N to O

奈々星

第1話

がたんごとん、がたんごとん。

初めての電車から見える、初めての風景

新しい学校では出会いに恵まれるだろうか、

そんな淡い期待を抱きながら私は電車に揺られていた。


高2の春、今日は始業式。

半日授業だからお昼までには家に帰れる。


東京からはるばる海辺のこの街へ越してきて、

私は藤沢にある高校に通うことになった。


高校へ近づくにつれて車内は同じ制服の男女であふれ影を潜めていた不安が次第に頭角を現してくる。


駅に着くと私はとにかく既にできているグループの登校の邪魔にならないように、出発の直前、ドアが閉まるギリギリまで電車を降りなかった。


駅から出ても前にいる生徒たちから徐々に

距離が開くようにゆっくりと歩いた。


学校に着いて自分のクラスに向かう途中も同じように、人々の合間を縫って誰の邪魔もしないようになるべく存在を薄くしながら。


昔から私はこんな性格だ。


私のせいで誰かが嫌な思いをするのが嫌。

私が誰かと仲良くしたら、その誰かから距離を置かれる誰かがいる。


私が人より上に立ってしまったら、

私より下の人は私より劣っていると思われて嫌な思いをする。


だからこれまでに誰かと深い仲になることもなかったし、テストでも点数が公開される

学年上位10位以内には絶対に入ることは無かった。


新しい生活が始まっても私は何も変わらない


そう思っていたのに、私の歯車は隣の席のある男の子に狂わされた。


彼の名前は藤宮 伊月、仲のいい人たちからは

下の名前で、仲が良くなくてもみんな彼のことを藤くんという愛称で呼ぶ。


彼の周りはいつも賑やかで正直羨ましかった。


その賑わいの中でも一際目立つ彼は

いつしか私の心に棲みついた。


彼はどんな性格なんだろう。

きっと明るくて面白くて運動も出来そうだな。


何部に入っているのだろう。

運動部だろうな、やっぱりサッカーとかバスケかな。


勉強はできるのかな。

得意な科目は?

いつも何時の電車に乗ってるのかな?


………好きな人はいるのかな?


私はそんなことを思ってしまっている自分が怖かった。

今まで誰の目にも触れないように息を潜めて生活をしてきた私があんな人気者の彼の事を

知りたいと思ってしまっている。


どうしてもこの気持ちを抑えることができないから私は彼に嫌われるようなことをしてみた。


彼がシャーペンを私の近くに落として彼に拾ってくれるようお願いされても聞こえないふりをしたし、

国語の教科書を忘れた彼が先生に音読を頼まれた時も、彼のSOSの言葉が耳に入らないフリをした。


こんなクラスメイト、彼の取り巻きからいますがいじめられてもおかしくなかったのに

何故か私には何も起こらず、私の彼への嫌がらせは終わることがなかった。


ある時、彼が私に数学の問題の質問をしてきた。


その時、私は彼と初めてまともに話した。


「どうしていつも私を頼るんですか?」


「敬語じゃなくていいよ、クラスメイトなんだから」

彼の溢れ出す笑みと明るい声のトーンは人混みの中心にいる時の彼と何一つ変わらない。


「ふ、ふ、藤宮君は……」


「藤くんって呼んでよ、結構気に入ってるんだこのあだ名。」

私のか細い声は彼の大きく眩しい声に遮られる。


「ふ、ふ、ふ、ふ、

藤くんはなんで私を頼るの?」


「好きだから」


私は心臓が粉々に飛び散ってしまうのではないかと思うくらい胸の動悸が暴走した。


「え……」

私の発したその1文字から溢れ出すのは

困惑の色も疑問の色も驚愕の色も混じった、きっと絵にしたら手持ちの絵の具を全て混ぜて出来たようなカオスな色。


彼はもう一度私の目を捕らえて丁寧に言う。

「好きだからだよ、多田野さんのことが」


いつも日向にいる彼がいつも陰湿な日陰にいる私の名前を知っていた。


私の名前を久しぶりに聞いた。

最後に聞いたのはいつだろう。

まだ担任の先生にも呼ばれたことがないから

前の高校の先生かな?


いや、そこでも呼ばれることはあんまりなかったな。


記憶の奥底に眠っていた私の名前。


私は涙が抑えられそうになかった。


泣き出した私を見て彼は動揺しているようだった。

「胸、貸そうか?」


放課後の教室、周りには誰もいなかったから

私は遠慮なく彼の胸に飛び込んだ。


彼はさらに続ける。


「多田野さん、下の名前で呼んでいい?」


彼は私の「うぅん、うぅん」という泣き声

を了承の「うん」だと読み取ったらしい。


「良かった。俺、人のこと下の名前で呼びたいタイプなんだ」


どんなタイプだよ、

やっぱり藤くんは眩しい人だな。


「空……俺と付き合ってください。」


私は二つ返事で答えた。

答えはもちろん「はい!」

泣きながらだったから聞こえにくかったかな。

そんな不安は、彼が一瞬で蹴飛ばしてくれた。


「これからよろしくな、空!」


ずっと前に多田野 空という名前を

「ただの 空気」

とからかわれてからずっと、

嫌いだった、下の名前。


高2の春、もうずっと前から

大っ嫌いだったこの名前をやっと愛せるようになりました。


それから彼のことを沢山知りました。


明るくて面白くて運動神経のいい彼は

サッカー部で将来はプロを目指していて

だから沢山勉強した英語がいちばん得意、

だけど他の勉強は苦手、

サッカー部の朝練があるから私は一緒に登校できないけど、放課後は図書館で勉強している私を練習終わりに、迎えに来てくれる。


彼に出会ってから私は誰からも必要とされない空気から、


彼の大切な空気になることが出来ました。


これはあとから彼に聞いた話だけど

私が彼を気にしていたように、

彼も私を気にしていてサッカーにも身が入らなかったらしい。


世界中が私を不要な空気だと断言しても、


彼が私という空気を必要としてくれるのなら


私はいつまでも一緒に居てあげたい。


ずっとずっと、ずっっっっと。

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