3.噛み合った偶然
「そろそろ時間ですが……司令、本当によろしいのですか?」
「貴官も分かっているはずだ。“よろしい”わけがない。だが、あの馬鹿がなにを言っても聞かんのだ。これ以上は、もうどうしようもない」
サラエボ市内に設置されたオーストリア軍舎で、現地駐留軍の司令官アーペルが、吐き捨てるように言った。
“あの馬鹿”とは、無論ボスニア総督、ポチョレックのことである――
「……ですから総督、せめてパレードの道沿いに警備の兵を配置すべきです! 警察だけでは、十分な対応など……」
「当日は街を挙げて皇太子夫妻を歓迎せねばならん。通りに武装した軍人などが並んでいたら、善良な市民がおびえてしまうだろうが」
「しかし、テロリストからしてみれば、まさにその市民に紛れて……」
「ほう……」
ポチョレックは、アーペルのその言葉に意地の悪そうな笑みを浮かべた。
「するとなにかね、司令。貴官は普段、テロリストが街中をうろつくのを放置しているというわけか? 職務怠慢も甚だしいとは、このことだな」
「っ……」
「だいたい少しばかり中央が長かったからといって、なにか勘違いしているのではないか? そもそも、皇太子夫妻の歓迎式典に、単なる一軍人が口を出すだけでもおかしいのだ。その上自分の無能を棚に上げて、わしの計画に文句をつけるなど、思い上がるのもいい加減にしておけ!」
この男は、いったいなにを言っている……? そう思わずにはいられないアーペルだった。職務怠慢もなにも、治安の総責任者はポチョレック自身なのだから。
「これ以上の余計な口出しは許さん。皇太子夫妻には、ボスニアの完璧な統治をご覧いただかねばならんのだ。こんなくだらんことを言いにくる暇があったら、ディナーにお出しするワインの検討でもしておれ!」
(結局、それが本音か……)
皇太子の覚えをめでたくして、後々の中央での栄達を図る。この男の頭には、そのことしかないようだ――
「しかし、それにしても、なにも今日でなくとも」
「まったくだ。まさかご夫妻の結婚記念日とはな。恐ろしい偶然もあったものだ」
「本当に、このまま事を進めてよいのでしょうか……?」
部下の懸念は、アーペルにもよく分かる。今日、六月二十八日は、十四世紀末、当時の旧セルビア王国がオスマン帝国との最後の決戦に敗れた、セルビアの民族的“記念日”なのである。以後、五世紀の長きに渡り、セルビアはオスマン帝国の支配下に甘んじることになる。
反オーストリア感情うずまくこの街を、わざわざそんな民族意識の高まる日を選んで訪問するという。ウィーンの官僚どもはなにを考えているのか、正気を疑いたくなる話だったが、その裏にそんな事情があったというわけだ。
「だから、せめてパレードの車に同乗する警備だけは、軍の選りすぐりをあてがうことを許可してもらった」
「おお、それであれば……」
「軍歴、忠誠心いずれも申し分ない、精鋭中の精鋭達だ。いざとなれば、自分の身を盾にしてでもご夫妻をお守りするだろう。あとは、全てを彼らに託すしかない」
その時、廊下を慌ただしく走る音が聞こえた。
「た、大変です、司令!」
ドアのノックすらせず、部屋に駆け込んでくる一人の士官。普段ならば叱責どころでは済まない失態だが、この日ばかりはアーペルもそんなことを気にしている余裕はなかった。
「どうした、なにかあったのか!」
「たった今、現地から連絡が……。護衛に送り込んだ兵たちが、パレード車に同乗できなかったと……」
「なんだと!?」
「既に、パレードは出発しております! ポチョレック総督より、兵たちは駅での待機を命じられているとのことで……」
「あの、大馬鹿がっ!」
日付のことといい、総督の立場にある人間のこの無能さといい……。
なにか得体の知れない力によって、全てが最悪の結末へと誘導されている。そんな不安を、部屋にいた全ての人間が、覚えずにはいられなかった。
そして、その不安は的中する。
同刻、パレードを見物する多くの市民で賑わうアペル・キュー通りで、爆弾テロが発生していた。
ロストンゲリーの青いバラ @ShidoMido
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