第5話 その先に

夜の帳が、ゆっくりと京の都を包み込む。

橙色と藍色がせめぎあい、空はまるで染料を流し込んだように鮮やかに染まってた。


遠くでひぐらしが鳴く。

垂らされた御簾の内で、葵はぐったりした表情で座っていた。


「あっつい…」


女房達によってしっかりと着せられた小袿に思わずそう呟く。

日中よりはましになったが、相変わら都特有の重くじめじめとした熱気がうっとおしい。加えて熱の籠るこんなものを着せられては、思わず愚痴が零れても仕方ないだろう。

しかし着る着ないの女房達との押し問答に負けてしまった自分は、この熱さを受け入れるしかなかった。


(こんな日じゃなければ、今すぐこの衣裳なんて脱ぎ去ってしまうのに)


日が沈み、夜の気配がすぐそこまで来ている。

ああもうすぐ相手が到着する時刻だろう。

今日が終わる。あれだけ空高く伸びていた入道雲はひっそりと姿を潜め、たなびく薄雲がゆっくりと空に揺蕩う。


いつまでそうしていただろう。

突如として燈台とうだいの灯りが揺れ、遠くで牛のいななきが響く。

やけに大きく聞こえたそれは、この屋敷への客人の訪問を示していた。


(ああ、こられた)


少しだけ早くなる胸を押さえながら、葵は居住まいを正した。

女房達によって美しく整えられた髪は濡れ烏のように艶を放ち、今日のためにと両親が誂えた衣装はまだ硬く、涼し気な色に染められていた。


(何を話せばいいのかしら)


そういったものは殿方にお任せしておけばいいのです、と女房達は言ったが、さすがに興味なさげにただ座っているのもどうかと思う。


暫くして、遠くから簀子すのこを踏みしめる音と衣ずれの音が近づいてきた。

足音は二つ。一つは女房のもの。そしてもう一つは。

それは葵の部屋の前でぴたりと歩みを止めた。

先導してきたのであろう女房が何かを話している。やがて何かを相手に告げると、女房は足早にその場を離れていった。


しばしの沈黙が流れる。まるで永遠のように長い沈黙に、胸の底から何かが湧き上がってくる。

その沈黙を破ったのは、御簾の向こう側だった。


「はじめまして。姫君」


低い、優しい声が葵を呼んだ。


「はじ、めまして」


緊張で少し上擦った声に自分自身驚きながら、それでも動揺を悟られまいと必死に平然を装う。

声の主は、ゆっくりと御簾の前に腰を下ろした。


「そういえば文を送ったのですが」


ぎくりと肩が跳ねる。

そういえば、今朝方女房が文が届いていると言っていたような。


「どうもお返事がいただけてないようで」


すこし意地の悪い責めるような物言いに、葵は肩を小さくした。


「ごめんなさい。その…」


段々と語尾が小さくなる。朝からばたばたと今日の支度で慌ただしくしてしまい、返事をする時間がなかった。というか文が来ていたことも今の今まで忘れていた。

すると声の主は小さく噴き出した。


「すみません。少し意地悪をしてしまいましたね」


再び深い沈黙が訪れる。

何か話題をと葵がぐるぐると思考を巡らせていると、再び男君が口を開いた。


「姫君」


「はっはい」


「私はあなたを大切にしたいと思っております。何を言われようが何を思われようが、これは違えることのない本心です。ですから姫君もどうか、私をお許しくださいね」


(許す…?) 


その言葉が、心の端に引っかかった。

一体何を許すというのか。

まさかこの縁談には自分の知らない、何か深い理由があるのだろうか。父から今自分が得ている情報は、この声の主が年上の貴族だということ。

まさか当人である自分の考えの及ばぬところで、何かが秘密裏に動いているとでも言うのだろうか。


「それは一体、」


しかし口を開いたその瞬間、目の前の気配が近づき、御簾が揺れた。


「!」


この後何が起きるのか理解した葵は、咄嗟に袖で顔を覆った。

燈台の灯りが大きく揺れ、ふわりと御簾が持ち上がる。同時に、少しひんやりとした空気が御簾の内に流れ込んだ。


「い、いきなり入ってこないでくださいませ!一体どういう神経していらっしゃるの?」


その言葉に、御簾の内に入りかけた男の動きが止まる。


(あ…)


さっとそれまでの熱が一気に引き、背筋に冷たいものが走った。

しまった。つい、失礼なことを。

しかし男君は少し笑ったかと思うと、その腕を伸ばした。


「へ…!?」


男君の手が葵の耳に触れる。

一体何が起きているのだろうか。情けない声をあげながら、葵はどうしたらいいか分からず、袖で顔を覆ったまま石のように固まった。

驚きと恥ずかしさとよくわからない感情が入り混じり、自分の心を掻き回す。

自分の耳付近でわさわさと動くそれは、何やら髪をかき分けたり耳に触れたりと、少し楽しんでいるようにも思える。

もう訳がわからない。一体何なのだ。


真っ赤に固まる葵を気にも留めず、やがて男君は嬉しそうにその手を離した。


「ああ、やはり貴女にはそれが良く似合う」


遠いあの夏の、爽やかな香が聞こえた。

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たまゆらの季節を憶う 古結 灯 @suzuno0303

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