第3話 死んでしまいたいほどに、生きたい

 そこには、もう誰もいなかった。

 ……って何だ?

 まるで、誰かがいると思っていたみたいだ。

 でも、僕は今、確か一人で買い物に来ていただけのはず。

 ……ダメだ、そこにいたのかなんて思い出せない。

 思考を早々に放棄した僕は、何故か釘付けになっていた横断歩道から、何となく視線を下にずらす。

「うわぁぁっ!」

 僕のすぐ前の地面に、小汚い嘔吐物が散らばっていた。

 あまりそれが視界に収まらないようにしつつ、距離を取る。靴の裏を見てみたが、踏んでしまった形跡はなかった。

 数分前の僕は、これほど豪快に吐き捨てられた嘔吐物に気づかなかったのだろうか。

 それに、どうして地面に膝をついていたんだ?

 わからない。

 中々治ってくれない寝癖みたいなもどかしさがある。

 ……まあ、それは一旦置いておこう。

 そんなことよりも、さっきから頭痛がひどい。

 寒くもないのに、身体の震えが止まらない。

「とりあえず、帰るか」

 僕は、買い物を中断して、その場所を後にした。

 何となく、後ろ髪を引かれる思いが残っていた。



 肌を気味悪く撫でる暑さで、僕は目を覚ました。

 ここは、自室のベッドの上。

 何となく頰に違和感があって触れてみると、指先が少し湿った。

 眠っている間に、泣いてしまっていたらしい。

 ここ最近、こんなことばかりだ。

 一週間以上前に、気づけば駅前に跪いていて、嘔吐物と対面した時以来。

 身体を起こそうとして、やっぱりまたベッドに沈んだ。

「学校、休もうかな」

 僕は、そう呟いていた。



 次、目覚めたのはちょうど昼を過ぎた頃だった。

 今度はちゃんとエアコンをつけておいたから、暑くない。

 それでも起きたのだから、多分もう眠れないのだ。

 僕は起き上がり、部屋を出て、一階のリビングに向かう。

 両親は共働きのため、この時間には誰もいない。

 母親はこの間まで僕が学校をサボるのを許さなかったのだが、今では何も言われない。

 もう、見放されたのかもしれない。別にいいけど。

 どしんとソファに腰を下ろしてすぐ、ぎゅるぎゅるとお腹が鳴った。

 別に、空腹感は感じていないけれど。身体の方は、違うらしかった。

 流石に、冷蔵庫の中を勝手に漁る訳にはいかない。

 僕はため息を一つつき、コンビニに行くべく部屋を出た。



 適当なパーカーを羽織って、コンビニまでの道を辿る。

 頻繁に通る道だから、何も考えなくてもどこで曲がればいいかがわかる。

 だからこそ、目を背けたいことに考えが及んでしまった。

 一週間前、僕の身に何が起こったのか。

 思い出したいけど、意識するだけで辛くて。

 だったら考えたくないと放置しようとすれば、出所のわからない後悔と吐き気が押し寄せてくる。どうしようもなく、殺してしまいたいほど、自分が嫌になる。

 そんな感情が今日は特に強かった。

 そのせいで、下ばかり見て歩いていたから。

 コンビニの自動ドア前にいた、柄の悪そうな三人組に気付かなかった。

 その内の一人と、肩がぶつかってしまった。

「おい」

 苛立ちを隠そうともしない声。

 僕の口からは、気づけば舌打ちが漏れていた。

 途端、勢いよく胸ぐらを掴まれ、僕はほとんど足が浮いた状態になった。

 それで初めて、その男の顔を見た。

 ギラギラに染められた金髪。獲物を威嚇するように細められた目。この状況を楽しんでいるのか、不自然につり上がった口角。

 後ろの二人も、似たような奴だ。

「ぶつかってきておいて、舌打ちは無いんじゃねえのか、なあ?」

「あんた達が自動ドアの前に突っ立ってるのが悪いんじゃないか。邪魔なんだよ」

 服を掴む力が、急に強まった。首が絞まって、息苦しくなる。

「ちょっと来い」

 すぐに、三人の男に囲まれた僕。

 周囲の人々は、見ても気付かぬふりをするか、そもそも見もしないかのどちらかだ。

 仕方なく、ついていくほかなかった。



 地に這いつくばった僕の頭に、繰り出される蹴り。

 思わず目を瞑れば、鈍い痛みの後、ぐわんぐわんと脳が揺れた。

 何発も殴られ、蹴られ。もう、痛みに慣れてきた。

 いきなり腕を持たれ、無理やり身体を起こされる。二人掛かりで押さえつけられた状態。正面には、やはり愉快そうに笑う男の姿があった。

 振りかぶって、腹に拳を一発。

 内臓がひっくり返るみたいで、気持ち悪くなる。吐きそうになったものを何とか飲み込んだ。

 今度は鼻頭に一発。

 ふらりと気を失いそうになる。鼻からも口からも、血が出てくる。

 この時間帯はほとんど人通りのない路地裏で暴力を振るわれながら、僕はどこか上の空だった。

 痛いけど、気持ち悪いけど、別にいい。

 そうだ、いっそこのまま殺してくれればいいんだ。

 それなら僕は死ねて、ムカつくこいつらを殺人罪に問えるかもしれない。

 僕の、どこまでもダサい完全勝利だ。

 名案を思いついたところで、急に身体を離された。自分で立つ力なんて残っておらず、そのまま汚い地面に寝転がることになった。

 そのまま視線だけ動かして、僕は男達がこの場を去ろうとしているのを知った。

「おい」僕は言った。

 男達が、振り返る。B級映画の下っ端ヤンキーみたいな三人に、乾いた笑みが漏れた。

 そんな奴らにボコボコにされる僕なんて、もっと愉快だ。

「もう終わりかよ。ビビってんのか?」

「はぁ?」

「殺せよ。いいから殺せよっ!」

 こんな、どうしようもない僕なんて。

 全部知っていながらも、救ってあげられなかった。

 の隣にいることさえ出来なかった僕なんて。

 滲んだ涙で霞む視界に捉えたのは、振り上げられた男の脚。

 それは、ボールを蹴るみたいに降りてきて、僕のすねを強打した。

 今日一番の痛みだった。その痛みは、全身を貫いた。

「あんま調子乗んなよ。マジで脚折るぞ」

 僕を蹴った男のものと思われるその言葉が、とても遠くに聞こえた。

 脳がパニックを起こして、ぷしゅぷしゅと音を立てているみたいだ。

 立ち上がろうとしても、脚が上手く動いてくれない。

 そうだ。

 、すねをやられてしまったのだ。

 だんだんと瞼が降りてきた。

 全身が死ぬほどに痛い。

 でも、死ぬにはまだ早い。

 今の僕は、死んでしまいたいほどに、生きたいと思っていた。

 何言ってるかわかんないけど。

 いつのまにか周囲から音がなくなっていた。あいつらも去っていったらしい。

 この静けさは、昼寝にちょうどいい。

 そう思い、僕は瞼を閉じきった。

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