町屋に謝って家に帰ってきた頃にはすっかり日が落ちてしまっていた。家の鍵を出すため鞄を漁っていると、誰かの話し声が聞こえた。

 瑠香の声だ。

 その二人の姿を確認した瞬間、急いで塀の陰に隠れた。何故って、それは瑠香と彼氏だったからだ。

「ごめんね。わざわざ家まで送ってもらっちゃって」

「いいんだよ。暗いし、一人だと危ないだろ」

「うん。ありがとう、■■君」

 耳を塞ぎたかったが我慢した。久しぶりに聞く瑠香の声が、嬉しいようで嬉しくない。それが他の誰かに向けられていると思うだけで駄目になってしまいそうになる。

 なるべく会話の内容を聞きとらないようにしながら、音だけに耳を傾ける。はっきり何かを聞いたら、それこそ発狂するかもしれない。

「————」

「——? ————」

「————。——」

 外だっていうのに随分長く話しこんでいる。俺は苛々しながら、それが終わるのを待つ。

 ふと音が止んだ。でもそれは、話を終わらせるには不自然な間だった。

 それだけで、恋人である二人の隙間に何もないことがわかってしまった。そしたらもう、今度こそ本当に耐えきれなかった。

 気付けば俺は塀の陰から飛び出して、瑠香の腕を掴んでいた。瑠香とその彼氏の目が驚きに見開かれる。

「え、正ちゃん? どうして……」

「帰ってくれ」

 彼氏の顔を見つめながら言う。瑠香が、え、と驚きの声をあげた。

「何言ってるの、正ちゃん」

「なあ、帰ってくれ」

 彼氏は何か言いたげな顔をしたが、気にせず俺はもう一度大きな声で帰りを促す。彼はまだ不満そうだったけど、やがて小さく瑠香に会釈をして去って行った。

「正ちゃん、突然どうしたの、あんな……」

「瑠香、あいつと別れてくれ」

「え?」

 困惑している瑠香と向き合い、彼女の両腕を掴む。もう痛くないようにとか、そんなことに構ってられなかった。

「無理なんだ、瑠香。俺はお前がいなきゃいやだ。お前が誰かに取られるのもいやだ。……俺と、ずっと一緒にいてほしい」

 それは聞きようによっては告白に聞こえたことだろう。でも俺たちは知っている。それが、そんな生温いものじゃないって。

 瑠香が、何かを堪えるように息を吐いた。

「……正ちゃん」

「ああ」

「とりあえず、手、離して。逃げないから。家の中で話そう」


 久しぶりに来た瑠香の部屋は何も変わらなかった。散らかった棚も、飾られた写真も、全部そのままだ。

 でも、瑠香は変わってしまっている。デートのためなのか、瑠香は短いスカートを履いて、可愛い格好をしていた。俺といる時はいつもティーシャツに短パンみたいなラフな服ばかり着ていたから、その変化に少し戸惑ってしまう。

「座って」

 瑠香はベッドに座って、俺は座布団の上に腰を下ろして向き合った。どちらの部屋にいる時でも、それが俺たちの定位置だった。

「さっき、別れてほしいって言ってたけど……」

「ああ。あいつと別れてほしい」

「なんで?」

「あいつと付き合ってるから、俺と遊んだり、一緒に登下校したりできないんだろ。それが困る。だから、別れてほしい」

 瑠香が口をすぼませた。それから言葉を探すように視線を彷徨わせて、ため息をつく。

「あー……正ちゃん」

「なんだ」

「それ、すごく勝手なこと言ってるの、わかるよね?」

「わかる。俺にこんなことを言う権利はない。でも、どうしてもそうしてほしい」

 結局、俺は瑠香を諦められなかった。瑠香と恋人にはなれないけど、でも、だからといって側にいられないというのは違うと思ってしまう。恋人には敵わなくても、二人で過ごした十七年にはそのくらいの重みがある、はずだ。そうなのだと信じたい。

「……正ちゃんさ、言っとくけど、別れても同じだと思うよ」

 瑠香は暗い顔で言った。

「正ちゃんは私とずっと一緒にいたいみたいだけど、そんなの無理だから」

「無理かはわからないだろ」

「わかるよ。だって私、正ちゃんといたくないもん」

「……え?」

 自分の顔から血の気が引くのがわかった。気まずそうな顔をする瑠香が嘘を言っていないのはわかる。だから俺は慌てて身を乗り出した。

「な、なんでだよ! 俺のこと嫌いなのか!?」

「嫌いじゃない。好きだから、一緒にいたくない」

 意味がわからない。俺が瑠香のことを好きで、瑠香が俺のことを好きなら、そんなのハッピーエンドじゃないか。

 瑠香は泣きそうな顔で言った。

「正ちゃんはそうならないかもしれないけど、私は正ちゃんのこと好きになっちゃうんだよ」

 瑠香が泣きそうな理由も、その言葉の意味も、何もわからない。ずっと一緒にいたはずなのに、初めて見る表情ばっかりだ。

「……正ちゃん、わかってないでしょ」

 でも瑠香は俺のことをよく理解しているから、俺の混乱具合がわかったらしい。ため息をついて、彼女はベッドに上半身を倒れ込ませた。枕を手で弄びながら、呟くみたいに話し出す。

「一回、付き合ったことあるじゃん。正ちゃんと、私」

「……ああ」

「私は正ちゃんのことずっと好きだったから、告白されて嬉しかったの。ああ、やっと、友達じゃなくて恋人になれるんだーって」

 瑠香の声には抑揚がない。多分、泣くのを我慢しているんだろう。俺のせいで我慢させている。

「でもさ、ほら。一回だけ、キスしたことあったでしょ?」

 ちらりと、瑠香がこっちを見た。

「……ああ」

「あの時の正ちゃんの顔、すごい酷かったんだよ。真っ青で、気持ち悪くて仕方ない、みたいな。挙句の果てに吐いちゃうしさ。私、正直傷ついたもん。そんなにいやだったのかって」

「それ、は……ごめん」

「あ……ううん、違うの、謝らないで。謝って欲しかったわけじゃなくて……」

 瑠香が体を起こした。その拍子に、彼女の瞳から水滴が溢れる。あ、と思った時には、それはもう抑えきれないくらいの量になっていた。

「う……あぅ……っ」

「る、瑠香、ごめん、俺に悪いところがあったなら直すから、」

「そういう話じゃない、よ……」

 俺は何も言えずに瑠香が泣き止むのを待つ。こんなに泣いている瑠香を見るのは初めてだ。小学校の頃の事件の時も、瑠香はついぞ俺の前で泣くことはなかった。

 しばらくして、落ち着いたらしい瑠香が深呼吸をした。

「……正ちゃんは、私と恋人にはなれないでしょ」

「……なれないことはない、はずだ」

「じゃあ正ちゃん、私とキスできる? それ以上は?」

「それ、は……できない、けど」

「そんなの恋人って呼ばないよ」

 瑠香が自嘲するみたいに笑った。そんなことはわかっている。でも、虚勢ぐらい張らせて欲しかった。

 俺にそれはできない。きっとまた吐いてしまうし、何よりそうしたいと全く思えない。そういう風に、瑠香のことを想えない。

 ふと、俺はただ、俺に恋する瑠香を受け入れられないだけなのではないかと思った。俺は瑠香のことを愛しているはずなのに、その目を見れば、俺のそれが彼女とは決定的に違うことがわかってしまう。あんな熱に焦がされたら、気が狂うかもしれない。だから、恋愛自体にさえも拒否反応を起こしている。

 どっちなのだろう。あの出来事のせいでこうなったのか、それとも最初から俺に恋愛なんか無理だったのか。はたまた両方か。

「……私は、正ちゃんと付き合いたい。キスだってしたいし、ぜんぶ私とじゃなきゃやだ。でも、絶対望みないじゃん。それがわかってて側にいるって、そんなの、馬鹿みたいでしょ。辛いだけ」

 そこで、俺はようやく理解した。

 瑠香は、俺のことが好きなのだ。男女として、どうしようもないくらい。その苦しみに耐えられなくて、俺から離れたがるくらいには。

 でも俺は、それに応えてやれない。

「……瑠香、俺は、」

「なのにさあ!」

「うおっ……な、なんだ」

「なのにさあ、正ちゃんは別れろとか言うし! 私だって付き合えるなら正ちゃんと付き合いたいよ! できないから他の人と付き合ったんじゃん! なのに、なのにさあ……」

 瑠香がぐしゃぐしゃと髪をかき乱す。その目からはまた涙が滲み始めていた。

「……正ちゃんのことばっかり考えちゃうの。デート中も、正ちゃんといた方が楽しいんだろうなーって、ずーっと! ああしたいこうしたいって、正ちゃんとしたいことばっかりで……正ちゃんのこと忘れたくて付き合い始めたのに、これじゃあ意味ないじゃん。もうやだよ……ただの友達じゃいやなのに、苦しいのに、付き合えなくてもいいから側にいたいとか思っちゃうんだもん……」

 瑠香は大声をあげて泣き出した。俺はといえば、それを止められない。

 心臓が早鐘を打っている。同じだ。瑠香も、俺と同じだ。結局誰と一緒にいても、相手のことばかり考えてしまう。相手以外に、一番が有り得ないのだ。

 駄目だ、嬉しい。頰の緩みが抑えきれない。

 俺は、もう気付いてしまっていた。俺たちは、二人一緒にいることでしか有り得ない。

「瑠香、抱きしめていいか?」

「…………はあ?」

 袖で涙を拭っている瑠香を、返事を待たずに抱きしめる。腕の中にすっぽり収まる彼女の全てが愛しくて仕方ない。この感情が愛じゃなかったら何を愛と呼ぶのだろう。俺のそれは彼女とは種類が違うだけで、きっと同じくらいの熱を持っている。

「なに突然……やめてよほんと、こういうの……無駄に期待させないで」

「期待していい。期待していいから、側にいてほしい」

「なにそれ……ひどい」

「瑠香が望むならなんだってするよ。望んだだけ全部叶えてやる。だから、俺から離れないでくれ」

「うー……」

 しばらく瑠香は俺の腕の中で唸っていたが、やがて、その手が俺の背中に回った。それを合図として、俺は一層強く瑠香を抱きしめる。

「ひどいよ正ちゃん……私が断れないのわかっててさあ……」

「ごめん。じゃあ、あいつと別れてくれるか?」

「しつこい……別れるに決まってんじゃん……別にそんな好きなわけじゃないし……」

「そうなのか?」

「他の男子よりは仲良いけど。告白されて、正ちゃんから離れるいい機会だなって思って……」

 その言葉に、少し安心する。瑠香の方から告白したんだったら、きっと許せなかった。

「そんなに俺から離れたかったのか?」

「当たり前じゃん。私たち、もう高校生なんだよ。そろそろ離れないと、きっとこのままずるずる引きずっちゃう」

「引きずっていいよ。引きずって欲しい」

「性格わるぅい……なんで好きになったんだろ……」

「考えすぎなんだよ。俺たちまだ高校生なんだからさ。本当に離れたくなったら、その時考えればいい」

「楽観的すぎ……」

 はあ、と大きなため息が聞こえた。そして、瑠香は俺から離れる。

「……なんでもするってさあ、ほんと? キスも?」

 じとっとした瞳で瑠香がこちらを見た。俺は勢いでとんでもない事を言ってしまったことに気付く。

「あー、いや、えっと……」

「……冗談だよ。そんな慌てなくてもいいのに」

 瑠香がちょっとだけ悲しそうな顔をするので、また傷付けてしまったかと思う。どう慰めたものかと考えていると、彼女が俺の鼻をつまんだ。

「その可哀想みたいな顔、やめて。ムカつく」

「……そんな顔してたか?」

「うん。……言っとくけど、自惚れられるのも今の内だからね」

「え?」

 目が真っ赤になっている瑠香が、いたずらっ子みたいに笑う。その姿がいつかの姿と重なった。

「いつか絶対、正ちゃんよりいい人を見つけるから。叶わない恋にいつまでも縋っていたくない」

「引きずるって言ったじゃないか」

「引きずるよ。引きずって、いつかそれを過去にする」

 そう言った瑠香はなんだか大人っぽかった。やっぱり、いつの間にか瑠香は成長してしまっている。今回はたまたま上手くいったけど、このままじゃ本当にいつの日か置いていかれてしまうかもしれない。

 でも、来るかわからないその日のことを考えても仕方ないだろう。そのことを承知で、俺はこの引き延ばしを選んだのだ。瑠香と一緒にいられる幸福は、そんな焦燥なんかに負けない。

「……なあ、瑠香」

「なに、正ちゃん」

「愛してるぞ」

「うわ、この流れでそういうこと言う?」

「瑠香は? 俺のこと好きか?」

 嫌そうな、というよりは呆れたような顔をして、瑠香が俺から視線を逸らす。

「……うん。好きだよ、正ちゃん。付き合ってほしい」

「……それは」

「愛してるとかいうくせにこんな言葉に即答できないから、正ちゃんはずるいんだよね」

 本当は俺だって即答したい。でもそうできるなら最初から瑠香を傷つけることなんてなかった。それに今俺が頷いたところで、瑠香は納得なんかしないだろう。

「でもいいよ。許してあげる。いつか後悔しても知らないからね」

「……善処する」

「なにそれ。……ああそうだ、そういえば、今日は映画館に行ったんだけどさ。今やってるアクション映画で面白そうなやつがあったんだけど、一緒に行かない? 正ちゃん好きだと思う」

 そう言って瑠香が俺の観たかったアクション映画のタイトルを言ったものだから、俺は思わず吹き出してしまった。離れていても、俺たちは似たようなことばかり考えている。

 吹き出した理由を尋ねる瑠香に曖昧な返事をして、俺は彼女の頭を撫でた。嬉しそうに細められるその瞳が愛しくて仕方ない。いつかまた、それが恐怖の対象になるとしても。

 幼くて守りたくなるような彼女はもういないけど、今目の前には、同じように愛しい瑠香がいる。それなら今は、それで良い。それで上手くいかなくなるまでは、俺なりの愛の形を届けよう。


 多分この先何回も、俺は瑠香を傷付ける。期待だけさせて裏切って、泣かせてしまうことだろう。でも残念なことに、俺はそれを嬉しく感じてしまう。瑠香が俺を想ってくれていることがどうしようもなく嬉しい。自分勝手だってなんだって、それで瑠香の特別でいられるなら構わなかった。

 それでいつか見限られたとしたら、それはそのとき考えよう。少なくとも、エンドロールはまだ流させない。俺たちの結末は先延ばしだ。

 なにせ、俺たちはまだ高校生なのだから。

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