第2話 そこには、もう誰もいなかった。
名前も知らない虫が群がる蛍光灯。
じーじーとうるさい、耳に触る何かの音。
一人で夜道を歩く僕の意識には、そんな訳のわからないものばかり飛び込んでくる。
整理されていない脳が、無秩序なものを求めるからだろうか。
今は、花添の家からの帰り道。
日記を読んだあと、気を紛らわすように物語の世界に沈んでいて、気づけば空には夜の帳が下りていた。
それほどまでに本を読み耽っても、頭に浮かぶのは花添の日記のこと。
意味のわからない花添との関係が、より難解になった気がする。
僕は、どうするべきなのだろうか。
気づけば脚が止まっていて、目の前には見慣れた建物。僕の家だ。
ここぞとばかりに、空腹感が襲ってきて、花添に関する思考を吹き飛ばそうとする。
まるで逃げるみたいに、そそくさと家に駆け込んだ。
その翌日、僕達は特に連絡を取り合わなかった。
ベッドの上、言うことを聞かない瞼に抗っていると、枕元でスマホが鳴った。
手探りでそれを掴み、受話器ボタンをスライドした。
「今日、海に行くから。九時に集合ね」
「急に何だよ……。というか、今日は月曜日だぞ」
「うん、だから?」
「だから? って。一応学校があるの知ってる?」
「うん、そんなの休めばいいじゃん。どうせ海原君、友達なんていないでしょ」
それは、もっともなのだが。
僕は、すっかり眠気が覚めたのを感じていた。
確かに、僕は別に学校が好きなわけではない。正直、ずっと家に引きこもっていた方がマシだ。
それでも、僕はほとんどサボったことがない。何故か。
「……正直に言うとな、親がうるさいんだよ」
自分で言いながら、少し情けなくなってきた。だけど、実際にそうなのだ。僕の母親は特に厳しくて、学校でも何でも、サボることを許してくれない。
「確かに、大変かもしれないけど……。何とか来れない?」
「えっ?」つい間の抜けた声が漏れた。
「何?」
怪訝そうな声色。
「いや、花添が僕の家庭事情を心配してるのが意外すぎてな。正直、ちょっと寒気がした」
「……地面を這ってでも、血を吐きながらでも来て。来なかったら動画をばら撒く。以上」
ぷつり、と一方的に電話を切られた。
冷たい口調のせいで、室温が数度下がった気がする。
僕は制服に着替えて、諸々の準備を整えてから部屋を出た。普段より格段に軽いリュックを背負いながら。
メールで送られてきた指示の通り駅に向かうと、すでに花添は立っていた。
垢抜けた私服を着こなして、スマホもいじっていない花添の出で立ちは、そこらの大学生よりも大人びて見える。
数メートル程まで距離が縮まったところで、花添はこちらに気づいた。
そして、もう慣れてしまった、僕を馬鹿にするような視線を向けてくる。
しかし、ニヒルに歪められた唇の色が薄いのは気のせいではないだろうが。
「何で、制服を着てるのよ。そんなに学校が好きなの?」
「私服で家を出たらバレるからだよ。あと、僕は学校なんて嫌いだ」
「安心して。学校も多分、海原君のことが嫌いだよ」
今朝馬鹿にしたことを絶対根に持っているぞ、こいつ。
ふん、と鼻を鳴らして改札へと向かう花添に僕も続いた。
テレビで見た東京の満員電車ほどではないが、僕が住む街の電車もそれなりに混む。
平日の朝ともなれば尚更だし、加えて今日はいつもの登校とは逆路線に乗っているわけで。
大きめの駅に止まった瞬間、大量の人が雪崩れ込んできた。全くの予想外だ。
周囲を見渡せるくらいの余裕はあった車内が、一瞬にして人で埋め尽くされていく。
「何これっ……人がゴミのようだよ」
「僕たちもその一部だけどな」
大波に流されるように後退した僕だったが、ついに背中がドアに当たった。隣の花添も同様だ。
少し迷った挙句、僕は花添の身体を僕とドアとの間に引っ張った。
途端、車体が揺れたので僕は慌ててドアに手をつく。図らずも、花添に覆い被さるような体勢になってしまった。
じっと、上目遣いにこちらを見つめてくる花添。
いや、身長差があるから上を向いているだけだろうけど。
どう曲解しようとしても、整っているとしか言いようのない顔がすぐ近くにあり、何とも落ち着かない。
「別に他意はない。仕方なくだ」
「……そう。ありがと」
淡々とした口調を心がけつつも、声が上ずってしまった。
頰が嘘みたいに熱くなってきて、花添から目を逸らす。
僕の逃げ場を無くすみたいに、車内の冷房はしっかりと自らの役目を果たしていた。
肉体的にも精神的にも疲労が溜まった僕は、電車を降りた後、のろのろと花添の後ろを追いかけていた。
田畑に挟まれた一本道。頭の近くを飛び回る小さい虫たち。遠くの方に見える、背の低い民家。
田舎のお手本みたいな場所だ。実際、この駅に着くまでに車内にいたのは僕たちを除いて二、三人ほどだった。
鼻腔を撫でる空気がほんのりと塩気を含み始めたころ、花添は立ち止まった。
そのバックに広がるのは、ため息が出るほどに壮大な海の青色。
「今日は、一つ手伝って欲しいことがあるの」
声の硬度が少し下がっているところからして、今朝ほど機嫌が悪くはないらしい。
花添の話を聞き終えた後、僕は頷いた。
「わかった」
「え、意外だなぁ」
「何が?」
「もっと渋られると思ってたから」
「…………。失礼だな、僕は都合がいいんだよ」
はははと笑う花添の横を通って、海へと向かった。
眼下に広がる砂浜のクリーム色が、妙に眩しく感じられた。
この砂浜には、僕たち二人を除いて誰もいない。田舎である上に海開きがまだだからだと、花添は言っていた。
打ち寄せた波が、何も着けていない足をひんやりと濡らし、また引いていった。
僕は今、かなり海に近い砂浜に立っている。制服は、身につけたままだ。
「準備はいい?」
十五メートルほど後ろから、花添の声がかかる。
僕は振り返り、親指を立ててみせた。
「いくよー!」
またも背中にかかる、ハキハキとした声。
途端、それに覆い被さるように轟音が鳴り響いた。身体に直接響いて、心拍を狂わせるような力強い音が。
いや、違う。本当は無音だ。
でも、そんな幻聴がするような光景が、目の前には広がっていた。
海が、割れていった。
何かの手に動かされるように、真っ二つに。
気づけば、僕の目の前には、青い双璧に挟まれた一本の道が出来上がっていた。
まるで、アニメか何かの世界みたいだ。
振り返ると、そこには目を瞑り、両手で耳を塞いだ花添の姿。
何かに祈るような、何かから耐えるような、そんな風な表情を浮かべている。
「待ってろ」
ぽつりと呟いて、僕は正面に向き直る。
そして、竦む両足に鞭を打ち、海底を全力で駆け出した。
深い所の海底に直接脚をつくという、もう一生出来ないであろう経験は、開始1分ほどで終わりを告げた。
進行方向に転がる、ピー玉くらいのサイズの青い玉。これが、今回の目的だ。
僕はそれをそっと拾い上げ、また元来た道を駆けた。
「もう終わったぞ、花添」
さっきと同じ体勢でいた花添に声をかける。
返事が無いので少し身体を揺さぶってみると、花添はようやく目を開けた。
「あ、海原君。ありが、と……」
言葉の途中で力が抜けたように倒れこむ花添。
僕は間一髪、花添の身体を受け止めることに成功した。
「おい、大丈夫……」
僕も、途中で言葉を止めた。
腕の中の花添は、二日前みたいに目を開いたまま、穏やかな呼吸をしていた。
ただ一つ違うこと。
それは、僕が花添の事情を少しだけ知っているということだ。だから、焦ることはなかった。
「……仕方ないな」
海底で拾った玉をポケットに押し込み、全く反応を示さない花添を背負った。
シャンプーの香りのする茶髪が頰をくすぐり、背中には柔らかい感触が襲ってくる。
それらを全て思考から排除しつつ、僕は砂浜を出て辺りを見渡す。
ちょうど影になりそうな場所を見つけた。またも、バス停だったのは何の縁だろうか。
そこのベンチは花添を寝かせるともうスペースがなくなり、僕は仕方なく立つことにした。
何となく、ポケットからあの玉を取り出してみる。
それは、いつのまにか元に戻っていた海よりも、頭上にある偽物の空よりも、ずっと綺麗な青だった。
花添が意識を取り戻したのは、肌を撫でる風が徐々に涼しくなり始めたころだった。
「おはよう」
「ん、おはよぅー」
ぐしぐしと目を擦る花添。
その目の前に、僕は青い玉を差し出した。
花添はその玉を手に取り、何度か沈みかけの太陽にかざした。
「……本物だ。その、手伝ってくれてありがとう。助かったよ」
「どういたしまして。また、何かあったら言ってくれ」
「……じゃあ、コンビニに行きたいな」
「コンビニ?」
「そう。ショートケーキ食べて、ココア飲みたい」
よいしょ、と立ち上がろうとした花添だったが、途中でバランスを崩した。
また横から支えてやると、花添はするりと僕の手を抜け、歩き出した。夕陽に照らされ赤くなった花添の背中を僕はすぐには追えなかった。
「なぁ、花添。お前」
「私は何でもないから。何も言わないで」
脳を直接刺すかのような、鋭い声。
言い返そうとしても、喉が焼かれたみたいに言葉が出てこない。
言いたいことがあるはずなのに。
痛い。
話そうとすればするほど、頭を巨人に握りつぶされるみたいな、言いようのない痛みが走る。
「僕はアイスでも食べようかな」
逃げるように呟いた僕に、花添は振り返り、満足げに微笑んだ。
何故だろう。
その笑みを見ただけで、心臓を震わされるような気分になった。
さっきみたいに痛くないけど、でも苦しい。辛い。
それでも歩き出す花添に、僕もついていく。
紺色のアスファルトには、偽物の夕日が作った欺瞞の影が二人分、伸びていた。
コンビニに寄って小腹を満たした僕達は、電車に揺られて最寄駅前まで着いていた。
あれから、痛みに襲われることはなかった。
花添は何も言わなかったし、僕も何も聞かなかったからだ。
時刻は午後九時。
駅前を通る人の大半は、顔に一日分の疲労を滲ませている。
燃料切れは僕達も同じで、ここに着いてからずっと、駅前のベンチに並んで腰を下ろしている。
朝からちゃんとした食事を取ってなかったことに、落ち着いた今になって気づいた。
「なあ」
「ねぇ」
二人の声が、ちょうど重なる。
僕は手で先を促した。
「じゃあ」
花添は正面を向いたまま、語り出した。
「巨人の足が降ってくる日までの間、もう私に会わないで欲しいの」
一瞬、何を言ったかわからなくて。
理解しても、もやもやが残る。
「……でも、まだ手伝うこととかあるんじゃないのか。二週間の間はこき使うって言ってただろ」
「もう大丈夫。あとは、私一人でも何とかなるよ」
へらりと笑う花添の華奢な肩を、気づけば僕は掴んでいた。
「花添、体調崩してるだろ。今もこんなに熱いし。病人を放っては開けないよ」
「ちょっと今日は動きすぎただけだから。心配しないで」
「今日だけじゃないだろ。何日も前から体壊してること、知ってるんだぞ」
言い終えてから、しまったと思った。
僕が花添と関わりを持ち始めたのは、まだ三日前。
それなのに何日もなんて表現を使うのは不自然だ。
直接ではなく、何かしらの方法で花添のことを知ったという結論に至ってもおかしくはない。
引き結ばれた花添の唇が、ゆっくりと開けられた。
「……痛いよ。離して」
無意識のうちに、肩を握る力が強まっていたらしい。
「悪い」と言って僕は手を離した。花添のジャケットに、シワができてしまっていた。
「日記、見たんだ」
「ごめん」
「……そう」
もっと、感情露わに怒るのだと思っていた。
いつもみたいに。
でも、そんなことはなくて。沈黙が、今は辛い。
花添が、立ち上がった。
そのまま、僕を置いて歩き出す。
追わなきゃ、と反射的に思って腰を上げる。
脚を前に出そうとして、一歩も動けなかった。
花添は横断歩道のど真ん中にいた。
向こうに見える信号機は、彼女を咎めるように赤く光っている。
別に、そんなことはどうでもいい。
微小な月の明かりのみに照らされた花添の背中。
そこに、白いそれはあった。
その白は、周りの暗闇を瞬く間に飲み込んでいく。
じわじわと侵食。
貪欲に捕食。
涎を垂らす肉食獣のような、光。
遂には、僕の身体にさえ入り込んできた。
それは、値踏みするかのように体内を動き回る。
すぐに、どっちが前で、どっちが後ろかわからなくなる。
立っていられなくなって、僕は膝から崩れ落ちた。
視界がチカチカと白くなる。
そんな白さえも、溢れ出た涙でぼやけた。
何の涙なんだろうか。どうしようもなく、虚しい。
吐き気を催してくる。
と、思った時には、胃の中のものを全部ぶちまけていた。
もう胃は空っぽなのに、まだ吐き足りなくて、僕はひたすらに空気を吐き続けた。
どれだけの間、そうしていたのだろうか。
霞む視界に、さっきの横断歩道を捉える。
そこには、もう誰もいなかった。
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