八本杉の下の記憶
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八本杉の下の記憶
「あと…あと、1人で……」
俺は、血だらけになった体を引きずりながら、
山に帰る途中で、そう心の中で呟いた。
意識は、ほとんどない。
大きな体を懸命に動かし、
視界が朧げになりながらも、川の横を進んでいた。
雨の音に混じって、人の泣き声が聞こえた。
でも、振り返りはしない。
「俺だって、泣きたいよ。」
小さな声で呟いた言葉は、雨音に掻き消されて、誰の耳にも届かない。
そこには、木々が倒れていく重い音だけが、響き渡っていた。
住処に着くと、疲れや緊張、悲しさと言った負の感情から解放され、
気を失ったかのように寝てしまった。そして、夢を見た。
それは、嫌な夢だった。
見上げると、そこには悲しげな顔をした2人がいた。
顔は、鮮明ではない。
男女であることだけはわかるが、誰なのかもわからない。
ただ、2人から発せられている
悲しげな雰囲気だけは、察することができた。
その場にいて欲しくない。
そんな感情をひしひしと感じていた。
その直後、男が俺を持ち上げた。どこかへ運んでいく。
抵抗しようとするが、思うように体が動かない。
そこに女も遅れてやってくる。彼女は泣いていた。
俺の視線が、下がっていくのを感じた。
そして、地面に近くなったときに、男の腕とは違う感覚が身を纏う。
一定の間隔で浮き沈みしている。
そして視界から、2人が徐々に離れていった。
2人はもう、俺の方を見ていない。
どこかへ行ってしまったようだ。
2人と一緒にいた短い時間には感じなかった、
別の感情に心を奪われていた。
怖い。
不規則に揺れる俺の体は、抵抗もできないまま、どこかへ進んでいく。
どこに向かっているのか。そもそもどこかへ向かっているのか。
何もない世界で、たった1人、取り残されてしまった。
そんなとき、遠くの方から地鳴りが聞こえてきた。煙も上がっている。
「……?」
微かに見えたのは、緑。
それ以外は、白いもやがかかって、何も見えなかった。
地鳴りが続く。
その少し右から煙が上がった。
さらに地鳴り。今度は後ろだった。
地鳴りは、合計7回。俺はひたすらに恐怖した。
至る所で煙が上がっている。
しかしそれと同時に、遠くに多くの緑が見えるようにもなっていた。
そして、次の瞬間。最大の恐怖が、俺を襲う。
轟き。そして、視界が徐々に上がる。訳がわからない。
今まで遠くに、微かに見えていた緑が、広がって行った。
視界の上昇は止まらない。
恐怖で体が固まる。
「……?」
目は開けられない。
視界の上昇に耐えられない。安心を願う。
しばらくして、あたりが静まっていることに気がつく。
勇気を振り絞って、目を開けてみた。
そこで目を覚ました。
俺は、夢と同じ場所にいた。
体はまだ痛む。それほど寝てないらしい。
あたりは闇に包まれ、雨はもう止んでいた。
鳥の声が聞こえる。虫の音も。
体を動かす気にはならなかったが、
ひどく喉が渇いていたので、
いつもの泉まで体を動かした。
そして水を飲むために頭を泉に近づけたとき、ふと自分の顔が目に入った。
自分と同じ顔が、八つ。今ではもう驚きもしない。
耳の後ろまで裂けた大きな口。力をいれずとも見開いている目。
「来年で、こんな顔ともおさらばだ」
俺は小さく呟き、先が細く割れた舌を器用に使い、水を飲んだ。
この場所に来て、身を乗り出して水面に映った自分を初めて見たとき。
俺は衝撃を受けた。
そして、悟った。俺は捨てられたんだ。俺と彼らは、全く違った。
彼らの容姿は朧げにしか覚えていない。
しかし、確実に彼らとは違う姿形を持つ自分がいた。
目も、鼻も、口も。そして、体も。
俺は、葦で出来た船に乗っていた。
そして、その船は小さな泉の中に浮いていた。意を決して水に飛び込む。
そこは柔らかく、硬い世界だった。
体を包み込み、何かに守られている感覚。
それと同時に、さっきまで出来ていた呼吸を妨げられている感覚。
怖かった。
俺は船に向かって体を動かした。
船にはたどり着いたものの、思うように乗ることが出来ない。
仕方なく、緑を目指した。
ようやく緑にたどり着いたときに、俺は疲れて眠ってしまった。
そこで見た夢を、今でも忘れることはない。
何もない真っ白な世界。そこに1人の男が立っていた。
こちらを見ている。そして、ゆっくりと口を開いて、こう喋った。
「私の名は、ハヤアキツヒコ。そなたは、カミになりきれなかった、哀れな存在。」
理解できなかった。しかし、続ける。
「その存在は、神であることを疎まれ、不完全なまま、この世に生を受けてしまった。」
ただ、聞くだけ。口は開かない。
「欠落したものが全て揃ったとき、そなたは真の…」
それ以上は、覚えていない。
頭の中で、考えが蠢く。
体の底から蛇でも引きずり出せそうな、そんな気持ち悪さを感じた。
今の俺には、足りていないものがある。
今の俺は、誰にも求められていない。
俺だって、神になりたい。
俺を捨てた彼らと、一緒に暮らしたい。
暗闇の中で、同じ言葉が反芻し続けている。
その反芻はいつしか止まっており、俺は深い眠りについてしまった。
無数に体を打つ水滴で、目を覚ました。かなり強い。
水面には波紋も描かれない。きっと昼過ぎだろうに、あたりはとても暗く感じた。
俺は、とても腹が減っていた。
周りに、食べられそうなものはない。
仕方なく、泉を離れて食べ物を探すことにした。
泉を離れてようやく気がついたが、どうやら俺は山の頂にいたらしい。
いずれの道も、坂になっている。そのままひたすら下っていった。
体を打つ水は、次第に強くなっていった。
俺がいた泉に繋がる川に沿って進んできたが、その水勢は唸っていた。
「……」
水流の強さを思いながら、食べ物を探す。しかし、何も見つからない。
進む。それでも、見つかることはなかった。
失意の念が俺を襲った。
俺は、自分の飯でさえも、確保することができない。
何もできないやつ。だから…
どれくらいの時間が経っただろう。空腹が限界を超える。
目が真っ赤に充血し、鬼灯のような色をしていた。
とにかくなんでもいいから食べたい。そんな考えに、頭が囚われていた。
そのとき、それは目の前に現れた。それはもう、一瞬の出来事であった。
体の中で起きるうねりは、かつてないほどの活力を持ち、
水の中を進む魚のような速さで位置を変えていく。
それを飲み込むためだけにあると思われるほど大きく裂けた口を、
いまだかつてないほど開く。何も考えていなかった。
ただ、目の前にいたそれを食べたいと本能が言っていた。
腹が重い。まるで鉛を食べたかのような感情だった。
何を食べたのか。覚えていない。
俺は来た道をそのまま帰ろうとした。
空腹は満たされた。水の力は弱まっていた。後ろから何か聞こえる。
「……ヒメ…!」
俺は、神を喰らったのか。
真っ赤に充血した目は、いつしか元の透き通った色に戻っていた。
頭の中は凛としている。不思議と、雨の音は聞こえなかった。
ただ、自分の声だけが響き渡っていた。
「神を喰らえば…俺は…」
轟々と流れる川はいつしか鎮まり、美しい流れを取り戻していた。
遠くの山に、光が指していた。
雲の切れ間から見えたその光を、どこか羨ましく思う。
泉に帰ってくると、また眠気が襲ってきた。今度は疲れでは無い。
どこか心地のいい眠りが、俺を誘う。
俺はそのまま、逆らうこともなく、静かに目を閉じた。
暖かな日差しで目を覚ます。
眼前に広がる世界に、心を奪われた。
とても美しいと思った。
まばらだった緑に、赤や黄が混じり、命を感じさせた。鳥が鳴いている。
その光景を前に、しばらく動くことができなかった。
あれだけ重かった腹が、もう軽くなっている。
一体、どれだけの時間、眠っていたのだろうか。
きっと、想像もできない時が経過したのだろう。
空腹を感じ、俺は坂道を下って、食べ物を探しに動いた。
山々から緑が減り、少し肌寒くなった頃。
俺は満足な食事ができていたおかげもあり、体が大きくなっていた。
移動するのも一苦労である。あれからもう1年ほど経つのだろうか。
あのときに感じた腹の重さを、感じることはなくなっていた。
満ち足りなさを感じる自分がいる。
ふと頭の中をある考えが横切る。
それはちょうど1年前に考えていたことだった。
カミ。
その響きに魅せられるが、実感のない日々だった。
片隅に終って置いた感情だったのかもしれない。
それ以上考えるのをやめて、俺は泉に帰った。
その日は、突然来た。
雨が降っていた。とても強い雨である。
あの日と同じ、全てを掻き消さんとする豪雨が、俺を包んだ。
そのとき、俺は何も考えずに山を降り始めていた。
感情の昂りを抑えられない。頭と体が完全に切り離されている感覚だった。
あの場所を、あれを、俺の体が求めている。
それはもう、本能だったのかもしれない。
自分では気がつかなかったが、あのときと同じ、鬼灯色の目をしていた。
気がついたときには、全てが終わっていた。
あの場所。あの匂い。
全身が反応し、瞬く間に全てが片付き、
俺は山へと帰っていた。
なぜか、頭は凛としている。
この1年間で、多くのものを喰らってきた。
俺の体は、そこらにある何よりも、きっと大きいに違いない。
でも、また思い出した、この腹の感覚。
鉛を喰らったかのような重さ。
微かに蠢くその感触は、泉に近づくにつれて小さくなっていった。
この感情がなんなのかはわからない。
嬉しさは、そこには存在していなかった。
ただただ俺は、今を変えたいと思っていた。
そして、7年の月日が経った。
体の重さは何物にも例えがたい。
一度動けば、地鳴りがするだろう。もはや痛みさえ伴っている。
そんなことを思って、来る年も、あの日以外は体を動かすのをやめた。
動かなければ、力を使わずに済む。
痛みを伴わなくて済む。
ただ安らかに、泉のほとりで、時間を使うだけの日々だった。
俺の体にも、緑を感じるようになった。
小さな命を、たくさん養ってる感覚。
俺自体が、新しい命の源になっているとまで、感じるようになっていた。
その考えは嫌いではなかった。
動かずに、全てを眺めるだけの日々も、幸せに感じていた。
でも、心にある小さな穴は、決して埋められることはない。
「あと、1人で、俺も…」
来るときに備えて、今日もまた、目を瞑る。
全てが終わる日。
体を打ち付ける雨を、どこか待ちわびている自分がいた。
高揚感にも、不安感にも、焦燥感にも似た、何かを感じていた。
心臓の脈打つ音が、次第に早くなっていく。
そして俺は、最期を迎えるため、泉を離れた。
動く度に、周りの木々が倒れる音がする。
ちょうど1年ぶりに動いた。
重い体を引きずる際にできる傷は、
もう治ることはない。
痛みも感じる。
しかし、その痛みを超越する何かが、すぐそこに迫っている感じがした。
それに近づいていることを、体が覚えている。
頭では何も考えていない。全て体の赴くままに、動く。
しかし、体が止まる。
いつもとは違う匂いがする。
それの匂いではない。
鼻を通り、体を串刺しにしたような、鋭い匂い。
それでいて、嫌悪感はない。
むしろ、気持ちのいい香りだ。軽く身震いをした。
それとは違う匂いだったが、
自然と匂いの正体に近づいていった。
いや、惹き付けられたというのが正解だろうか。
それは液体だった。
水ではない。
水のように見えるが、とても熱い。
口につけると熱くないが、飲むと腹に到達するまでに温度が上がっている。
「初めて飲む水だ」
その匂いと、不思議な性質に魅せられて、止まることなく飲む。
もう、何も考えられなくなっていた。
不思議と、視界が歪んだ。
あのときと同じ感覚だった。
あの2人が俺を見ているとき。
そこから逃げ出そうとしたとき。
俺ではなく、世界が動いているように見えた。
まぶたが重くなってきた。
少し休もう。それは、またあとでもいい。
今はただ、動きたくないという思いが強い。
鬼灯色の目を閉じかけたとき、微かに見えたものがあった。
人だった。
長い髪と、長い髭。
大柄の男のように思えた。
彼は、笑っていた。
不気味に笑ったその顔を、忘れることはないだろう。
そして、俺の閉じた目が、2度と開くことはなかった。
神になることは、できなかった。
あと1人、それを食べていたら、
もしかしたら神になれたかもしれない。
それはきっと、剣の神だ。
剣の神となって、たくさんの敵を倒す。
そして、あの2人と一緒に暮らしたい。
きっと暮らせたはずだ。
俺の上には、大きな杉の木が植えられている。
今はもう、暗闇の中から、
こうして世界を見ることしかできない。
彼らに会うことも、できなかった。
でも、もういいんだ。
痛みからも、苦しみからも、解放された。
本当は嫌だったんだ。
毎年、それを食べたあとに、同じ泣き声が聞こえた。
辛かったんだ。
でも、もう、これで終わりだ。
自らの動きで、血を流すことも無くなる。
意識からも、解放されてきた。
これで。
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