2.終着点
「ポーッ」という長い汽笛。女性は、はっとしたように車内に視線を戻した。汽車に揺られ、車窓の風景を眺めているうちに、いつの間にか放心していたようだ。
「じきに駅に着くようだよ。昨日も慌ただしかったからね。疲れてはいないかね?」
「……ええ、大丈夫です」
目の前の男性の口調には、控えめではあっても確かな親愛の情が込められている。
男性に余計な気遣いをさせてしまった自分を恥じながら、努めて明るい笑顔で返事をする女性。とはいえ内心では、いささかの疲労は否めないところだった。
肉体的なものではない。この旅も五日目になるとはいえ、夫である男性は、妊娠中の女性に常に気を使ってくれている。
「でも、本当に良かったのですか。私が同行してしまって?」
「またその話かね? 今回は軍の
二人は、結婚して十四年になる。しかしその間、女性が公の場で男性と行動を共にすることは、ほとんどなかった。理由は二人の生まれ持った身分の差である。
ただしこの女性、ゾフィー・ホテクとて、チェコの伯爵家の出身であった。ゾフィーをしてそのような扱いを受けねばならない家系など、欧州広しといえどもそうあるものではない。
男性の名は、フランツ・フェルディナント。
その家系を
オーストリア・ハンガリー二重帝国の次期皇帝として、「大公フェルディナント」とも呼ばれる人物だった。
「……そうでしたね。すみません、何度も同じことを」
「いいんだよ。せっかくの旅だ。君も少々羽を伸ばすと良い」
この日は、二人の結婚記念日でもあった。周囲からの祝福もなく、不憫な宮中生活を送ってきたゾフィーに、せめてこの日ばかりは心穏やかな時間を過ごしてほしい。そのために、少々の無理を通してこの旅に自分を同行させたのだということは、ゾフィーにもよく分かっていた。
「現に、陛下からの反対もなかっただろう? 肩書というものは、こういう時に使うものだよ」
「まあ、あなたったら……」
「君は、
「……はい、あなた」
今回の旅は、フランツの陸軍閲兵長官、すなわち全軍司令官としての公務である。
ハプスブルク家の継承者としてではなく、軍司令としてのフランツに、妻が同行して悪い理由があるだろうか? それが、この旅にゾフィーが同行できた理由だった。
もちろん詭弁であり、それがゾフィーの精神的な疲労の原因でもある。とはいえ、宮中の不興を買ってでもその無理を通し、今もここまで自分を気づかってくれる夫の好意に、ゾフィーの心にも暖かなものが広がっていた。
再び、長い汽笛の音が鳴った。
スピードを落とした汽車が、駅構内にゆっくりと滑り込んでいく。今回の旅の終着点でもある街への到着だった。
街の名は、サラエボ。
オーストリア・ハンガリー二重帝国領、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ州、第一の都市である――
「……ようこそいらっしゃいました、皇太子殿下」
「総督、世話をかける。今日はよろしく頼む」
「ははっ、なんなりと。皇太子妃殿下におかれましても、ご機嫌麗しく……」
「ええ……。よろしくお願いしますね、総督」
「お任せください。総督府一同、非才の限りを尽くしてお二人の滞在を歓迎させていただきます」
これ以上ないほどのうやうやしさで、汽車を降りた二人を出迎えたのは、ボスニア総督、ポチョレック将軍だった。
ゾフィーとしては、逆に面食らった思いである。ゾフィーと結婚したことで、フランツですら皇太子と呼ばれることはほとんどないのだ。ましてや、ゾフィーが皇太子妃などと呼ばれることは、首都ウィーンではありえないことだった。
「どうぞ、こちらへ。お車の用意ができております」
「……将軍」
自分たちをエスコートしようとしたポチョレックに、一人の士官が近寄り、何事かを耳打ちしている。
「くどいぞ、馬鹿もんが。さっさと配置につかんか!」
「どうした、総督。なにかあったのかね?」
「い、いえ、なんでもございません。ささ、どうぞこちらへ……」
案内された先に用意されていた六台の車列。いずれもこの時代の欧州では珍しい、オープンカーだった。
「これは壮観だな、総督」
「はっ、恐れ入ります」
「ただ、警護の点は抜かりないのかね? 今日は妻も同行しているのでな」
「もちろんでございます。ボスニアの統治は万全でございますれば」
「……そうか、そうだな。総督がそういうのであれば……」
今回の訪問は、ポチョレックが自身を次期皇帝にアピールする、またとない機会であった。妻ゾフィーをことさら丁寧に扱ってみせるのも、そういった思惑あってのことである。
そんなポチョレックにとって、やれオープンカーは危険だの、やれ軍を街頭の警備に動員すべきだの……そのような部下の戯れ言は、一顧だに値しない。そんなことをすれば、自らの統治能力に問題があると言っているようなものではないか。
先程の士官にしても、いずれ厳重な処罰を課さねばならないと、ポチョレックは内心怒りに震えていたほどだった。
……こうして、夫妻を乗せた車列が、サラエボ市内を東西に横切るミリヤッカ河沿いの“アペル・キュー”通りを出発する。
一九一四年、六月二十八日、午前十時。
後に「歴史の転換点」「二十世紀のはじまり」などと称される悲劇が訪れる瞬間まで、すでに一時間を切っていた。
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