月と酔っ払い
尾八原ジュージ
酔っ払いに不可能はない
近づいてみると、湖はまるで海のようだった。
さざ波が湖岸に打ち寄せては引いていく。黒々とした水面に三日月が映り、輝きながらゆらゆらと揺れている。
ぼくの隣に立っている杏子が、無言で長い髪をくくり始めた。月明かりの下で、白い横顔がぼんやり浮かんで見える。
ぼくたちはこれから湖に入るのだ。
ぼくは湖面を見る。静かだ。この底知れない水底に、何かとんでもなく恐ろしいものが潜んでいないだろうかと、ふと不安になる。
「悪いなぁ」
そう言うと、髪をくくり終えた杏子が「なにが?」とぼくに尋ねた。
「こんなところに連れてきちゃって」
「こんなことでもしなきゃ、借金取りから解放されないでしょ」
杏子は「明日も今日と同じカレーだけど、いいよね」と言うときとおんなじ顔をしていた。ぼくのおやじが、ぼくに借金を押し付けて逃げたばっかりに――いやほんとにびっくりした。まさか実の親が逃げるとは――杏子にはいらない苦労をかけてしまった。
この週が明けたら、ぼくたちはその借金取りに、文字通り死ぬような目に遭わされることになっている。だから、この湖にやってきたのだ。
ぼくたちはそこらの石を拾うと、それぞれ帆布のナップザックに入れて背負った。体がずっしりと重たくなる。杏子は「太ってるんだから重くしなきゃ」と言って、僕のパーカーのフードとポケットにも石を入れてきた。冗談なのか真面目なのかよくわからなかった。
それが終わると、杏子は手にぶらぶらと提げてきたテキーラの瓶を口につけて、勢いよく傾けた。ラベルにはスペイン語で「酔っ払いに不可能はない」と書かれているのだそうだ。半分飲むと、彼女はぼくに瓶をよこした。金がないぼくたちに買うことができたのは、この一瓶だけだった。
思い切って喉に流し込むと、全身がカッと熱くなって、確かに何でもできるような心持ちになる。
「酔いがさめないうちにいきましょう」
杏子がぼくに言う。
「うん」
ぼくはうなずく。杏子はテキーラの瓶を湖岸に目印のように立てると、代わりにランタンを持った。そして湖の中に足を踏み入れ、ぼくを先導するようにざぶざぶと歩いていく。ぼくもその後に続く。
酔って火照った体に、湖の冷たい水が心地よい。杏子の体は腰から胸、肩とどんどん黒い水面の下に消えていき、とうとうぼくの目と鼻の先で、頭のてっぺんが見えなくなった。トプンという音を立てて水紋が広がった。
それから少しして、ぼくの全身も水に沈んだ。
デニムの尻ポケットから懐中電灯を取り出し、明かりを点ける。先に水没していた杏子が、ランタンをこちらに向けてかざした。
彼女の口から大きな泡が出て、こちらにふわふわと漂ってきた。ぼくの耳元ではじけると、彼女の声が流れてきた。
(聞こえる?)
ぼくは杏子の方に向けて、同じように口中から泡を吐き出した。それは彼女の耳元に流れていって、(聞こえる)と伝えたはずだ。
(急ぎましょう。酔いがさめたら息ができなくなる)
ぼくは右手の指でオッケーサインを作った。
湖はすりばち状になっており、ぼくたちはその側面をゆっくりと進んだ。水の透明度は極めて高く、暗闇に次第に目が慣れてくると、上空の月明かりで辺りのものが大方見えるようになってきた。ぼくと杏子は、銘々持っていた明かりを消した。
ぼくの爪先がなにかを蹴った。見れば人間の頭蓋骨である。無事に湖底を出ることができなかった酔っ払いのものだろう。よくよく辺りを眺めれば、あちらこちらから人骨らしきものが突き出している。
(結構潜ったやつがいるんだな)
(そうね)
ぼくらも慎重にやらなければ、彼らの仲間入りをしてしまう。そうこうしているうちに傾斜がどんどん厳しくなり、ぼくたちは斜面に埋まった骨を手がかりにしながら底を目指した。
急に杏子がぼくの手を引っ張った。
(うなぎ)
斜面にはいくつか浅い穴があり、ぼくたちはそこに小さくなって隠れた。見上げると、月光できらきらと輝く湖面の下を、全長5メートルはあろうかという巨大なウナギが、体をくねらせて泳いでいくのが見えた。あいつらは肉食だ。見つかったら最後、えらいことになるのは目に見えている。
ぼくと杏子は、ふたりがやっと入れるほどの穴に体を押し込め、抱き合って息を殺した。杏子の尖った唇から、透明な泡の粒がぷわ、ぷわ、と浮かんで、水面の方に消えていく。巨大なウナギの影は、しばらくその長い体で月光を遮っていたが、やがて見えなくなった。
(時間を食っちゃったな)
(急ぎましょう)
斜面の先には、すでに光が見えていた。白色のような金色のような、見ているだけで心が澄みわたるような美しい光だった。先人たちの骨にすがりながら、ぼくたちはようやく湖底に到着した。
光の中心には、三日月が落ちていた。
もちろん本物の月ではない。元々この湖底には、ただの三日月型の窪みがあった。夜になると月明かりが降り注ぎ、この窪みに溜まる。何億回かの夜を経、冷たく清らかな湖水に冷やされて、月光はこの中に結晶した。それがこの、湖底の三日月である。月光の結晶はとても貴重で美しいから、とんでもない高値で取引されているのだ。
ぼくが思わず見とれている間に、杏子はリュックから大きなナイフを取り出し、月の周囲を削り始めた。ぼくもハンマーを取り出してそれに続く。
月光の結晶は細いが、長さは1メートルほどもあった。こいつを掘り出して地上に持って行きさえすれば、借金をすべて返せる上に、玄孫の代まで遊んで暮らせるのだ。
カツンカツンという音が、泡に乗って湖に満ちていく。周囲の固い土や岩が少しずつ削られる。やがて三日月は地中から掘り出された。
(持ち上げましょう)
杏子がぼくの目を見て言う。
(よしきた)
ぼくたちは三日月の両端を持つと、(せーの)と掛け声をかけた。しかし、ふたりが全力を振り絞っても、少しも動かすことができない。三日月が重過ぎるのだ。いくら酔っぱらいに不可能はないと言っても、こんなに重いものを持って帰ることはできない。
(しかたない。少し削りましょう)
杏子がそう言ってナイフを振り下ろしたが、月はびくともしなかった。ぼくのハンマーも弾かれてしまう。
(全然ダメだ)
とうとうぼくたちは諦めて、三日月を枕に横たわった。こうやっているうちにも、テキーラの効力はどんどん失われていく。もう月光を持ち出すのは不可能だ。それどころか、ただ斜面を上がって湖面に顔を出すことすら、間に合わないかもしれない。
(しかたないでしょ)
ぼくの隣に寝転んでいる杏子が、ぼくの右手をぎゅっと握りしめた。
(こうなったらもう、ふたりでここで眠っちゃいましょうよ)
(死ぬよ)
(いいじゃない)
ぼくたちは横向きに寝転んだまま、互いの顔を見つめあった。
横目で上を見ると、月光が透き通った水の中に、まるで木漏れ日のように差し込んでいた。
杏子の頬の上にも、水面の美しい模様が浮かんでいる。彼女の口から泡が出て、ぼくの顔の前ではじけた。
(こんなきれいな死に方するなんて、思ってもみなかったね)
本当にその通りだね、と思った。ぼくは杏子の華奢な左手を握り、目を閉じた。
そのとき、杏子がものすごい勢いでぼくに抱きつき、そのまま左に転がった。
次の瞬間、ぼくたちがたった今まで寝ていた場所に、真っ黒で大きくて、ヌメヌメしたものが突っ込んできた。
がり、と岩を噛み砕く音が聞こえた。ウナギだ。開いた口の中に、ヤスリのような歯が並んでいる。周囲にキラキラと舞う月光のこまかい破片が、ウナギの凶悪な顔を照らす。
(うわぁ)
ぼくは情けない悲鳴をあげた。
杏子はぼくの手を振りほどき、素早くナップザックを背中から下ろすと、向かってくるウナギの鼻先に向けて投げつけた。ウナギは顔を横にそらし、ナップザックは湖底に落ちた。
(つかまって!)
ぼくは夢中で杏子の細い腰に抱きついた。彼女はいつの間にか手に持っていた大きなナイフを振りかぶると、こちらにむき出しになったウナギの首にそいつを突き刺した。
ウナギが大きくうねる。杏子は荒れ狂うウナギにナイフを刺したまま、もう一方の手では大きなヒレを鷲掴みにし、振り落とされまいと必死で組みつく。ぼくはその腰にしがみついているだけで精一杯だ。
ウナギが冷たい水を切って、湖面の方に泳ぎだした。水が渦をまき、冷たい魚体がぼくの体にぶつかる。もう完全に酔いがさめそうだ。
ぼくは目を閉じた。
気がつくと、ぼくは杏子と一緒に、湖岸に打ち寄せられていた。
「ウナギは!?」
ぼくは夢中で尋ねながら、立て続けにくしゃみをした。ずぶ濡れの全身が寒かった。
「湖に逃げちゃった」
杏子が残念そうに答えた。「惜しかった。あいつを捌いて売ろうと思ったのに」
「売れないよ。あいつ、絶対人肉食べてるもの」
「そうね……でも、振り出しに戻っちゃった」
ぼくたちは顔を見合わせた。なんだかおかしくなって、互いに笑ってしまった。もうテキーラもない。酔いもさめてしまって、再挑戦は不可能だ。それでもぼくたちは生きている。これからろくでもないことが起こるとしても、今はそれだけで愉快な気持ちだった。
月はまだ中天に輝いていた。それにしても辺りが明るいなと思った。
「あっ!」
杏子が叫んで、ぼくのパーカーのフードに手を突っ込んだ。
「これ」と言って差し出された手には、親指の先ほどの月光のかけらが、ひとつだけ載っていた。どうやらウナギの頭突きで砕けたものが、たまたま入り込んだようだ。
「これで借金くらい返せるでしょ」
「そのあとはまた無一文だけどね」
杏子は「なんとかなるわよ」と言って微笑むと、ぼくの首に抱きついた。
月と酔っ払い 尾八原ジュージ @zi-yon
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