第25話影の終わり、始まりの影
「ま、あの影はそこそこ賢かったってことだね」
食後のデザートとして、ミセス・クラリネットはプディングを用意していた。
卵をたっぷりと使った特製のお菓子を珍しがりながら食べながら、ノイジーはケラケラと笑う。
「アタシっていう天敵が近付いてきたことを察して、自分の切れ端だけ残して本体はさっさと逃げ出したンだ。あはは、このぶよぶよしたヤツ美味いね」
「笑い事じゃあないわよノイジー」
折角のご馳走だったけれど、ソニアの舌はさっぱり味わうどころじゃあなかった。「貴女の言い分じゃあ、まるっきり事態が収まっていないみたいじゃない」
「だからさ、まるっきり収まっていないの。そう言ったでしょ、アタシ……あ、アンタは寝てたっけ」
ソニアはミセス・クラリネットに視線を向けた。
ミセス・クラリネットは申し訳なさそうに顔を伏せた、「申し訳ありません御嬢様、聞いていらっしゃるかと思いまして」、あぁそうよね。
ソニアは溜息を吐く。彼女はミザレット家に仕えて長いから、当主が把握していない事態というものの存在に弱い。そんなことはあり得ないから。
「…………影は、まだ生きているのね」
「それどころかピンピンしてるよ、あと十三個目玉はあるからね。アタシたちはヤツの十四分の一を削り取ったってだけ」
「何てこと……」
墓場での出来事は正に悪夢だった――控え目に言ってもこの世に現れた地獄であって、ノイジーがいなければソニアもミスター・ノーツも生きては帰れなかっただろう。呪詛の声で身動きがとれなくなり、彼らの食卓に載っていたはずだ。
それが、十四分の一? 詰まりあれの十四倍の地獄が、この世にあふれ出る危険性が野放しという事?
ノイジーは首を振った。
「そういうわけじゃあないよ。アイツは夢を叶えるモノだからね、あそこで死体の夢を叶えてたのは間違いなく金眼で、そいつを倒した以上は蓄えた力もご破算だよ。残ってるのはまあ、今のところは抜け殻だろうね」
「今のところは、という部分を突っついた方が良いかしらね」
「夢を叶えて、満足させて、最終的には夢を喰うのがアイツだから。放っておいて力を蓄えちゃうとまあ、十四倍じゃあ済まなくなるかもね」
「最悪じゃない」
詰まり、可能な限り早く影を追い掛ける必要があるわけだ。
となると頼りになるのはノイジーの感覚なのだけれど――。
「それが上手くいかないンだよね」
ソニアのプディングを狙いながら、ノイジーは首を傾げる。「多分アイツ、十三個のままで逃げてるわけじゃあなさそう。臭いが薄く、広く、ララバイ森林の霧みたいに街全体を覆ってる。もしかすると――」
「――十三個に別れたかもしれない?」
ノイジーの方に皿を差し出しつつ、ソニアは最悪の予想を口にした。
大きな敵よりも細かい敵の方が危険なときは多い――潜伏し、時間と共に規模を増すような敵ならば尚更だ。
ひっそりと音も無く忍び寄って、十三体の影が十三の地獄の源泉にそれぞれ目を付けたら、どう頑張っても十三番目は最悪の事態になってしまうだろう。何しろノイジーは、一人しかいないのだから。
ドレスの裾に不安がしがみついてくる。
それを面白がるように、ノイジーはゲラゲラと笑った。
「そ。アイツらそれぞれこの街に散らばって、誰か、自分だけじゃあ叶えられない願いを持つ誰かさんにこっそりと、忍び寄っているかもね」
「どう考えても、おかしい事態とは思えないわね」
「そうでもないよ。アタシからすれば、あと十三回は楽しめるってことだからね」
ノイジーの笑顔は、とても無神経だった。
歯をむき出しているし、吊り上がった唇の端にはステーキのソースがこびりついている。それどころか、プディングを食べながら彼女は話している。
全く淑女らしくない振る舞いだわ、ソニアは思いながらしかし、苛立ちの欠片も見付けられなかった。勿論彼女にミザレット家の一員として、妹として、恥ずかしくない立ち居振る舞いを覚えさせたいとは思うけれど、けれども。
野に咲くからこそ美しい花も、きっとあるのではないだろうか。
少なくとも、ソニアはノイジーの笑顔に安心していた。
彼女と一緒ならば。妹が側にいるのなら。地獄の十三界巡りくらい、なんてことは無いと思えてしまえるほどに。
「……頼りにしているわ、ノイジー」
「はは、まあ任せときなよソニア。ミザレットに、箔を付けてあげるからさ!」
上機嫌にプディングを頬張るノイジーと、彼女がこぼした欠片を拭き取るミセス・クラリネット。私に残された、最愛の家族。
――願わくば。この三人でずっと一緒にいられたなら。三人でミザレットを盛り上げて、そして――。
けして不可能とは思えない夢を描いて、ソニアはゴブレットを傾ける。
無意識に、左眼の包帯を撫でながら。
「……おのれ、あの小娘……」
貴族院の奥深く。
【十三階段】の中でも最高峰に位置する老人、ガルネルシア候は自身の机を何度も叩きながら、ブツブツと呪詛の言葉を呟いていた。
彼の人生からしては想像も出来なかった、屈辱の経験だった――彼の決定を蔑ろにするばかりか、力ずくでひっくり返してくる者がいようとは。それも、貴族ではない大人でもない小娘に!
全く不愉快だ、だが、それ自体は何とか折り合いをつけることが、ガルネルシア候とて出来ていた。
あれは貴族ではない、ただの猿だ。獣にいくら吠えられても、噛まれても、それは怒りと屈辱の対象ではあるがそれだけだ。
何よりも腸が煮えくり返るのは。
承服できないのは。
彼に刃向かった貴族の存在だった。
ミザレット。ソニア・ミザレット。
父親の無作法は敢えて忘れ、引き立ててやった恩をあぁも鮮やかに裏切るとは。たかが十五の小娘が、貴族の長たる自分の決定を無視して、しかも交渉だと?
不愉快だ。
けして、認められない。
許されない。
だが――彼女を攻撃することの危険性を、老人は理解している。
あの強大な竜が侍る限り、自分では彼女を傷付けることは出来ない。彼女の屈辱的な死を幾ら夢見ようとも、けして叶うことはない。
――けして叶えられない願い。
苛々と、高級な葡萄酒を惜しげも無く呷る老人の背後で影がわだかまり。
ギョロリと、赤い眼球が蠢いた。
ソニア・ミザレットと輝く扉 レライエ @relajie-grimoire
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