ロストンゲリーの青いバラ

@ShidoMido

一.史実

1.ベオグラードの密会

 セルビア王国は、バルカン半島中西部に位置する内陸国家である。

 その夜、首都ベオグラードの市街が、突然の雷雨に見舞われた頃のことだった。

 

「これは……驚きました。わざわざこのようなところまで」


 セルビア王国陸軍情報局長、ドラグディン・ディミトリエビッチ大佐の邸宅に、予想外の人物の来訪があった。時刻は、既に午後九時をまわっている。


「議会の方はよろしいのですか? ご苦労は、お察しいたします」

「まったくだ。本来なら、こんなことをしている場合ではないのだよ」


 その言葉どおり、来訪者の顔には明らかな疲労と苛立ちの色が見える。普通であれば考えられない人物の、夜中の突然の来訪にも関わらず、にこやかな笑顔を崩すことのないディミトリエビッチとは、対照的だった。


 来訪者、ニコラ・バシッチは、セルビア王国の現首相である。

 現在、セルビア議会は混乱のただ中にあり、この前日には、近日中の議会の解散を約する布告が出されたばかりだった。そんなタイミングで、首相という立場にある人間が、秘密裏に一軍人への面会を求めるなど、尋常なことではない。


「まずは、お上がりください。大したおもてなしはできませんが」


 その僅かな立ち話の間にも、間断なく鳴り響く雷鳴。

 この季節には、珍しいことだった。



「それで、本日はいったいどのようなご用件でしょうか?」


 スタンドランプの頼りない明かりが、机を挟んで向かい合う二人を照らしている。バシッチが引き連れた僅かな護衛役も、今は席を外していた。


「議会の維持にお力添えできるようなことは、なにもございませんよ?」

「当然だ。君にそんなことを期待するはずがなかろう。君としては、私が邪魔で仕方ないのだろうしな」

「……はて? とんと心当たりが……」


 二人がこのように直接言葉を交わすのは、これが初めてである。ただし、お互いのことはよく知っていた。ディミトリエビッチが首相のバシッチを、というだけではない。バシッチのほうも、ディミトリエビッチのことを、よく知っていたのだ。


 ディミトリエビッチには、陸軍大佐の他に、表だって知られてはいない、別の肩書がある。

 セルビア民族主義を標榜する秘密組織、“黒い手”。テロ行為にすらなんらのためらいを持たない、急進的なその組織の指導者こそが、ディミトリエビッチの裏の顔だった。

 現セルビア国王の治世は、クーデターによる前国王夫妻の惨殺によって定まったものだったが、その指揮をとったのも、他ならぬディミトリエビッチである。


「大佐。もはや化かし合いをしている状況ではないのだ。だからこそ、私はここにいる」

「おっしゃっていることがよく分かりませんが……とりあえず伺いましょう」


 その言葉に一度ため息をつき、かぶりをふった後、バシッチは続けた。


「……セルビアの民族統一と、正当な領土の回復。私とて、それを望まないわけがなかろう。これまで君たちに対して徹底した方針をとらなかったのも、私自身、君たちの考えに共感するところがあったからだ」


 そこで、バシッチの両目に強い光が宿った。まもなく七十歳を迎えるとは思えない鋭い双眸が、ディミトリエビッチに向けられる。


「ただ、このところの君たちのやり方は目に余る。特にボスニアについて、これ以上の干渉は容認できん」

「……君たち、というのがなにを指しているのかは、分かりかねますが」


 白々しい前置きを一つ挟んだ上で、ディミトリエビッチの顔からも、それまでの作り笑いが消えた。


「ボスニアの状況を、このまま黙って見守るなど、許されない」


 ボスニア――正確には、その南部一帯を含めた、一般にボスニア・ヘルツェゴヴィナとよばれる、セルビア王国西方の領域。

 膨大な数のセルビア人が居住するその領域が、大国間のエゴと妥協の結果、オーストリア・ハンガリー帝国に無理やり併合されたのは、今から六年前のことである。

 ディミトリエビッチのような急進的な民族主義者ならずとも、セルビア人のオーストリアに対する感情が、良かろうはずもない。しかし……。


「だからといって!」


 バシッチのこぶしが、机に強く打ちつけられた。


「オーストリア皇太子の暗殺。今そんなことをすれば、オーストリアだけではない、背後のドイツをも敵に回すことになりかねん。それがなにを意味するのか、分からんのか!」


 そのバシッチの剣幕にも、ディミトリエビッチにまるで動揺した様子はない。


「……貴様、狂っているのか? 陛下を手にかけても、まだ飽き足らず……」

「そこまでにしていただきましょう。それ以上は、お互いにとって不幸な結果となります」

「しかし、今オーストリアを刺激するのはまずい。それではボスニアどころか……」

「ですから、先ほどからなんのことを仰っているのか、分かりかねると申し上げております」


(だめか……)


 バシッチの胸に、絶望にも似たなにかが湧き上がる。


 ディミトリエビッチ率いる“黒い手”が、数日後に控えるオーストリア皇太子のボスニア訪問に合わせて、皇太子暗殺のテロを企図している。それが、潜入させた密偵からバシッチにもたらされた情報だった。


 バシッチからすれば、正気の沙汰ではないと思えた。次期皇帝の暗殺。それが、オーストリアの苛烈な報復を招くことは明らかである。


 今、ドイツの支援を受けたオーストリアと戦争にでもなれば、ボスニアの奪還どころか、セルビア王国自体の瓦解を招きかねない。目の前の男には、そんな簡単なことが分からないらしい。


 だが、この時のバシッチの考えには、二つの誤りがあった。


 一つは、ディミトリエビッチとて、そんなことは十分に理解していること。狂信的な原理主義者にとって、正当化された手段は本来の目的に優先する。その意味では、この夜、二人の間に和解が成立する余地など、はじめからなかったのだ。


 もう一つは、皇太子暗殺が引き起こす結果についてである。


 オーストリアとの武力衝突と、セルビア王国の崩壊。それが、バシッチの想像し得る限界だった。


 ……この点について、バシッチを責めることはできまい。


 バルカン半島で、僅か数人の人間の手によって引き起こされたテロが、欧州全体を巻き込む大戦へと発展。欧州秩序全ての破壊と、当時のセルビア総人口に十倍する死傷者を出す。


 そのようなあまりにも馬鹿げた破局を、この時点で予想できているものなど、どこにも存在しなかった。

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