎衛門の顔も、もはや、びしょ濡れだった。

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