第4話 巨人の足が降ってくる
「ね、明日のデートはどこ行く?」
気づけば、目の前に制服姿の少女がいた。
茶色い髪に、僕の肩くらいの背丈。嫌味なく整った顔。
何か劇的な変化の感覚があったわけでは無かったが、僕は思い出していた。
花添だ。
かなり近い距離から、こちらを覗き込んできている。
これは何だ?
僕は少し花添から距離を取りつつ、周囲を見渡す。
長く伸びる下り坂。一般的な大きさの家々。向こうに見える、真ん丸な夕陽。
いつかの、学校から駅までの道だ。
突然、左手が柔らかく包まれた。
見やると、花添がこちらにジト目を向けてきていた。
「もしかして、忘れてた?」
「……あぁ、ごめん。でも、今思い出したよ。全部」
「先週から言ってたのになー。 まあ、いいや。この間は水族館に行ったから、次はアウトドア系がいいよ」
噛み合わない話に首を傾げていると、花添はこちらに腕を絡ませてきた。柔らかい感触と、シャンプーの香りを感じる。
目と目が合う。
花添は、くりっとした目を照れたように細めた。
水族館という、聞き覚えのないワード。
まるで恋人かのような距離感。
そうか。
これは僕が見ている夢だ。
千回くらい過去をやり直せば、あり得たかもしれない現実だ。
花添の印象がかなり違うけれど、別におかしくはない。
花添だって、普通の女の子だ。
このまま甘い夢の世界に浸りたいと思う気持ちも、無くはないけれど。
僕には、まだやらなきゃならないことがあるんだ。
いい目覚めだった。
相変わらず誰もいない路地裏で、僕は身体を起こした。
眠る前までは折れたと思っていた脚が、今はちっとも痛くない。
探し物を見つけ出した爽快感もあって、今なら何でもできそうな気がする。
一つ伸びをした拍子に、僕は空を見る。
その空、もとい巨人の足は、かなり地上との距離を縮めていた。
ちょうど上昇していった鳥が、空に頭をぶつけてへなへなと落ちていくのをみた。
そう、今日は金曜日なのだ。
屋上に呼び出されて、花添に脅された日から、ちょうど二週間。
巨人の足が降ってくる日だ。
僕は、少し考えた後、向かう場所を決め、路地裏を飛び出した。
あそこなら、何とかなる気がする。
僕たちが初めて話した、あの場所だ。
たらたらと、額から汗が流れる。鼻からは、止まったと思っていた血が流れる。
全身ボロボロの状態で、僕は住宅街をひたすらに走っていた。
こんなことになったのは、電車が遅延していたせいだ。
まぁ、こんな格好で電車に乗って騒ぎになるよりかは良かったかもしれないが。
角を曲がった僕の前に立ちはだかったのは、嘘みたいに長い一本の坂。
全力でアスファルトを蹴飛ばして、それを登っていく。
その間、花添の思いが綴られた日記を思い出していた。
『六月十五日
今朝は、不思議な夢を見た。
自分の手も見えないほど真っ暗なところで知らない声に話しかける夢だった。
その声が言うには、私は天使に選ばれたらく、
一ヶ月後に降ってくる巨人の足から世界を守れとのこと。
しかも、私はその代償に死ぬらしい。
全く信じられないけど、ちょうどいい機会だからこれを機に日記を書き始めようと思う』
それから五日間分くらいは、ただの日記だったのだけれど。
『六月二十一日
何故だろう。
全く眠れない。
ベッドに入って目を閉じても、脳内にノイズが流れて寝付けない。ずっと、目が冴えている。
祖父たちの都合で引っ越した新しい家に慣れていないからだろうか。
一人起きている夜が、こんなにも寂しいものだと思わなかった。
カーテンの隙間からは、もう朝日が差し込んできてしまった。
今日から、新しい学校生活だ。憂鬱すぎる。』
『六月三十日
辛い。
もう嫌だ。
もう何日も眠れていない。
いくら食べても、空腹感が消えてくれない。
頭がガンガンする。
全身が、嘘みたいに重い。
ふと、十日くらい前の夢を思い出したんだけど、 流石に違うよね』
『七月一日
眠るでもなく横たわっていたベッドが、気づけば大量の血で濡れていた。
背中に激痛が走って、慌てて服を脱いで鏡の前に立つと、肩甲骨のあたりから真っ白な羽根が生えているのに気づいた。
鮮血を纏ったそれは、少しグロテスクだった。
仕舞うことは出来るみたいで、まだよかった。
どうやら、私は本当に天使になってしまったらしい。
それならば、私がやることは一つ。地球を助けることだ。
でも、体調を鑑みても、一人だけでするのは無理があるように思う。
だから、クラスにいる海原君に頼んでみることにした。あの人も、友達が居ないのだ。
舐められないように頑張ろう。
私なら大丈夫だ。出来る。出来るはず。』
それは、どうしようもない運命を背負わされた、普通の少女の日記だった。
ページを捲るに連れ、震えたような字と滲んだ涙の跡が増えていったけれど。
学校の前に着いた。
もう授業は始まっているため閉ざされている校門をよじ登り、土足のまま校内に侵入する。
幸い誰にも遭遇することなく、屋上の扉の前まで辿り着くことができた。
ドアノブに手をかけ、乱れた息を整える。
ふと、この体勢が二週間前と同じであることに気づいた。
でも、今回は向こう側から開けてくれる人が居ないのだ。
扉にゆっくりと体重をかける。目は、瞑っておきながら。
ぶわりと、僕の来訪を好まないような風が全身を撫でる。
空気の味が、少し違う。
いつもより密度が高いと言うか、なんとなく濃い気がする。
そんな微妙な違和感が、地球に起こっている異常を伝えていた。
視界を閉ざした状態でも、前方にいるのが誰かわかった。
「花添?」
一瞬の沈黙。
そして響く、トライアングルみたいな声。
「何で……海原君が」
「何でだろうな。正直、僕もよくわかんないよ」
一歩ずつ、声のする方に歩み寄っていく。
花添が身体を固まらせた動きさえ、何となくわかった。
「出来れば出て行って欲しいんだけど」
「嫌だ」
「ほんと、邪魔だから出て行ってよ」
「嫌だよ」
「……何でここまで言われて平気なの?」
「誰かさんのお陰で慣れっこなんだよ」
笑い飛ばして、僕は花添の手にそっと触れた。
天使だからか知らないが、花添だけは目を瞑ってもわかる。
今向けられている、呆れたような笑みだって。
「慣れちゃうなんて、かわいそうだね」
「ほんとだよ。僕はもう、キツイ言葉に快感を覚え始めてるまである」
「……きもっ」
この空間が、二人の笑い声だけで包まれた。
安心感で涙が溢れそうだ。
僕より少し長く笑った花添が、手を握り返してきた。
「じゃあ、行くけど。どうなっても知らないからね」
「うん、構わないよ」
「それじゃ」
ふわりと、身体が浮き上がる。
周囲にあった音が、どんどん消えていく。
宇宙空間に投げ出されたみたいな、不思議な感覚だった。
「ここだよ」
隣から花添のハキハキとした声がする。
しかし、何とも実感がわかない。
視覚情報がないせいで、空気が美味しいことと、静かなことしか感じられないのだ。
僕は曖昧に「そうか」とだけ返しておいた。
「ちょっと座ろっか」
言われたとおり腰を下ろすと、屋上のコンクリートとは違う感触がした。
「ここ、どこなんだ?」
「巨人の足の上だよ」
予想していた回答ではあったが、それでもリアクションをしづらかった。
「ね、海原君はさ、私のこと好きなの?」
「は?」
思わず目を見開きそうになった。
一週間前みたいにあの羽を見て記憶を失うことがないよう、閉じてるというのに。
「いやさ。一回私のこと忘れたのに、そんな傷ついた格好で会いに来たからさ」
「あぁ、そういうこと」僕は少し考えて続けた。
「別に、好きではないと思うな。むしろ苦手かもしれない。脅されたり、急に記憶を奪っていなくなったり、色々されたからな」
「え……」
予想以上に狼狽えた声が、少しおかしかった。
「でもな、僕は花添よりも、花添以外の人間が嫌いなんだよ。……だから花添が居なかったら、僕は嫌いな奴らだけに囲まれて生きなくちゃならない。そんなのは、嫌だよ」
花添に出会うまでは、そんな風に思える相手はいなかった。
わざわざ巨人の足の上に来ることになってまで、会いたいと思える相手なんて。
今度は、ふっと笑った声が聞こえた。
「ははは。何それ、相対的な告白?」
笑われたことに反論しようと思ったけど、よく考えたらさっきのセリフは意味がわからない。
結局、僕も一緒になって笑うことにした。
けらけら、ははは、と笑い声が輪になって広がった。
もう何が面白かったのかも忘れて、忘れたことさえもおかしくて、僕達は笑った。
その勢いで、僕は言いたかったことを言うことにした。
「なあ、花添?」
「なに?」
「どうしても、世界って救わなきゃならないのか? いっそのこと全部壊しちゃおうよ」
「それもいいかもしれないね」
「そうすれば、僕達二人だけの国の完成だ。誰にも煩わされず、ずっと一緒に暮らせる」
「夢みたいだ」
「高層マンションとかにも住んでみてさ。でも結局性に合わなくて、小さいアパートに引っ越すんだ。それで部屋が一杯になるくらい本棚を置いて、二人でコーヒーでも飲みながら、ずっと本を読むんだ。……それで……それでさ」
ふと、頰に柔らかい手の感触を感じた。それは上に伸びていき、僕の頭を子供をあやすみたいに撫でた。
「海原君の話は最高だよ。私の理想。……でも、ダメなんだ」
「何でっ!」
「目を開けてみて。大丈夫だから」
言われたとおり、瞼を開く。
まず飛び込んできたのは、大きくなった瞳孔を刺激する眩しい光。
そして次に、三角座りをする花添の姿があった。
天使の象徴である羽根が真っ直ぐに伸びていたが、それ以上に目を引かれたのは、花添の一糸纏わぬ姿だった。衣服は、巨人の足とやらに脱ぎ散らかされている。
目も眩む純白の肌に所々混ざる、鮮やかな赤色。こうして見ている今にも、細長い赤が落書きでもするみたいに追加された。
花添が、痛みを堪えるように顔をしかめた。
「あんま、見過ぎないでよ」
「……悪い」
こんなことしか言えない自分が嫌になる。
さっきまで呑気な夢物語を語っていた自分が、心から恥ずかしかった。
花添と一緒に居ることさえ出来れば、何とかなると思っていた。……でも、これでは。
「今は身体だけど、多分これからどんどん心の方を蝕まれていくの。だから、海原君には見られたくないよ」
衣服を身につけながらそんなことを言う花添。
僕は、その白い手を掴んでいた。
「着替えられないよ」
「嫌だよ。苦しんでる花添を見捨てるなんて、もう絶対に嫌だ。だからさ、最後まで見守らせてくれ」
「……でもさ、私何言っちゃうかもわからないんだよ」
「好きなだけ言ってくれて構わない。全部受け止めるから」
そう言って頷くと、花添は着替えも途中に僕の胸に飛び込んできた。
むせび泣く花添の頭を、僕は撫で続けた。
「もう、大丈夫そうか?」
「……うん」
花添の溜めていた涙が空っぽになったのは、もう太陽が赤くなり始めた頃だった。
本物の夕陽に顔を赤くした花添を、綺麗だと思ったのは仕方のないことだろう。
「何、見惚れてた?」
ニヤニヤと笑う花添に「さあな」と返してやる。
「そんなことより、大丈夫ならそろそろ離れてもらっても?」
意味がわからないという風に、目を丸くする花添。
「さっきから、その、当たってるんですよね。もろに」
すぐさま落ちていた服を拾い上げ、花添は身体を隠した。
より一層、赤くなった頰。
「……きもっ」
「あぁ、嬉しいよ」
噛みしめるようにいう僕に、花添が一言。
「そういうのがきもいんだよ、ほんと。……でも、ありがとね」
それから三十分後に花添は精神が崩れ始め、更に三十分後には、もうこの世に彼女はいなかった。
花添が旅立ってすぐ、僕はこの屋上に戻された。
下手くそながらも、なるべく花添が楽しめるように会話を盛り上げようと努めた。
それで、いつも通りでいいよ、と言われてしまったのだから元も子もないけれど。
花添が苦しみだしてからは、手を握っていた。
横になって呻いたり、暴れだしても、僕は彼女を強く抱きしめた。
急に目元が熱くなってきて上を見上げれば、そこには本物の空がある。
花添曰く、巨人の足の上に行った時点で、地球を救うことには成功していたらしい。
それでもう天使としての能力は失われ、残ったのは代償だけだった。
だから、僕は花添を見ても何も起こらなかったのだ。
僕は、花添のために最善を尽くせたのか。
もしかしたら、花添が今も笑っていられる未来があったんじゃないのか。
それが無理でも、もっと彼女の人生に花を添えられたんじゃないのか。
多分これらは、僕に一生ついてくる問いだろう。
上等だ。
望んで背負って生きてやる。
僕の記憶に花添が残っている限り、どこまでも生きていける気がする。
もしもまた巨人の足が降ってきても、きっとそれは変わらない。
もしも空から巨人の足が降って来ても @rokunanaroku
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