しろあり

青島もうじき

しろあり

 一週間が経ったというのに髪の毛一つ落ちていない無垢材の床の上を、儀礼的に掃除機で撫で上げる。

 つい数年前にリノベーションを施したばかりだという無添加住宅は、むしろなにかすればするほど汚れていってしまうような、そういった種類の脆い潔癖さを放っていた。

 南仏プロヴァンスを想起させる白く輝く漆喰の内壁。決して目立つわけではないけれど、控えめに品の良さを主張するスポットライト。それらに馴染むようにか木製のもので揃えたダイニングテーブル、スツール、キャビネット。アロマディフューザーに至っても本体部分が木製のものを選んでいるのは、どこか病的な徹底っぷりを感じてしまう。

 この家にいると、漆喰の凹凸か、わざとらしく天然感を演出している木目かの少なくともどちらかを常に目にし続けることになる。日曜日にふらりと冷やかしで訪れたモデルハウスに漂う、生活感の希薄さを思い出す。

 雰囲気に合わせて、私も箪笥の肥やしになっていた無印良品のボーダーシャツを着てくるようにしている。セールで二千円くらいになっていたものだったけど、これまでそれに関してなにかを言われたことはないから、どうやら黙認はしてもらえているらしい。

 どうせなら制服も貸与してくれたらいいのに。うちの家事代行では、スタッフを示す証としてロゴの入ったエプロンが貸し出されていて、その中に着る服は「自由」という言葉の下、それぞれのスタッフに丸投げされていた。

 汚れの目立ちにくいスキニーデニムの裾で手のひらに浮かんだ汗を拭うと、部屋の隅のところでふわふわとなにかが動いているのが見えた。珍しい。埃かなと思って近づいてみると、パンセの毛だった。トイプードルに「パンセ」と名前をつけるセンスも含めて少し気取った感じがあるけれど、それを積極的に嫌おうという気もなかった。家飼いされているもこもことしたその生き物は、あまり吠えることのない澄ました性格をしている。

 そういえば、トイプードルってフランス原産なんだっけ。『パンセ』を書いた哲学者のパスカルもフランス出身だし、この家はどうやらよっぽどフランスがお気に入りらしい。

 掃除機でおざなりに毛を吸い込んでしまうと、もう取り除くべき汚れがなくなってしまったように思われた。

 それでも、一応は隅から隅まで……そう見えるように、ざっと掃除機をかける。けっこう腰にくるから、掃除機はさっさと終わらせてしまいたかった。

 家事代行のバイトを始めたのは、単純にお金が欲しかったからだ。とはいっても、親からは私が都内で一人暮らしするには十分な仕送りを貰っているし、大学の学費も全額払ってもらっているから、このアルバイト代は全部趣味に消えるんだけど。

 その趣味に都合がよかったから、このバイトを選んだ。私のお気に入りの劇団は休日の夕方から公演をすることが多い。いわゆるソワレというやつだ。そしてそのメインとなる劇場は、ちょうどこの家事代行業者のサービス圏の中央付近にある。

 家事代行の大きなメリットは、直行直帰。郊外の大学近くに位置する私の学生マンションから、都心へと出向くその途中にアルバイトに「ちょっと寄る」ことができるのはありがたい。

 それに、時間帯もちょうどよかった。スタッフは午前中から夕方にかけての都合のいい時間に希望を出すことができ、私は公演に間に合うように余裕を見て毎週日曜日の午前八時から午後三時までで登録していたのだが、その時間帯が、いま私の担当している柏葉かしわば家の要望とぴったりはまったのだ。

 金銭面やアクセスの条件も悪くない。業務内容に「昼食・間食の調理」が含まれていたのも魅力的だった。高校の三年間を家庭科部で過ごした私にとっては、料理ほど無心になって没頭できる作業はなかった。それを職場の人間関係というしがらみに縛られることなくできるのは、他の仕事にはない魅力だった。

 誰かの為になりたいからなんて高尚な気持ちで始めたわけではなかった。一度、他の人はどんなモチベーションでこの仕事をこなしているのか気になってネットで調べたことがある。大変な事も多いけど「ありがとう」の言葉や、笑顔で報われた気分になるらしい。そういうもんなのかと、どこか他人事のように眺めてしまったのを覚えている。

 私にとってこのバイトは、立地が良くて、直行直帰ができて、仕事の時間に一人で黙々と料理ができて、それなりに稼げる仕事だった。私は労働力とスキルを提供して、柏葉家はそれにお金を払う。そういうシンプルでビジネスライクなやりとり。

 だからこそ、研修の時に私を含む数人の新人を前にして言った先輩の言葉が未だに胸の底で蠢いている。

「お話し相手を求めて家事代行を頼まれるお客様もいらっしゃいます。お客様が話したそうにしていたら、本来の業務がおろそかにならない程度にお話する時間を設けるよう心掛けてください」

 そして先輩は「それも仕事のうちです」と付け加えた。

 事実、どうやら柏葉家もそれが目的のようだった。柏葉家は三人家族だ。両親と、中学生になったばかりの娘が一人。休日でも変わらずに仕事をしている両親に代わって彼女に目をかけてやってほしいということなのだろう。そしてその意図はそのまま、掃除するところもないくらいに整然と片付いた家に現れていた。前に私がこの家を訪れた時から一週間も経っているのにこんなに生活のおりが積もっていないわけがない。この家は、普段からまめに手入れが施されている。

 だけど、そんな事情を私が汲み取る義理もない。

 受験をして中高一貫の私立の女子校に入学したこの家の一人娘、恵深めぐみさんは、あまり社交的でない性格なのか休日も家にいることが多い。鍵のついた子供部屋の内側でなにをしているのか、通い始めて三か月ほどになるが、私は知らなかった。詮索する権利も、必要もなかったけれど。

 恵深さんと顔を合わせるのは、出勤時に家の鍵を開けてもらう時と、昼食の時間だけだ。それ以外の時間には、誰もいない綺麗すぎる家を、たった一人掃除機でなぞり、水カビ一つついていないシンクをスポンジで拭き上げている。

 徒労感はなかった。むしろ、綺麗な部屋だろうが汚い部屋だろうが、同じ時間同じように掃除機をかけていれば、同じ給料が手に入る。それなら綺麗な職場の方がいいとさえ思えた。

 求められている「話し相手」という役割だって、明文化された業務内容ではない。それに、親がそれを求めているだけであって恵深さんの方にその気はないようだし、わざわざこちらが労力を割くのも変な話だ。

 最低限でいいのだと思う。サービス内容以上のサービスを求めてくるのならば、それはお客様ではなく単なるクレーマーだ。だから今日も私は、塵一つない部屋に掃除機をかけ、磨き上げられたテーブルの木目を布巾で撫でる。

 そんなことを考えながら黙々と手を動かしていると、エプロンのポケットに入れたままにしていたスマホが震えた。

 壁に掛かったこれまた木製の時計の文字盤を見ると、短針は「10」のところを指していた。買い出しの時間だ。ポケットに手を突っ込んで手探りでタイマーをオフにする。

 昼食と間食の材料、それから切れかかっている日用品の買い出しについては、この近くにある成城石井に行くことになっている。初めて指示された時には、セレブって本当に成城石井に行くんだと、なんだか可笑しく思ってしまったのを覚えている。

 買い出しに出る際には、家にいる誰かに一言声をかける必要がある。鍵を閉めてもらわないと不用心だからだ。先輩曰く、家によっては一時的に鍵を借りる場合もあるらしいが、柏葉家ではそうではなかった。

「鍵を貸してもらえると、信用してもらえてる気がするの」なんて先輩は言っていたけど、鍵を持つ責任と天秤にかけると、私にはあまり羨ましいと思えなかった。

 恵深さんの部屋は、二階の突き当たりにある。吹き抜けになっているから、少し声を張れば聞こえるとは思うけど、いつも一応は部屋の前まで行ってから声をかけている。

 どうせ今日も部屋から出てこないだろうと高をくくって、エプロンを外しながらだらだらと階段を上る。人の目がないから必要以上に気を張らなくてもいいのは、正直「当たり」の家だったのだと思う。

 部屋の中からは、微かに音楽が漏れて聞こえていた。それが最近の流行りのポップスだったのが少し意外だった。なんだかこの家にはそぐわないような気がして。

 三回ノックすると、その音はぴたりと止んで、ややあってから「はぁい」と上ずった返事が返ってきた。

「買い出しに行ってきます。戸締りをお願いできますか」

 そう声をかけると「ちょっと待ってて」と言い残して、ばたばたと支度をする音が聞こえてきた。十数秒して出てきたのは、五月の陽気にはそぐわないトレンチコートを着込んだ恵深さんの姿だった。

 一瞬目を丸くしたけど、その目が「なにも聞くな」と牽制していたので、余計なことは尋ねなかった。

 部屋の中から漂ってきた子供特有の甘い香りに押し出されるようにして、恵深さんに先立って階段を降りる。無造作に脇に抱えたエプロンが、木の手すりにこすれた。

 観劇の日にだけ使っているお気に入りの白いスニーカーに足を通す。見送りをされる時には、なんだか自分がこの家の家族の一員になったような気がするなんて先輩は言っていたけど、私はいつまで経ってもそんな風には思えない。この家にあんまりにも生活感がないからかな。

 私がもっとこの家に愛情を抱いていれば、もっと仕事に打ち込んでいたのかななんてことを、先輩の言葉が脳裡をよぎる度に思う。別に熱心に仕事をしてみたいわけではない。むしろ、楽にお金を貰えるに越したことはないと思う。ただ単純に、普通はそういうものなのかと思ってしまうだけで。

 実務研修のために、先輩と二人で都内の別の家に行ったことがあった。先輩は緊張しなくていいと言っていたし、私に割り当てられたのが調理だったこともあって緊張も全くと言っていいほどしていなかった。友達の家のキッチンを借りて料理をするのなんて何度もやったことがあったし、美味しいものが作れるという自信もあった。

 だから、研修を終えてその家を辞去する時にその家の人から「次から別の方をお願いできるかしら」と言われたことには、納得がいかなかった。少し手の込んだ和風パスタは好評だったし、先輩が買い出しに行っている間に代わりにやっていた掃除も、そこまで遜色があったようには思わない。

 先輩が帰ってきた時のその家の奥さんのホッとした顔。それを見て得意げに微笑み返した先輩。この二人の間に築かれていた種類の人間関係が求められるのであれば、私には務まらない仕事だと思った。

 分かっている。そういう暖かい心のやりとりを表面だけでもできる方が、上手くやっていけるってことくらい。だけど、どうしても私にはそれが難しかった。全くできないわけじゃないけれど、労力が報酬に見合わないと思っていた。

 それでもバイトをやめなかったのは、柏葉家の出した条件が私にとってあまりに都合がよかったからだった。それでも合わなければすぐに辞めればいい。アルバイトに責任なんて求められても困る。最低限のことを、与えられた報酬に見合う形でこなす。いくら綺麗な家をそれ以上綺麗にするでもなく、ただそう頼まれたから掃除機をかけるだけの仕事でも、それは変わらない。そして幸いなことに、今はそれで間に合っている。

川縁かわべり、さん」

 背中に声を聞いて振り返ると、恵深さんはトレンチコートの襟を弄りながらもじもじと立っていた。

「どうしました?」

 恵深さんが私に話しかけてくるなんて珍しい。なにか用かと思って首を傾げていると、高そうなトレンチコートのボタンをむしり取りそうな勢いでぐるぐると撫でながら、恵深さんは呟いた。

「……今日のお菓子って、もう決まってますか?」

 きょとんとして恵深さんを見ていると、ちらりと私の様子を窺ったその視線とぶつかって、すぐに逸らされた。

「いえ。先週クッキーを作った時の薄力粉が残っているので、それでスコーンでも作ろうかと思っていましたが」

 もしかしてなにかリクエストでもあるのかと思って聞いてみると、恵深さんは慌てて首を振った。

「あ、その……ありがとうございます。楽しみにしています」

 そう言って恵深さんは頭を下げた。なんだったんだろうと思ったものの、話を切り上げられてしまったので、大人しく買い出しに出向くことにした。買い出しはいい。このアルバイトの時間の中でも、一番といっていいほど楽な時間だ。

 玄関を出るとすぐに、背後で鍵の閉まる音が聞こえた。


 成城石井では少し安めのバナナを見つけたから、間食はバナナマフィンにすることにした。エクアドル産って書いてあるけど、そういえばエクアドルってバナナ以外のイメージがないけどどんな国なんだろう。やっぱり南米にあるのかな。

 お金は常識的な範囲で気にしなくていいと言われているものの、こうして安くなっている食材を選んでメニューを組み立ててしまうのは、日ごろの貧乏性が抜けきらないからだろう。

 合挽き肉が安くなっていたのでタコライスを作ることにした。ご厚意で私も同じものを食べていいことになっているので、好みの味付けになるようにミニトマトは多めに買った。

 移動を含めて一時間弱で柏葉家に戻った。インターフォンを押すと、今度はすぐに応答があった。「はぁい」とスピーカー越しのくぐもった声が聞こえて、少ししてから鍵を開ける重い音が響いた。

 無垢材の重厚な扉を引っ張ると、家の奥の方へぱたぱたと戻っていく恵深さんの姿が目に入ってきた。トレンチコートはもう脱いだらしい。

 食器用洗剤を補填したり、今日使わない分の合挽き肉をジップロックに移したりと買ってきたものをあるべき場所に整理しているうちに昼食を作る時間になっていた。タコライスは慣れれば三十分ほどで作れるメニューだ。今から作れば十二時には余裕をもって間に合う。

 高級割烹で使われていそうな竹のまな板の上でレタスを千切り、玉ねぎをみじん切りにする。料理はいい。慣れてしまえば、ボウルの中で調味料を混ぜているうちに、フライパンの上でタコミートを炒めているうちに、すぐに時間が過ぎていく。無心とも少し違う。余計なことを考えなくて済む程度に段取りや火加減なんかに脳みそを使って、自分一人だけになれる。

 きっと私が苦手なのはこの仕事自体なのではなく、好きになれない家に愛着を感じて「やりがい」という名の対価を受け取ることなんだと思う。人間関係を切り売りすることで、私の内面を偽る。それも仕事なのだと言われるかもしれないけど、それをそうと割り切れるほどの時給は貰っていない。

 自分の心を偽ってへらへらすることに、もう少し抵抗がなければもっと生きやすかったのに。

 だけどそんな自分を想像すると気味が悪く思えてくるのも、事実だった。

 わざとらしいまでに潔癖なこの家の中で、真っ白に染まるようにしてさっぱりとした格好で笑顔を振りまき、あまりこちらに関わろうとしてこない恵深さんをたびたび気にかけ、この家を去るときには「第二の家族」だなんて思って少し胸がぎゅっとなるくらいに愛着を抱いて。それが理想なのだという先輩の姿に、私はなれないし、なりたくなかった。

 二人分のタコライスを作り終えたのは、ちょうど十二時だった。

 パンセの餌皿にドッグフードをざらざらと入れていると、二階から恵深さんが降りてきた。家だというのに、品のいいチェックのワンピースを着ている。きゅっと絞ったウエストとふわりと広がった裾の対比が、フォーマルな印象を与えている。

 バナナマフィンのためにオーブンの予熱を始め、白い陶器の皿に盛りつけたタコライスを、ダイニングテーブルのちょうど対角線の場所に広げた二枚のランチマットの上に置く。恵深さんが席に着いたのを見計らって、私も椅子を引く。

「いただきます」

 手を合わせてスプーンを握った恵深さんは、姿勢よくタコライスを口に運んでいる。すっと背中に筋が入っているようなその姿は、この家の人間として相応しいもののように見えた。

 ミニトマトの心地よい酸味を口の中に感じながらも、マフィンの生地を作るのにさっきのボウルを使う必要があったので、手早く食べて一度洗い物をしようと段取りを頭の中で組み立てていた。

 顧客である柏葉家の両親は、この時間に和やかな会話が取り交わされることを夢想しているのかもしれないが、その期待には残念ながら応えられそうにない。一足先に昼食を終えた私は食器をシンクにつけ、先ほど補充した洗剤のオレンジの香りを振りまきながら食器とボウルを洗う。

 昼食を境に、なんだか後半戦に入るような気がする。実際は、七時間勤務のうち四時間少しが経過しているのでとっくに半分は終わっているのだが、その四時間に買い出しの時間が含まれているからそんな風に思うのだろう。

 後半では間食づくりと洗濯干し、二階の掃除機などを行う。三か月という時間の中で慣れつつあるその作業を、メニューなんかを加味した上で頭の中で確認していると、ダイニングの方から突然声を掛けられた。今日はなんだか、恵深さんによく声を掛けられる。

「その……もしできたらでいいんですけど……」

 買い出しに出るときに引き留めたのと同じように、視線を彷徨わせながら、気後れした様子で恵深さんは言った。

「なんでしょう?」

 声に訝しむ色が入ってしまったのを自覚するけれど、それも無理がないくらいにそれは嘘偽りのない感情だった。

 恵深さんは何度か口を開いたり閉じたりを繰り返していたが、やがて意を決したかのように私の目をじっと捉えた。

「甘い卵焼きって、作れますか?」

 突拍子もないその言葉に、思わず「へっ?」と声が漏れた。耳まで真っ赤にした恵深さんはさっと目を逸らして「いや、駄目なら別にいいんですけど……」と蚊の鳴くような声で付け足した。その丸まった背中はさっきまでの凛としたものではなく、どちらかといえばこの家の中では異質なものとして映った。

「えっと、それくらいならすぐに作れますが……またどうして急に……」

 思わず聞き返すと、恵深さんは恥ずかしそうに「好きな曲に出てくるんです。『君の作った甘い卵焼きが食べたい』って」と言った。ああ、そういえば部屋から聞こえいた曲のサビって、そんな感じだったっけ。

 作り付けの棚からフライパンを取り出す。卵焼き用のものは見当たらなかったけど、丸いフライパンでもヘラを上手く使えば作れないこともない。スコーン用に買ってきたものからいくつかを拝借して、器に割り入れる。ダイニングから視線が飛んできているのが分かっていたけど、気にせずさっさと作ってしまうことにする。砂糖や醤油、塩をふり入れる。

 沸々と泡が浮き始めたら端の方を折りたたむ。頭で考えずとも、身体が勝手に動く。卵焼き用のフライパンほどは上手く形が作れなかったけれど、形になったそれを適当な皿に載せて、テーブルまで運ぶ。

 恵深さんは、きらきらと目を輝かせている。この程度のものでそんなに喜ぶのかと少し驚いてしまった。なんとはなしに眺めているのに気づかず、恵深さんは一口大に箸で切って、そのひとかけらを口に運んだ。

「美味しい……!」

 思わず漏れてしまったようなその声に、自分でもうまく言葉にできない気持ちが浮かんでくるのを感じた。自分の作ったものを美味しそうに食べてくれることへの喜びなんて、借りてきたような言葉では表せないなにかが。

「私、こういうのが食べたかったんだ」

 恵深さんは口いっぱいに卵焼きを頬張って、はふはふ息を漏らしている。その様子と洒落たワンピースはあまりに似合っていなかった。

「うちの家、こうじゃないですか。だから「ポップに出てくるこの料理が食べたい」なんて言い出せなくて」

 綺麗にドッグフードを平らげたパンセが、恵深さんの足元にやってきて、無垢材の床の上で腹を見せた。

「正直、息が詰まるんです。家でもこんなきっちりした格好しなきゃいけないし、あんまり興味のないコンサートなんかにも連れていかれるし。可愛がってもらってるのは分かるんですけど、余計なお世話っていうか」

 溜め込んでいたものが一気にあふれ出したようだった。それは、私自身も感じていたこの家から漂っている悪意のない同調圧力のようなそれだった。添加物を完全に排したこの環境は、「いらないもの」を捨てさせるような暴力性をはらんでいる。

 それでわかった。私が甘い卵焼きを頬張る恵深さんに抱いた気持ちは、安心だったのだろう。この環境に馴染めずにもやもやとした気持ちを抱えていたのは私だけじゃなかったんだという、妙な仲間意識。

「私、さっき変な格好してたじゃないですか。あれ、実は部屋でパジャマ着たままだったから、焦って上を羽織ったんです。パジャマよりアレの方がましだって、本気で思ったんです。おかしいですよね。家なんだから、部屋着でもいいじゃないですか」

 パジャマの上からトレンチコートを着ているのを想像して、なんだか可笑しくなってしまった。ふっと笑うと、恵深さんも苦笑いを返してくれた。なにかを察知したかのように、パンセがリビングの方へと駆けていった。

 その後ろ姿を二人で見送っていると、なんだか奇妙な連帯感が湧き上がってくるのを感じた。そうか。きっとこれは――

「だから、川縁さんが私に必要以上に構ってこないの、本当にありがたいんです。居心地がよくって」

 居心地がいい。きっと、その言葉に尽きるのだろう。

「ほら、川縁さんって私の話し相手みたいな感じでここに来てくれてるじゃないですか」

 今は実際そうなってるけど、と笑う恵深さんは、どこか憑き物が落ちたかのような表情をしていた。

「でも私、そんなの求めていないんです。休みの日は一人でだらだらしたいし、昼前まで寝てたい。だから、こっちに踏み込んでこない川縁さんって、本当に居心地がいい相手なんです」

 他の人が聞いたら結構失礼な物言いに感じるんだろうなと思いながらも、その言葉の指すところが私にはわかっている。

 そっか。私、ここではこのままでも許されるんだ。

 先輩みたいに、担当している家に深く関わって家族みたいに扱われなくとも、私とこの子はこの家に対して同じ「ままならなさ」を抱えている。もっと肩の力を抜けばいいのに、そうなり切れない割り切れない気持ちを共有できたことで、こんなにも救われている私がいる。

「私、川縁さんが私のことを「恵深さん」って呼んでくれるの、結構好きなんです。ちゃんと他人として扱ってくれているんだなってわかるから」

「それは……ありがとうございます」

 どう反応していいか分からず、ぴょこんと頭を下げると、恵深さんは嬉しそうに笑った。

 残りの卵焼きを平らげると、恵深さんは部屋に戻っていった。「卵焼きを食べたことは、二人には内緒でお願いします」と言い残して。元からそんなつもりはなかったけれど形だけ「わかりました」と頷く。

 そのやり取りに込められた気持ちは、きっと私たち以外には理解できないものだ。でも、だからこそ落ち着く何かがあった。

 社会の中で生きている私たちは、きっとなにかの押しつけに我慢して生きている。だけど、そんな諸々に裏で舌を出すことくらい、許されたっていいはずだ。働きものの印象があるアリだって、実際は二割は怠けているって言うし。

 一人になって、仕事を再開しようとした私の足元に、柔らかいなにかが触れた。視線を落とすと、パンセが私のことを見上げている。どうしたのかと思えば、うろうろと私と餌皿の間を往復していた。どうやら、食事が足りなかったみたいだ。

 本当は、餌の量はあらかじめ決められている。何グラムと細かいことは言われていなけれど、皿にこれくらいと目安を伝えられて。

 なんだか今日はやけにご飯のお代わりを頼まれる日だなぁ。なんだかパンセの物欲しそうな目が恵深さんのそれに似ているような気がした。私に尻尾を振っているその姿を見て、初めて心の底から可愛い生き物だと思えた。

「内緒だからね」

 そう言って、私はパンセの餌皿にほんの少しだけドッグフードを足してやる。

 パンセは私に目もくれず、皿の中の餌にがっついていた。

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しろあり 青島もうじき @Aojima__

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